テラハとその後、自分にとってのあの場所との「これから」
【テラハとその後。事故と事故現場との向き合い】
昨日、テラからはじまるこれからのハナシ。の4回目を開催しました。
テーマはすでに紹介していたように、JR福知山線の脱線事故。詳細はまたお話ししたいと思いますが、この企画によって、自分自身が地域にあるあの事故の現場とちゃんと向き合う気持ちをもてたように思います。
私は、事故現場にある追悼の場所・献花場に足を運ぶことはできていませんでした。軽々に足を踏み入れては行けない場所であるような思いと、はたして自分はそこにいくことができるような資格があるのかという思い、どれもそうであるようで、どれもぴったり完全に一致するのではないような、なんともいえないような思いをもっていました。ただ、はっきりといえるのは、結果として足を運ぶことができなかったということ。
ただ、このテラハを企画したことで、事故について触れ、語るには、この企画を言い出した責任の一つとして、あの場に立たねばならない、あそこに行かないといけない、そんな思いがおこっていました。そのようなこともあり、(のびのびになっていたのですが)開催当日(3/4土)、献花場に手を合わせる時間を持ちました。持つことができました。
そこに足を運んでいくときも、緊張感か、なんともいえない思いを感じていました。それは、その場所の空気だったように思います。そこだけ、地域の日常から切り離されたような空気感がありました。
24時間警備員の人がいて、JRの職員さんもいて、おそらく遺族の方にもそうされているのであろう、深々としたお辞儀をされました。
なんともいえない思いをもって、献花台の前に立ち、手を合わせました。
たくさんのお花、そして立てられたお線香と、炭の入った香炉。ずっとお線香は絶やされることなく焚かれ、またお焼香の炭は常に火を保っていたのだろうと容易に想像ができました。
あれから12年近く。この追悼の場所ができてから、ずっとこのお線香と炭火は絶やされずに燃え続けていたのだろうか、とその時間の長さに思いが向きました。
その場にいたJRの職員さんにすこしお尋ねをしました。
追悼の場のお花やお線香について。おそらく遺族の方であろう可能性を思われていたのであろう、丁寧な態度で言葉を選ばれるようにお話くださいました。
そして、その後、再度手を合わせて、その場を去りました。
そのとき、私は日常の洋服姿でした。いかにも、という僧衣をつけてその場所に入ることは、なにか一種のいやらしさを自分のなかに見いだしそうな思いがあったからです。
しかし、手を合わせてその場を去るとき、今度は僧侶の姿をして来ようと思っていました。うまく言葉にはできませんが、今の自分にはそれをすることが、一つの務めのはたしかたであるような思いがしました。
そして、今日の午後また、あそこに行き、手を合わせてきました。布袍・輪袈裟という僧侶の姿で行きました。昨日とはすこし、見え方が変わりました。また、警備員さんやJRの職員さんもすこし雰囲気が違うように思われました。
ただ、手を合わせるだけですが、また足を向けようと思っています。 自分の主催する企画ではあったのですが、僕にとっての「これから」が「テラハ」によって起こった感覚があります。
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