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「掃除機を持つとホコリが見える」 『ないおん』2025年(令和7年)9月号 掲載

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 毎年、原稿を依頼いただいている『ないおん』( https://www.eonet.ne.jp/~naion/index.html )紙面。今年は今月9月号に原稿を載せていただきました。 「掃除機を持つとホコリが見える」  ある日のことです。部屋の一部にホコリを見つけました。掃除機を手にして、そこをきれいにすると、「ついでに、あそこも、ここも…」と気になりはじめ、最後はホコリを探して掃除機をかけていました。  この感覚が言葉になったので、冗談めかしつつ妻に言ってみました。「わかった。ホコリがあるから掃除機を持つんじゃない。掃除機を持ったから、ホコリが見えるんだ」。すると、妻から一言。「息子(当時2歳)といると、めちゃくちゃ、ホコリが目に入るよ」と。私はそれ以上何も言うことができませんでした  しかし、その通りだな、と思うのです。だれかといたり、何かを持ったり、何かをしたりすることで物の見え方、感じ方が変わってくるのではないでしょうか。見えなかったものが見えるようになったり、見ていたはずのものが全く違うように見えたりします。例えば、食事もそうです。丁寧に心と言葉を向け、手を合わせて、「いただきます」と言って食べる(いただく)のと、なにもいわずにむしゃむしゃと食べる(食らう)のとでは、きっと同じものを食べているのに、味も見え方も違うものになります。(嘘だと思われたら、ぜひ一度試してみてください)  日々の暮らしも、仏さまに手を合わせ、お念仏の中で暮らしていく生活と、それらがない生活では、同じ暮らしをしているように見えても、きっとその人が見えるものや、感じることは違うはずなのです。  私たちはよく行為に理由や説明が求められます。「○○だから〇〇する」と言ったり、あるいはなぜそれをしたのかという理由を当たり前のようにたずねます。子どもたちにも「〇〇だから○○しようね」と、行動に理由をつけて、それをするように促します。 しかし、子どもたちを見ていると、理由があるから行為をするのではなく、逆に行為(遊び)によって、感じられること、気づくこと、見いだされることが大事ではないかと思わされることがたくさんあります。一つ一つの経験に目をキラキラさせているようなときです。  理由があるからするのではなく、することによって見えてくる、わかってくることがある。子どもたちは、理屈よりも前に、そ...

お寺とマンション

  9月8日・9日と真宗学研究学会があった (詳細はリンク)ので、京都に宿泊していた。  朝に、四条烏丸にとっていた宿から、LOOP(シェアサイクル)を利用して、自転車移動をした。寺町通りを移動していると、ふと目についたのが、「〇〇寺」と看板がかかっているけれど、どう見てもマンションという建物。  少し気になり、LOOPを手押ししながら、ちょっと覗いてみると、やはりお寺のようだった。  正確には、お寺の敷地内にマンションを建てられた物件のよう。後ろから不意に、「なにかごようですか?」と声をかけられてしまった。(きっとどう見ても不審者だったんだろう)  「お寺の看板があったので、お寺なのかな?と気になりまして」「私も尼崎の寺のものでして」と、説明すると、不審者ではなかったと安心してもらえたのか、いろいろと経緯を教えていただけた。  お寺の本堂からなにからすべて建て替えをして、敷地に(僕から見たら)大きなマンションを建築された様子。マンションの玄関手前横に、お寺の参拝のための玄関らしきものがあり、そちらを通って本堂やお墓へのお参りへと進む様子(さすがにお墓の場所は移動していないとのこと)。  ・昔のように、檀家さんからご寄付をいただくことが難しい時代になっている。  ・お寺の経済的維持が難しい   (そのため不動産収入を見込んでマンションを建築されたのだろう)  事情はよくわかる。  寺町通だけあって、そのまま移動をしていくと、数メートルから十数メートルごとにお寺を見かける。建て替えられたお寺をみたあと、昔のままの景観を維持されているだろうお寺も少なくないが、多くが先のマンションを建てられたお寺と状況を同じくしているだろうことも想像しながら、自転車をこぎつつ、町の様子を眺めて移動していた。    身もふたもない言い方をしてしまうと、お寺がお寺の活動で維持できなくなって、不動産等宗教法人としての本来の活動以外の収入を主としてしまうと、それは残念ながらお寺ではなくなってしまうよなぁ、などと思いながら自転車をこいでいた  今思い返すと、おそらく法律的なたてつけも、そうなっていたと記憶している。  chatGPTを利用して検索、確認をした  以下がそのやりとりの共有リンク   https://chatgpt.com/share/68c097af-cc50-8004-98ed-0...

真宗学研究学会(9月8日・9日)のこと

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  9月8日午後~9日の午前は、「真宗学研究学会」(@京都女子大学)という会があり、そちらに参加。京都宿泊で、9日の夜に帰宅した。  真宗学研究学会は、龍谷大学真宗学科にゆかりがあり、浄土真宗本願寺派関係の大学教員を会員としている、内々の研究会。助手として在籍していた2017年度以来、再び入会(参加?)という形になった。   今回は、京都女子大学を会場に開催された。 9月8日午後(記念講演、総会等)翌・9日午前(研究発表等)といったスケジュール。  記念講演は、坂口満宏(京都女子大学付属小学校校長、元・京都女子大学教授)「京都女子高等専門学校で学んだハワイの日系人」。  京都女子大学の前身でもある京都女子大学高等専門学校には、戦前、多くの日系ハワイ移民の子女が留学しに来ていたことを取り上げて、そこでの教育のこと、また京女設立者でもある甲斐和里子(かい・わりこ)氏とその親族―とくにハワイ開教総長であった今村恵猛(いまむら・えみょう)氏とその妻で甲斐和里子氏のめいにあたる今村清子(いまむら・きよこ)氏、その子や孫にあたる方たちと京都女子大学とのかかわりをご教示いただいた。  意外なほど、継続した関わりを、京都女子大学(と学園がある今熊野周辺)と清子氏家族のかかわりが大変興味深かった。  また、戦前にハワイから来た日系人女子学生たちのアイデンティティ・クライシスの問題にもふれられていた点に質問をさせていただき、そこにあった時代的問題点もご教示いただいた。 (帰りに撮った京都女子大学にいたる女坂)  懇親会では、久しぶりにお目にかかる関係大学(龍大のほか、ホスト校をお引き受けくださった京都女子大学、それから相愛大学の先生方が来られていた)と交流の時間。 こういった場所での、意見交換や情報交換もとても貴重なもの。  その日は、京都泊り。   翌9日の午前は、研究発表の部として  ・内手弘太先生(龍谷大学)の「戦中・戦後の真宗教学―普賢大円を通して」  ・嵩満也先生(龍谷大学)「親鸞思想とイスラーム神秘思想の対比の可能性」 という2つの発表(それぞれ予定時間としては、60分発表、15分質疑)をうかがう。 先日、佛教大学の大谷栄一先生の講義を聞かせていただく機会―NPO法人アーユス仏教国際協力ネットワークの企画で、「戦後80年」の節目に、仏教教団と平和活動について考える機会―をい...

市議会の議事録がAIで検索できるようになればいいのに

 SNSで、市議会議員さんから、議会での一般質問やもろもろの活動報告が投稿されているのを見てふと思ったこと。 たとえば、アカデミックな議論(論文)であれば、可能な限り関連する先行研究を踏まえて、研究発表や論文を投稿するというのは、基本的なお作法の一つである。 市議会の質疑応答なども、関連する過去の質問などを踏まえて、行政当局が「過去にこのように答弁していたが云々」と、これまでの議論の経過を踏まえてディスカッションが行われたらもっと濃密な、充実した議論が行われるのではないかと、ある意味で「一市民的な視点」で思ったりもした。 試みに、AI(チャットGPT)に、尼崎市議会の議事録が検索できるかどうか、 昨今話題の「外国籍市民」についての質疑などをピックアップできるか、などを聞いてみた。 そのやり取りがこれ https://chatgpt.com/c/68c017f3-462c-832c-a68a-916d5bfa90e7 ネットで公開されているものは、やはり一定拾い上げてくれている。 市民に公開することに難があるならば、内部的なデータベースみたいなものをAIに読み込ませて、議会の議論の資料として提供されたりしたら、より濃密なやりとりが展開される材料になるのではないかと思った。 (いや、公開の市議会の記録を市民に公開することに難があろうはずはないよね) あるいは、一市民としても、市議会で関心のあるテーマがどのように議論されているのか(あるいはされていないのか)を簡便にしることができるのではないかと思ったり。 思いつくままに 書き連ねました。

「他者性」についての雑感

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細見和之 『思考のフロンティア アイデンティティ/他者性』 (岩波書店、1999年) より 「言うまでもなく、人間は一個の身体として、あるいは生命体として存在している。アイデンティティを他者性との関係で捉えるとき、この身体という次元を無視することはできないだろう。あたりまえの話だが、ぼくらは自己の外部から酸素や水分、栄養などを耐えず摂取しなければ生きられない存在である。身体ないし生命として「私」を維持するために、いつも外部から「他者」を取り込まなければならない、という逆説。だが、そのように他者を取り込むということは、同時に自己が絶えず他者化されるということでもある。毒ガスや毒物という致命的な他者を摂取して、文字通り身体が破壊されてしまうのは、そのような他者化の極端な例である。(宗教的に厳格な人々がその戒律に則ってある種の食材を忌避する際にも、自らがまさしく肉体レベルで「他者化」されることへの恐怖があるにちがいない)。ぼくらはひとつの身体的存在として、そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態を、日々生きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的存在として、自らの内部を未知の不確定な「外部」へとつねにすでに開いてしまっているのである。」 (3~4頁)  論文で触れる必要があって、「他者性」にまつわる論文や本を読んでいる。  「他者」とは、「自己」に対するものであって、自己とは全く異なるものである。 他者論で、つねにといっていいほど引用されるのは、レヴィナスだそうだ。レヴィナスの他者論については、以下のように説明される。 「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。」    Wikipedia「レヴィナス」  より  しかし、自己は自己のみで自己にはなりえず、他者との邂逅/接触によって成り立つものといういうほうが、仏教の「縁起」の考えに近いように思われる。また、それほど自他の境界は絶対的なものであろうか?とも考えてしまう。  冒頭の文章は、署名の通り、アイデンティティと他者について書かれた...

日本印度学仏教学会@大阪大学

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 2025年9月8日(土)の午後、日本印度学仏教学会に参加しました。 (午前と、翌7日はお参りのため、初日の午後~夕刻の懇親会まで参加) 博士課程の20代、学会での初発表を同じくするT大の先生方や、研究分野を同じくする先生方との交流のありがたさを毎年つくづく感じています。 若いころは、自分の「研究発表」でいっぱいいっぱいでしたが、学会での交流の意味を先輩方から教えていただき、研究や知識の幅が広げられることが多くなりました。 研究所や、大学での立場をいただくようになると、同年代の交流のあった先生方もそれぞれ立場を得られるようになっていて、また宗派やそれぞれの所属組織での課題や、ノウハウ等も可能な範囲で情報交換を行う場にもなっていきました。 今回も、それぞれの大学でおこなっている学生教育や、僧侶養成のシステム等について情報交換したり、夜のフランクな席では、それぞれの宗派の儀礼や京都や東京といった「中央」的なところと、地方とのギャップ等についてもあれこれ話題にあがりました。 9月は学会シーズンでもあります。 お寺のお勤めのスケジュールと都合をつけるのがなかなか簡単ではありませんが、できる範囲で足を運んで、先端の研究を勉強したいと思います。

1級になった現在地。

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今年に入ってからできるだけ、筆をとって練習を重ねている。 習い始めて3年目になる(かな?)。正直1年目は教室に通いながら、「通っていたらなんとかなる」という感じだった。 ところが、間があいたり、ついつい怠けて、一向に上達しない。 たまに、「連日練習する」とそれなりにうまくなっていく、という気づき(というか当たり前だ)もあって、昨年の年末くらいから、日常的に筆を持つように心掛けている。 そこそこ楽しくなって、この4月か5月には、1級になった。 まだまだうまくいかないことや、思い通りに文字が引けないこともあるけど、そこそこ楽しくやっている。 ということで、1級になった現状を記録として残しておこう。 4月28日のお稽古と添削 5月2日。本日の手習い。

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