サマセミの授業を通して 念珠と手を合わせること


 今日のサマセミでは、「うでわ念珠を作ろう」という授業をさせていただきました。ゴムヒモでプラスチックの玉を通して、ブレスレットのような「念珠」(数珠)を作る授業をしました。赤ちゃん~小学校の子どもさん、そして大人の人も、20名ほどの人が参加して下さいました。
 
 授業の中では(去年もそうだったのですが)「うでわ念珠」を作るだけで精一杯でした。受講してくださった方たちとも約束したので、こちらですこしお話を補足したいと思います。(大人向けの内容になりましたが)

 「お念珠」ってなんですか?といわれたら、それは「手を合わせるための道具(仏具)」です、ということに尽きるのではないかと思います。

 世間では、念珠(数珠)の石に、幸せや願いが叶うことを喧伝したり、特別な力があるということを宣伝されているのを見ます。しかし、そういうセールスは、お商売的な印象があって、まっとうな僧侶がそういうことをハナシの中心にすることはむしろ少ないのではないかと思います。(少なくとも、私は一度もそんな話はしたこともありませんし、否定的に考えています)

 人生は「幸せ」ばかりではなく、さまざまなことが起こります。仏教は、つらいこと、受け入れがたいことが起こりうる人生ですよ、ということを説きます。
 つらい、受け入れがたい中では、人を恨んだり、否定的な思いをもつこともあるのではないかと思います。そうそう「手を合わせること」など、できない、したくない思いを抱えることもあるかもしれません。

 ただ単に両方の手の平・「掌」を合わせること。それは、とても簡単なことのようで、とても難しいことでもあるのではないかと思います。行為としては簡単かもしれませんが、「手を合わせる」心をもつこと、それを忘れないことはとても難しいことのように思います。

 家族や身近な人に対して、憎まれ口を叩いたり、
 人の親切がついつい「余計なこと」「お節介なこと」と思ってしまうこともある自分(私自身)だからこそ、それは「むずかしいことだなぁ」と感じています。

 そんな中で、「手を合わせる道具(仏具)」である「念珠」は、「私が手を合わせるときに使うもの」であると同時に、「手を合わせない私に、手を合わさせるもの」でもあります。
 「念珠があるから手を合わせる」ということもありえるのだと思います。

 「手を合わせる心を忘れないで下さいね」「大事にしたいですね」ということなのですが、今日みなさんと一緒に作った念珠を身につけて下さったり、あるいはふとしたときに目にして、「手を合わせるキッカケ(縁)」になったとしたならば、それはとてもうれしいことだなぁと思います。

コメント

このブログの人気の投稿

【告知】 伝道院で報恩講が行われます

教育委員会(臨時会)に出席 人権や教育について考える機会

講義でもらったツボる感想

広告A