2010年6月18日金曜日

教えと機根と

歩きながら、法座や講義で話すことを考える。


弥陀の救いとか、浄土の教えとか
それが、自分にどう関わっているかということがよく疑問とされる。

阿弥陀仏は、どんな人でも、どんなに悪い人でも、救ってくれるといって、それが自分にどんな意味があるのか?
浄土は、死んだ後に生まれるすばらしいさとりの世界だとして、それが今の自分にどう関わるのか。

でも、そういう教えでなければ救われないという自分と出遇うところに、
その救いや浄土に照らされて自分の姿を知らされるということに、
一つの意味があるのじゃないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので

今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。  数年前に大阪大学が、大学としてのカ...