大学生がいいだしっぺで、みんなで仏教を学ぶイベント、「よいかなよいかな」の3回目が開催されました。
■進行について
タイムスケジュールは、以下の通り。
19:00 スタート、勤行「十二礼」
19:10 イントロダクション、自己紹介
19:30 テーマの「愛」についてみんなで考える
・各自でふせんに イメージ、疑問、好きなものを書き出す
・紹介しながら、模造紙に張り付ける。
→ 「愛」についての イメージや、語感、意味等が幅広く出ました。
→ 40代男性が2名が「愛は勝つ」「勝つ」と書いたので世代を感じました。
19:50 住職が「仏教」の「愛」について 紹介。
20:20頃から、ふたたび参加者みんなでなんやかんやと話し合いました。
■内容、語りあいについて
前2回が教科書的に、固い感じでアプローチをしてしまったところの反省もあり、身近に考えたり、語ったりできればということ、友人が「仏教は失恋に効くのか?」というテーマを設けて考えていた会があったこと、それから大学生が「恋人必要・不必要?問題」が関心にあったようなので、それらを総合して、今回のテーマになったように思います。
結果として、仏教の「愛」についてのとらえ方について触れてもらったものの、「哲学カフェ」的な語りあいの雰囲気もあったのではないかと思いました。
もうすこし、そっちの方で、みなさんのアレコレ考えていること、漠然としていることを言語化していくような時間があってもよかったのかな?と終わった後に思いました。それでも、試行錯誤しながら、今回一つの形を試しながら、みなさんと話せたように思いました。
■仏教の「愛」について
仏教の愛については、大まかに以下の様に紹介しました。
・四苦八苦の一つに、「愛別離苦」などが挙げられているように、愛するものとの別離、愛着のあるものから発生する「苦」や「悲しさ」は仏教のテーマ、解決すべきことがらのひとつだったとおもわれる。
・しかし、「愛」は多くの場合、肯定的にとらえらてはいない。「煩悩」「とらわれ」「執着」として、苦を発生させる原因として語られる場合が多い。古い経典には、「愛するものをもつな」「愛するものからはなれよ」「愛するな」などと言われたりします。
・一方で、肯定的に「愛」という語が語られるケースもあります。
「仏」や「菩薩」が、人間(衆生)に接するすがたは、「和顔愛語」「愛敬」として、やさしさや、思いやり、慈悲の姿が「愛」ということに含まれ、肯定的に語られています。
・苦しみの原因の「愛」と、仏・菩薩の「愛」とはどうちがうのか?
「愛」のような語句を仏教でどのように語るのかということから少し考えてみました。
一つは「慈悲」。仏・菩薩が実践する慈悲は、平等・差別がないということが根底にあります。それを人間の愛とくらべてみるとき、人間の愛は、「偏り」があったり、「特定の者に対して向けられる」という傾向があるのではないかと思われました。
仏・菩薩は、平等にすべての対象を「一人子のように」慈悲の心をむけられているといわれます。 そういう意味では、「限定的」「偏り」があるもの(人間)と、「平等」「無差別」という心のありかたが、見えてきました。
和顔愛語や、愛敬も、特定の・限定的なものではなく、すべての人に、いついかなるときも、そのようにという心が根底にありそうです。
もう一つは「縁」という言葉を紹介しました。
人と人の結びつきを「愛」で語るとき、それは人間の個人的な感情、思いから生じるようなイメージを有します。一方で、われわれは、人間の関係性、結びつきを「縁」という言葉でも語ってきました。例えば、「ご縁」、「縁談」や「良縁」、「縁結び」という言葉もあります。「縁」ということばは、個人的な感情・思いから発生するものとはすこし違うニュアンスがあります。 自分以外の他者とのかかわり、あるいは想像を超えるさまざまな積み重ねや関係性の結果として、だれかとの関係性がここに成立しているような。
そういう意味で、人間の関係性や、人とのつながりを、より広い意味で見て行く視点が「縁」ということばには含まれているように思います。
もちろん、いずれかが正しく、いずれがまちがっているというものではなく、言葉が含んでいるものがらや、感覚を見つめてみると、そのような違いや、受け止めの可能性が、一つのありかたとしてみていくことができるのではないか、というようなことでした。
仏教の「愛」についての話のあとも、みなさんからそれぞれの感想やことばがつきず、21:00、クロージングの時間を迎えました。
参加していただいたみなさん、ありがとうございました。
■ 参加された方からいただいた感想を。
今日はありがとうございました。愛について語ったことがなかったので、いろんな意見が聞けて新鮮でしたし、すごく充実した時間を過ごせました!