報恩講二日目。
本日の御講師も、先輩であり、上司でもある武田先生。
冒頭に「報恩講」の「報恩」について、自分がお念仏する生き方をいただいていくことが、阿弥陀如来からいただいたご恩、親鸞聖人のご恩に報いていくことになると、昨日の西先生のお話と異口同音のお示し。
二日間、違った先生から同じことを、お教えいただくと、なにかぐっとくるものがありました。
今日は、「お念仏」と「他力」についてのお話。
お聴聞して思ったことなど。
ちょうど、うちの娘さんは1歳半を迎えました。
いろんな言葉を覚え始める時期のようで、
なんとなく「ケータイ」とか、「クツシタ」とか、それらしい言葉が、口をついて出てくるようになりました。
今日は、家族のものが「たいへんだ」といったら「タイヘン、タイヘン」と言いました。
けれどもまだ肝心の言葉がでてきません。「おとうさん」「おかあさん」とはいえないのです。
妻も僕も、「おとうさん、おかあさんは?」と、早く言って欲しいなぁと、娘に呼びかけています。
おそらく、そのうちに「おとうさん」「おかあさん」らしきものを言ってくれるのではないかと期待しています。
ところで、娘が「おとうさん」「おかあさん」と言った姿について考えて見ると、
確かに、「娘が親を呼んだ姿」ではありますが、それは同時に、「親の呼んで欲しいという願いが届いた姿」でもあるわけです。
「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」「おかあさん」と呼んで欲しいと、そのように呼びかけていますから、おそらくは、「おとうさん」「おかあさん」と呼んでくれるのではないかと思っています。それに反して、「パパ」「ママ」と呼ばれたら、ちょっとがっかりするかも知れません。
ただ呼んでくれ、というのではなく、「このように、私たちを呼んで欲しい」という願いが届いた姿が、娘の私たちに対する呼びかけになるのでしょう。
私たちが口にする、親鸞聖人の教えの要である「南無阿弥陀仏」の念仏も、
「私たちが阿弥陀仏という仏を呼ぶ声」であると同時に、
「南無阿弥陀仏と呼んで欲しいと願われた、仏の願いの届いた姿」、「お念仏の教えを受け止めて欲しいと、教えてくださった親鸞聖人の願いが届いた姿」であるのです。
念仏するはずのない自分が、念仏する身になっている。
自分にはあるはずのないものが、いまここにある。
そこに、しみじみ恩を感じていくことができるというのは、念仏の味わいのひとつではないかと思います。
箸や鉛筆の持ち方ひとつにしてもそう。
もしも、ちゃんとお箸や鉛筆を持てるのだとしたら、
「このように、ちゃんとお箸を持てるようになって欲しい」「鉛筆を持てるようになってほしい」というような、だれかの願いがきっとそこにはあったはず。
仏教や、浄土真宗の教えと向き合っていくということは、
別段オカルトチックなことではなく、
そんなふうに、身の回りにある、何かの思いに目を向けていけるようになることなのだろうと思うのです。
もちろん、すべてのものを汲み尽くせるわけではないので、
「すべてを汲み尽くして感謝していきましょう」ということではなく、気づいたもの以上に圧倒的に多くの気づき得ないご恩があるのだ、ということでもあるのですが。
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