「弟子って、いてるんですか?」
「弟子って、いてるんですか?」
先日の葬儀のお勤めを終えた後(還骨・初七日まで終わった後)、本堂で、お参りのご親族、おそらく20代前半の若い男性からかけられた言葉だ。
「弟子はいてないですね。子どもはいるけど。どうして?」
と聞き返すと、
「いや、すごいお仕事だなって。尊敬します」って思ってもみない言葉を返してもらった。
その言葉を聞いて、グッと感情がこみあげてくるとともに、安心感もこみあげてきた。
このことは、覚えておこう。多分忘れられないな、と思った。その彼には、そういってもらえるとうれしい。ありがとうと、感謝の言葉を返した。
最初にお参りをした枕経から3日間。そのご家族とご一緒にお送りのお勤め・ご葬儀をお勤めした。亡くなられたのは、10代の女性。ご家族の悲しみの様子は、簡単に言葉にすることはできなかった。
冒頭の言葉をかけてくれた彼は、ご葬儀で声を上げて号泣していた。一番悲しみを表に出していた彼から、思いもかけない言葉がかけられた。もらった言葉のおかげで、僧侶としてお葬式をする意味を教えてもらえたような気がする。
自分といえば、枕経の時は、しぼりだすようにお話をし、ご家族から語られることばになんとかかんとか、応答するのがやっとだった。お通夜やご葬儀のお勤めは、基本的にはいつもと同じように、でも、できるかぎりその場に立ち込めているお参りのみなさんの感情に添えるように、その場や避けたくなるものから逃げないように、向き合うようには努めていたつもりだ。
僧侶にできることは、ただお勤めをすること、お話(法話)をすること、(もちろん、それらを行うときの所作や姿勢も大事だと心がけている)また、その合間合間に、言葉を交わしたりといったご家族とのコミュニケーションに努めたということもあるかもしれない。
でも、もっと根本的なところは、(僧侶である)私が「それらをした/なにかをした」というより、そういう「僧侶としての務め」を果たすことで、意味や感情が動かれるものがあったのではないかと思う。それは、私が新しく「特別な何かをした」というよりも、すでに、社会や遺族の側に共有されていた、僧侶として葬儀で果たすべき「期待された務めを果たせた」ということにすぎないのではないかとも思う。
彼は「弟子っていてるんですか?」と聞いてくれたけれども、そのすごさは、自分個人にある何かではなく、僧侶という存在がこれまで社会に蓄積されてきたなにかや、葬儀や儀式というものがもっている力、そしてそれが社会や文化のなかに内蔵されてきた何かが発揮されたからではないかとも思い至っている。
なにかを「やった」というより、「務めを果たせた」という安心、あるいは冒頭のことばはそれを「実感させてくれた」ものということができるかもしれない。
また、自分が「葬儀を務める意味があったよ」、というフィードバックをしてくれたことばであるようにも振り返っている。感謝とともに。

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