2013年5月7日火曜日

美味しいものを、美味しいと感じていいのかどうか。

 昨日、講義でDVDを見てもらいました。15年程前にNHKが制作した、タイの仏教を取り上げた番組。
 タイでは、夏の安居の期間、毎年10万人の人が出家します。成人男性の多くが一時的に出家し、その経験によって社会的な評価も格段に高まるというような社会です。
 出家生活では、さまざまな修行、瞑想を重ねることで、あらゆる執着から離れていくことを求めます。食事は托鉢に出て、一般の人からの布施をされることで生活をします。
 DVDでは、一般の企業に勤めている男性が、休暇を取って出家し、修行生活に入った姿にスポットが当てられていました。その男性が出家修行生活の中で、日記を綴っていました。

 托鉢に出て、いただいた料理の中に、「何と美味しいことか」と思うほどのものがあったと。非常に美味しいと感じたが、徐々に、その「美味しい」と感じることも「執着」ではないかと考え始めたというのです。「美味しい」「美味しくない」と感じるのではなく、どれも同じように、味わいなど問題にせず、淡々と食すべきではないのか。そんな風に考えるようになっているというのです。

 受講している学生の感想レポートなどでも、例年疑問が呈される部分でもありました。美味しいものを「美味しい」と感じてはいけないように思うことは疑問だとか、自分には理解できない、と。

 (講義で流していたので)もう何回か見ているのですが、今回あらためてそんな疑問を念頭に置いてその箇所を見ていました。
 改めてみていると、その態度は、【「当然」と思っていた感情や、考えに対して、問いを投げかけ、考え直している姿】ではないかと思いました。

 普段日常生活では、美味しいものを食べたならば、「美味しい」と感じて、そこに疑問や罪の意識など生じることはまずありません。
 しかし、仏教生活を突き詰めることで、その感情に対して、「果たして本当に正しい心持ちであるのか」という、チェックが入り、問いが投げかけられるのです。
 「正しい」「間違いない」と結論づけてしまうということは、非常に強く揺るぎなく思える反面、そこで思考が止まってしまうという面があるように思います。
 「正しい」ことに「本当に正しいのか」「間違いはないのか」、そう問うことの意味は、決して軽くないと思います。

  われわれは、日常生活でさまざまな行いをし、考えや感情を持ちます。
 相手を傷つけ、批判をしても、「自分は正しいのだ」と考え、その正しさの中にとどまって、そこに疑問や問い直しをすることをおろそかにしてしまうことがあります。

 一方で、相手におくりものをしたり、善意の行いをした場合であっても、果たしてあの行為は相手の意に即していたのであろうか、相手を傷つけてはいないか、正しい振る舞いであったのかと、問い直していることもあります。 
 仏教的な生活を送るとは、具体的な何かをするということももちろんありますが、その何かによって日常の自分の当然と思っていたことがらに疑問を呈してみる、考え直してみるという契機でもないでしょうか。

 つまり、仏教の意味とは、その一つには、自分の当たり前を当たり前にせず、いちいちに立ち止まって考え直してみることにあるのではないかと、そんな姿なのではないかとあらためて思いました。

 










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