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報恩講2012 第二日目 「恩」について2

報恩講二日目。 本日の御講師も、先輩であり、上司でもある武田先生。 冒頭に「報恩講」の「報恩」について、自分がお念仏する生き方をいただいていくことが、阿弥陀如来からいただいたご恩、親鸞聖人のご恩に報いていくことになると、昨日の西先生のお話と異口同音のお示し。 二日間、違った先生から同じことを、お教えいただくと、なにかぐっとくるものがありました。 今日は、「お念仏」と「他力」についてのお話。 お聴聞して思ったことなど。 ちょうど、うちの娘さんは1歳半を迎えました。 いろんな言葉を覚え始める時期のようで、 なんとなく「ケータイ」とか、「クツシタ」とか、それらしい言葉が、口をついて出てくるようになりました。 今日は、家族のものが「たいへんだ」といったら「タイヘン、タイヘン」と言いました。 けれどもまだ肝心の言葉がでてきません。「おとうさん」「おかあさん」とはいえないのです。 妻も僕も、「おとうさん、おかあさんは?」と、早く言って欲しいなぁと、娘に呼びかけています。 おそらく、そのうちに「おとうさん」「おかあさん」らしきものを言ってくれるのではないかと期待しています。 ところで、娘が「おとうさん」「おかあさん」と言った姿について考えて見ると、 確かに、「娘が親を呼んだ姿」ではありますが、それは同時に、「親の呼んで欲しいという願いが届いた姿」でもあるわけです。 「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」「おかあさん」と呼んで欲しいと、そのように呼びかけていますから、おそらくは、「おとうさん」「おかあさん」と呼んでくれるのではないかと思っています。それに反して、「パパ」「ママ」と呼ばれたら、ちょっとがっかりするかも知れません。 ただ呼んでくれ、というのではなく、「このように、私たちを呼んで欲しい」という願いが届いた姿が、娘の私たちに対する呼びかけになるのでしょう。 私たちが口にする、親鸞聖人の教えの要である「南無阿弥陀仏」の念仏も、 「私たちが阿弥陀仏という仏を呼ぶ声」であると同時に、 「南無阿弥陀仏と呼んで欲しいと願われた、仏の願いの届いた姿」、「お念仏の教えを受け止めて欲しいと、教えてくださった親鸞聖人の願いが届いた姿」であるのです。 念仏するはずのない自分が、念仏する身になっている。 自分にはあるは...

報恩講2012 第一日目 「恩」について

自坊の報恩講法要。 先輩であり、職場の上司でもあり、いろいろとご縁の深い西先生にお取り次ぎ(ご法話)いただいた。「報恩」ということと、親鸞聖人晩年の息子・善鸞さんとの義絶(親子の縁を切った出来事)について、お話をいただいた。  お聴聞しながら、思いだしたこと、思っていたこと、考えていたこと。  恩ということについて。  ある人が、「恩とは返すものではない。想うもの、嚙みしめるものだ」といわれていたのを思い出した。「返したからチャラ」という程度のものは、本当に「恩」というべきほどのものだろうか。返しても返しきれないほどのものを恩としてうけているのではないだろうか。  そもそも、僕たちは、どれほどの「恩」を受けて今ここにあるのかということを、すべて数え上げ、知り尽くすことができるのだろうか。(もちろんできないという意味だ)  恩とは、見えないものだ。ふとしたときに、自分にどれほどの思いが向けられていたのかを知る。どれほどの配慮の中で、ふるまいをつづけていたのかを知る。その瞬間、瞬間に知ることができず、あとから恩恵を受けていた、受け続けていたのだと知る。ということは、いまもなお、見えない、知っていない恩恵を受けている可能性があるのではないか、いや、確信的に、「受けているに違いない」といってもいいだろう。    仏教を、特に真宗を考えていくと言うことは、「見えないものを見る眼を得ていくこと」ともいえるのではないかとも思う。「見えないもの」とは、オカルト的なものではなく、目に見えない、「恩」とか「願い」をどれだけ自分が受けているかということに気づかされていくことではないかと思う。    もうすこし言葉を重ねれば、知り尽くすことのできないなにかに、わずかばかり気づき、気づいたものよりも圧倒的に多くの気づき得ないものの存在を知らされていく、そんなことではないかと思う。

問いと課題を持つこと

午前中の大学での講義。 受講生4名のところ、教室にいたのは1名のみ。 なにか行事ごととかさなってしまったのか!?  発表者もこないという、尋常ならざる事態ながら、その一人の学生の、「いまさらながらなんですが、”南無阿弥陀仏”って、どういう意味があるんですか」という質問から、いろんなことを深く考えることのできた時間になりました。  そんな中で、ふと気づいたことは、「問いをもつこと」「課題を持つこと」は学びにおいてやはりとても大事だという実感。 その学生さんの「質問」がなければ、そこまでの話をすることもなかっただろう。 その「問い」を持たなければ、どれだけおもしろい話も脈絡のないものになってしまう。 問いがあることで、深く、広い問題にコミットできるし、提示された知識が身についていくんだろうと思った。 いってみれば、あたりまえのことですが。 なんとなく、やっていてはだめだった、ということを反省した次第。

光陰如矢

時間のたつのが早い。 特に、大学の後期が始まって、一週間のルーティンに出講が入ってくると、それをこなしていくだけで、一週間の何割かが終わってしまう。 思うように仕事も、勉強も進んでおらず、たまっていく一方。 なんとかしないといけない。 自戒を込めて書いておこう。

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