受講生のみなさまのお声
例の如く、というのは情けない事ながら、久しぶりの更新。
今日(すでに昨日)30日金曜日は、NHK文化センターに出講。
大阪での受講生の方が、ブログについてコメントして下さって、「更新していませんね」とのこと。
見ていただいているのに、更新されていないというのは申し訳ないこと。
そういう「見ているよ」というレスポンスが、こういう更新の何よりのモチベーションになるのです、
ということで、いまさらながらの更新。
今日は『歎異抄』は17条。辺地往生をするものはついには地獄に行くのだ、という義についての一条。
親鸞聖人にとって、「疑心を抱えながらも辺地に往生する」ということは、「懲罰的な、救いからもれた往生」という意味ではなく、「救いからもれようとしているものをも救う」という意味―すなわち慈悲の顕現としての意味があったのではないかというようなことを考えつつ読む。
とはいえ、仏教の枠内での議論に終始してしまうことが多く、身近なところに引きつけてまで考える余裕が少なく、受講者の人には、聞いていてちょっと負担の大きな内容になってしまったのではないかと反省。
今回で36回目。ちょうど丸3年になったところ。
次回18条やって、後序。
いよいよ最終局面である。
今日(すでに昨日)30日金曜日は、NHK文化センターに出講。
大阪での受講生の方が、ブログについてコメントして下さって、「更新していませんね」とのこと。
見ていただいているのに、更新されていないというのは申し訳ないこと。
そういう「見ているよ」というレスポンスが、こういう更新の何よりのモチベーションになるのです、
ということで、いまさらながらの更新。
今日は『歎異抄』は17条。辺地往生をするものはついには地獄に行くのだ、という義についての一条。
親鸞聖人にとって、「疑心を抱えながらも辺地に往生する」ということは、「懲罰的な、救いからもれた往生」という意味ではなく、「救いからもれようとしているものをも救う」という意味―すなわち慈悲の顕現としての意味があったのではないかというようなことを考えつつ読む。
とはいえ、仏教の枠内での議論に終始してしまうことが多く、身近なところに引きつけてまで考える余裕が少なく、受講者の人には、聞いていてちょっと負担の大きな内容になってしまったのではないかと反省。
今回で36回目。ちょうど丸3年になったところ。
次回18条やって、後序。
いよいよ最終局面である。
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