【カリー寺 情報公開して1日経ち】
昨日、Facebookで今年のカリー寺の情報を公開しました。
https://www.facebook.com/events/151096265602493/
まだまだ準備の段階で、カレー屋さんもコンテンツも完全にかたまっていないけれど、きまっているところまで情報発信した次第。
1日たって、250人以上の人(2/15、12:00現在、参加する14名、興味あり255名)もの方に、関心を表明いただきました。たくさんの反響を喜ぶと同時に期待の大きさもひしひしと感じています。
みなさんと楽しい1日をまた過ごせれたらと思います。
カリー寺、去年は「友人の家のカレーパーティに行くような感じで」と言って開催していました。
それは、
・友人の家に来ている「友人の友人」のような感覚で、参加してくださった人同士が交流したり、つながったりしてほしいな、という思い。
・カレー屋さんに、お客さんとして「サービス」を受けにいく、「カレーを食べに行く」ような感じではなく、「友だちの家」のように、一緒にイベントを作り、参加するような気持ちをもって関わっていただけたらな、という思い。
を、共有して開催したいと考えていました。
それは今年も同様におもってます。
カリー寺が参加してくださったみなさんの新しい誰か、あるいは何かとのつながりを生む場になればと思います。
カリー寺にみなさん自身の期待や思いを、なにか具体的な関わりや、実践をともなってイベントに色を付け加えてもらえたらと思います。
また5か月も先ですが、ちょっとずつ準備していきたいとおもっています。そういう意味では、もうイベントははじまっている、のかもしれません。
2018年2月15日木曜日
シンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」@應典院(1/21のこと)
(もう1ヶ月近く前のことになるけれど、書き切れていなかったのでいまさらになる)
2018年1月21日(土)13:30~16:30
應典院で開催されていたコモンズフェスタの一環としてあったシンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」に登壇させていただいた。
ウェブページ
http://www.fmz1999.com/2018_commons/003.html
フェイスブック イベントページ
https://www.facebook.com/events/357876154638499
登壇者は、
・中平了悟 (浄土真宗本願寺派 西正寺僧侶/龍谷大学大学院実践真宗学研究科 実習助手)
・大塚茜さん (浄土真宗本願寺派眞西寺寺族 / NPO法人「和」理事長)
・山田昌史 さん(山田石材合資会社[名古屋] / 真宗大谷派教師)
・秋田光彦 さん(浄土宗大蓮寺・應典院住職)
・宮原俊也 さん(帝塚山大学こころのケアセンター臨床心理士)
・佐脇亜依 さん(京都市ユースサービス協会・臨床心理士)
・進行、湯山佐世子 さん(應典院寺町倶楽部 執行部役員)
というラインナップ(チラシ等掲載順)。
◆ 應典院は、1614年に建立、1997年に再建されたお寺だが、再建後は、一般的な寺院ではなく、演劇や講演会、シンポジウム、さまざまなワークショップが展開される場として開かれ、運営されてきた。
地域に開かれたお寺という意味では、先進的な取り組みを絶えず行ってこられた場であり、自分自身もその場で多くのことを学ばせていただいた。たくさんのセッションに参加して、学ばせていただくことがあった場で、まさか自分が話し手側で参加させていただくことがあろうとは思ってもいなかった。お話をいただいたときに、とてもうれしく光栄なことと思ったことを鮮明に覚えている。今回のお話は、まずはとてもうれしく、光栄なことだという思いがあって、それは登壇後の今も続いている。
◆ 会の趣旨としては、ホームページ等に掲載の通り。企画者からは、「一般の特に應典院をフィールドとしている劇団の方「や、「仏教に全くなじみのない方」を対象として想定したいということ、そしてできる限り「専門」から離れた、一般にむけて言葉を発して欲しいということで依頼を受けていた。
◆ 僕が心がけていたことは、仏教の現実面において、儀礼や習慣の長所のみを語るのではなく、短所も含み持った部分があるということも提示したいということ。その点は、会の中でしばしば提示できたように思う。また冒頭の挨拶の中で、臨床心理士の方からも、仏教はグリーフケアとして意味があるということのみを言っておわり、というようにはしたくないという言葉があったように、会の視野の中にも含まれていたように思う。
◆ 7人が前に立つという大所帯ながら、ディスカッションはとてもここちよく、全体としてあっという間に過ぎ去った印象。
儀礼の意味や、宗教者の果たしてきた役割、あるいは「石材店(お墓屋さん)」という立場から、檀信徒(参列者)さんの生の声や、僧侶には直接伝えられないクレームも紹介されるなど、「宗教儀礼」「追悼法要」を中心とした場に埋め込まれている、思想や感情などにじっくりと目を向ける時間だったようにおもう。
◆ またそれは同時に、参加者の人たち、聴衆のみなさんの、「グリーフ」や追悼の場や形式の見直しにもつながっていたように思う。イベントあとに何人かの方が、SNSやブログなどで、感想をUPしてくださっていたものを見たところ、結構な方が、具体的な揺らぎを感じて下さったり、参拝や仏前へ座るなどしてみたという方、あるいはそれらの意味を実践しながら再度見つめてみたという声があった。
会が、参加して下さったみなさんの日常の変容や、見つめ直しをもたらしていたら大変うれしいことだと思っているが、この会は、かなり目に見えるかたちで、それらがまきおこされていたような印象を受けた。
◆ ともかく、まあ、あの應典院のイベントに声を掛けていただき、登壇したということだけで、僕自身にとっては、かなり画期となる一日だったことはまちがいない。
2018年1月21日(土)13:30~16:30
應典院で開催されていたコモンズフェスタの一環としてあったシンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」に登壇させていただいた。
ウェブページ
http://www.fmz1999.com/2018_commons/003.html
フェイスブック イベントページ
https://www.facebook.com/events/357876154638499
登壇者は、
・中平了悟 (浄土真宗本願寺派 西正寺僧侶/龍谷大学大学院実践真宗学研究科 実習助手)
・大塚茜さん (浄土真宗本願寺派眞西寺寺族 / NPO法人「和」理事長)
・山田昌史 さん(山田石材合資会社[名古屋] / 真宗大谷派教師)
・秋田光彦 さん(浄土宗大蓮寺・應典院住職)
・宮原俊也 さん(帝塚山大学こころのケアセンター臨床心理士)
・佐脇亜依 さん(京都市ユースサービス協会・臨床心理士)
・進行、湯山佐世子 さん(應典院寺町倶楽部 執行部役員)
というラインナップ(チラシ等掲載順)。
◆ 應典院は、1614年に建立、1997年に再建されたお寺だが、再建後は、一般的な寺院ではなく、演劇や講演会、シンポジウム、さまざまなワークショップが展開される場として開かれ、運営されてきた。
地域に開かれたお寺という意味では、先進的な取り組みを絶えず行ってこられた場であり、自分自身もその場で多くのことを学ばせていただいた。たくさんのセッションに参加して、学ばせていただくことがあった場で、まさか自分が話し手側で参加させていただくことがあろうとは思ってもいなかった。お話をいただいたときに、とてもうれしく光栄なことと思ったことを鮮明に覚えている。今回のお話は、まずはとてもうれしく、光栄なことだという思いがあって、それは登壇後の今も続いている。
◆ 会の趣旨としては、ホームページ等に掲載の通り。企画者からは、「一般の特に應典院をフィールドとしている劇団の方「や、「仏教に全くなじみのない方」を対象として想定したいということ、そしてできる限り「専門」から離れた、一般にむけて言葉を発して欲しいということで依頼を受けていた。
◆ 僕が心がけていたことは、仏教の現実面において、儀礼や習慣の長所のみを語るのではなく、短所も含み持った部分があるということも提示したいということ。その点は、会の中でしばしば提示できたように思う。また冒頭の挨拶の中で、臨床心理士の方からも、仏教はグリーフケアとして意味があるということのみを言っておわり、というようにはしたくないという言葉があったように、会の視野の中にも含まれていたように思う。
◆ 7人が前に立つという大所帯ながら、ディスカッションはとてもここちよく、全体としてあっという間に過ぎ去った印象。
儀礼の意味や、宗教者の果たしてきた役割、あるいは「石材店(お墓屋さん)」という立場から、檀信徒(参列者)さんの生の声や、僧侶には直接伝えられないクレームも紹介されるなど、「宗教儀礼」「追悼法要」を中心とした場に埋め込まれている、思想や感情などにじっくりと目を向ける時間だったようにおもう。
◆ またそれは同時に、参加者の人たち、聴衆のみなさんの、「グリーフ」や追悼の場や形式の見直しにもつながっていたように思う。イベントあとに何人かの方が、SNSやブログなどで、感想をUPしてくださっていたものを見たところ、結構な方が、具体的な揺らぎを感じて下さったり、参拝や仏前へ座るなどしてみたという方、あるいはそれらの意味を実践しながら再度見つめてみたという声があった。
会が、参加して下さったみなさんの日常の変容や、見つめ直しをもたらしていたら大変うれしいことだと思っているが、この会は、かなり目に見えるかたちで、それらがまきおこされていたような印象を受けた。
◆ ともかく、まあ、あの應典院のイベントに声を掛けていただき、登壇したということだけで、僕自身にとっては、かなり画期となる一日だったことはまちがいない。
2018年2月14日水曜日
2月10日(土)「あままままるしぇに出店するカリー寺のママさんカレーを試食する会」
先週末の土曜日(2/10)の夕方。西正寺でおもしろい会が内々に開催されました。
その名も、「あままままるしぇに出店するカリー寺のママさんカレーを試食する会」。
経緯を話せば長くなるけれど、
1)そもそもはカリー寺というイベントで、一番楽しい打ち上げに際して、ボランティアの人に「料理担当」をお願いしたところ、大変好評だったことに始まります。
2)そこで、その料理を担当してくれたママさんお二人に、昨年末に開催した「西正寺交流会」にも、料理を作ってくれないかとお願いしたところ、これまた大変おいしい料理を作ってくれました。その中に「カレー」もありました。
3)その交流会に参加していた「あままままるしぇ」の実行委員の人が、この料理で、マルシェに出店しないか?という打診をしてくれ、相談したところ「カリー寺」の名前でカレーを出して、売り上げは、寄付にまわそう、というハナシでまとまりました。
→ あままままるしぇ vol.04 https://www.facebook.com/events/1984986525077758/
4)とはいえ、ママさんたちは、飲食出店は初めてで、どんなカレーにするか、どういう風に出すかを一度試食会を開いて考えてみたいということで・・・。
と、いうことで、今回の会。
試食会という性格もあって、カリー寺関係者や友人を中心とした、クローズドな会で開催しました。
一人のママさんが、子供用のカレーとして3種類、
もうひとりのママさんが、大人用のカレーとして3種類作ってきてくれて、それをみんなで試食しました。参加者は、大人・子どもあれこれで、総勢14名くらい。みんなでわいわいいいながら、6種類のカレーを一度に食べれる、至福の時間でした。
、
カレーを食べて、感想や気づきのコメントを付箋に書いて、そのカレーの張り紙に貼りつける。
カレーを作ってきたママさんも、的確な感想や指摘にうなり、「参考になる」「うれしい」とおっしゃっていました。
一通り食べたあとは、みんなで意見やアイデアを出し合って、ママさん二人が実際にマルシェで出店するカレーのメニューとバランスも決定しました。
なにがうれしいって、一つのイベントがそれで完結して閉じてしまわずに、次に次にと展開し、おもしろがりながら、ちょっとずつ大げさになっていくことでしょうか。
最初はふっとした打ち上げで、料理をお願いしたことから、
次は快くお寺のイベントのための料理も引き受けてくれて、それがまた「カリー寺」のスピンオフ的なユニットになって、一つのイベントへ出て行くようになる。
その中には、人のつながりや交流も生まれて・・・というような裏話ももちろんあり。
やったことが、それで終わるのではなく、次に、次にと、新しい形で、しかも面白くつながって展開していくような場面に立ち会えていること、その中心に「西正寺」というお寺があることが、とてもうれしいなぁと思うのです。
なにはともあれ、おいしいカレーをお腹いっぱい、参加してくれた人たちと交流をしながら堪能した夜になりました。
ちなみに、カリー寺本体も今年の準備がはじまっています。
今年2018年は、7月29日(日)の開催を目指して企画・準備をしています。
そちらも、どうぞよろしくおねがいします。
◆カリー寺vol.03 https://www.facebook.com/events/151096265602493/
本願寺国際センター 恵範講座第40回特別記念シンポジウム「宗教と現代社会との関わりについて」
今日(2018年2月14日(水))に開催された下記のシンポジウムに参加してきた。
http://www.hongwanji.or.jp/project/news/n002132.html
2018(平成30)年2月14日(水)17:30~19:30
本願寺国際センター 恵範講座 第40回特別記念シンポジウム
「宗教と現代社会との関わりについて」
(会場:聞法会館 3階多目的ホール)
登壇者は、大谷光真・浄土真宗本願寺派前ご門主、小原克博・同志社大学教授、コーディネーターとして、釈徹宗・相愛大学教授。大変豪華な登壇者。
事前申し込みが必須と言うことだったが、すこし残席もあって当日でも入場はできたようだった。
前ご門主の講演、小原先生の講演があったのち、釈先生も加わられてディスカッションという流れ。
おおむね議論は、宗教者の実践と信仰は社会に対してどのように関わり、どのように距離を取るのかということについて、現実的な問題も視野に入れつつ、そのあり方について探る、というのが中心的な問題であっただろうかと思う。
単に教義的・抽象的な議論にとどまるのではなく、インターネットの功罪やそれによってもたらされている社会的な断絶・対立にも目配せがされていた。
実践や信仰を「正当化」したり、理論づけようとするのではなく、現実の中にあるジレンマや、問い自体に考えるための材料や手がかりを提供されたような対話の時間だったように感じる。
◆大地や、海に通じる宗教性
ディスカッションのなかで言及されたものの一つに、鈴木大拙が親鸞聖人の信心・念仏を「大地」に足を置き、生活することと結びつけたということがあった。それは、今日のシンポジウムの中では、石牟礼道子が『苦海浄土』の中で、自己と切り離されたものではない「海」を語り、また公害の被害を「部外者」としてではなく、自己のありようと深く結びつけて捉え、描いていることと、あるいはガンディーがヒンドゥーとムスリムの暴動の際にハンガーストライキをしたことによって、暴動を治めたエピソードと重ねて語られもした。
要は、信仰の世界、或いは信仰によって獲得された身体性は、自己の枠を超えて、大地や、海や、あるいは他者・世界とつながりなかで再認識され、また他者にもそれが認識されることによって新しい地平につながっていく、というようなことのように思われた。
宗教者による社会とのかかわり、実践というものは、単に「社会とどう関わるか」「信仰をどう社会に表出させるか」ということのみでで閉じてしまってよいものではなく、世界・宇宙を引き受けていくような壮大なつながりを、可能性としてでも、視野に含んでおくべきものという視野が提示されているように思われた。
◆「いいわけ」にしてはいけない。
印象深く、覚えておきたいとおもったものが、小原先生の資料で紹介されていた以下のもの。
「知識の探究に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、わたしには分かった」と言う時、それこそが結論なのであるが、しかしそれは、こういう言葉が自分の怠惰を正当化するために最初の学期に学生によって使われる場合とは全く違う(キルケゴール)。その言葉は結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。その意味は、一つの知識はそれが獲得された実存から切り離されることはありえないということである。」
(D・ボンヘッファー『キリストに従う』ボンヘッファー選集3、新教出版社、1996年、19-25頁)
経験や思想は、アプリオリにあるものではなく、実践や経験をともなってこそ、それそのものといえるだろうか。「愚者だから・・・」「凡夫だから・・・」とそれを前提に物語られるものではなく、思索や苦闘のはてに、「やはり愚者としかいいようのない自己」「やはり凡夫としかいいようの亡かった自己」と出あいなおし、言葉の意味を確認していくようなことだろうか。
その意味では、教義や思想は、そこから始まると言うよりも、始点であると同時に、やはりそうだったと、帰るところ、帰着・到着するべき言葉、再確認されるべきものとしてそこにあるというべきものといえるだろうか。
あるいは、実践のはてに行き着くべきものとしての思想をいいあらわしているようにも思う。
http://www.hongwanji.or.jp/project/news/n002132.html
2018(平成30)年2月14日(水)17:30~19:30
本願寺国際センター 恵範講座 第40回特別記念シンポジウム
「宗教と現代社会との関わりについて」
(会場:聞法会館 3階多目的ホール)
登壇者は、大谷光真・浄土真宗本願寺派前ご門主、小原克博・同志社大学教授、コーディネーターとして、釈徹宗・相愛大学教授。大変豪華な登壇者。
事前申し込みが必須と言うことだったが、すこし残席もあって当日でも入場はできたようだった。
前ご門主の講演、小原先生の講演があったのち、釈先生も加わられてディスカッションという流れ。
おおむね議論は、宗教者の実践と信仰は社会に対してどのように関わり、どのように距離を取るのかということについて、現実的な問題も視野に入れつつ、そのあり方について探る、というのが中心的な問題であっただろうかと思う。
単に教義的・抽象的な議論にとどまるのではなく、インターネットの功罪やそれによってもたらされている社会的な断絶・対立にも目配せがされていた。
実践や信仰を「正当化」したり、理論づけようとするのではなく、現実の中にあるジレンマや、問い自体に考えるための材料や手がかりを提供されたような対話の時間だったように感じる。
◆大地や、海に通じる宗教性
ディスカッションのなかで言及されたものの一つに、鈴木大拙が親鸞聖人の信心・念仏を「大地」に足を置き、生活することと結びつけたということがあった。それは、今日のシンポジウムの中では、石牟礼道子が『苦海浄土』の中で、自己と切り離されたものではない「海」を語り、また公害の被害を「部外者」としてではなく、自己のありようと深く結びつけて捉え、描いていることと、あるいはガンディーがヒンドゥーとムスリムの暴動の際にハンガーストライキをしたことによって、暴動を治めたエピソードと重ねて語られもした。
要は、信仰の世界、或いは信仰によって獲得された身体性は、自己の枠を超えて、大地や、海や、あるいは他者・世界とつながりなかで再認識され、また他者にもそれが認識されることによって新しい地平につながっていく、というようなことのように思われた。
宗教者による社会とのかかわり、実践というものは、単に「社会とどう関わるか」「信仰をどう社会に表出させるか」ということのみでで閉じてしまってよいものではなく、世界・宇宙を引き受けていくような壮大なつながりを、可能性としてでも、視野に含んでおくべきものという視野が提示されているように思われた。
◆「いいわけ」にしてはいけない。
印象深く、覚えておきたいとおもったものが、小原先生の資料で紹介されていた以下のもの。
「知識の探究に明け暮れたその生涯の終局に、ファウストが「われわれは何も知りえないのだということが、わたしには分かった」と言う時、それこそが結論なのであるが、しかしそれは、こういう言葉が自分の怠惰を正当化するために最初の学期に学生によって使われる場合とは全く違う(キルケゴール)。その言葉は結論としては真理であるが、前提としては自己欺瞞である。その意味は、一つの知識はそれが獲得された実存から切り離されることはありえないということである。」
(D・ボンヘッファー『キリストに従う』ボンヘッファー選集3、新教出版社、1996年、19-25頁)
経験や思想は、アプリオリにあるものではなく、実践や経験をともなってこそ、それそのものといえるだろうか。「愚者だから・・・」「凡夫だから・・・」とそれを前提に物語られるものではなく、思索や苦闘のはてに、「やはり愚者としかいいようのない自己」「やはり凡夫としかいいようの亡かった自己」と出あいなおし、言葉の意味を確認していくようなことだろうか。
その意味では、教義や思想は、そこから始まると言うよりも、始点であると同時に、やはりそうだったと、帰るところ、帰着・到着するべき言葉、再確認されるべきものとしてそこにあるというべきものといえるだろうか。
あるいは、実践のはてに行き着くべきものとしての思想をいいあらわしているようにも思う。
2018年2月4日日曜日
おふろバー vol.9 @蓬莱湯 (2018/2/2(金))
あれこれ書いておかねばと思いつつもなかなか書けていない。
順番にさかのぼりつつ書いておくくらいがいいのだろうか。
2018年2月2日(金)は、おふろバーの9回目。
尼崎ENGAWA化計画の藤本遼くんと、
蓬莱湯の女将・稲さんが開催していたところに、4回目から声がかかって、ホスト役で参加している行事。
これまでの流れをふり返ってみると、いろいろと興味深い試み、実験の場として、この場に関わらせていただいているように思う。
人とのつながりを大事にしながら、「ゆるやかさ」を求めるとき、どれくらい関与するのがいいのか。
どのようなコンテンツをだすのか。
むしろ、なにもしかけず「場」を設けるだけで何が起こるのか。
もちろん、温泉があり、料理があり、お酒があるという魅力は大きい。
でもその場に、どう関与するのか、なにを差し出すのか。
なにもしていないようで(実際になにもしないように努力していることもある)、考えたり試みたりすることの多いイベント。
しかし、それほど責任感やプレッシャーを負うことなく、とても楽しくできている。
また、常にいろんな人がやってきて、交流が展開されていくのも、続けていけている理由だろう。
この日は、女将の知り合いの方のお嬢さんが歌手活動をされているということで、会のなかで、歌をうたってもらう時間があった。
9回目にして初の試み。
距離感が近く、ノーマイクの歌で、ここでしか聞けないもの、触れられない距離感があったかな。
おふろバーで面白いなとおもうのは、「銭湯」好きの方や、「お風呂関係」のマニア的な情報や、知識をも持っている方、あるいはお風呂巡りやさまざまな取り組みを実践されている方というのが、訪れるということ。(今回とても面白かったのは、「サウナ」活動をされている「サウナー」がいらっしゃっていた)
もちろん、会場の「蓬莱湯」さんの取り組みと知名度があってのことでもあるだろう。
そして、そこで展開されているコミュニケーションの形や、情報交換、ハブとなる情報や、ネットワーク、イベントなどは、自分には縁遠いものでありながら、それに触れて感じる感覚は、大変おもしろものがある。
自分の知らない世界に触れられている、感覚とか、
全く知らなかった価値観とそれにもとづいて展開されているネットワークと交流。
なんだろうか。
自分の価値観にはなかったものを知ることで、自分の知っている世界の狭さを知らされたような感じでもある。
あるいは、自分の知らなかった新しい世界を覗いたような感覚でもある。
あるいは、「コミュニケーション」とか「コミュニティ」の本質みたいなものに触れる糸口がそこにあるような感覚なのかもしれない。
ともかく、「お風呂」とか「銭湯」とか、風呂屋の主人とか、独自の風呂釜とか、システムとか、それらまつわるイベントとかで、やいのやいのという人たちの輪に触れるというのは面白いものである。
はじめて「哲学カフェ」に参加してみる。テーマは「イクメン」。でも気になるのはコミュニティ。
2018年2月3日(土)
哲学カフェに初参加した。
http://cafephilo.jp/events/event/cafephilo-851/
この日は午前中に数軒のお参りをしたあと、午後からの婦人会の例会は両親の担当ということで、そちらは両親に頼み、僕は神戸で開催されていた哲学カフェに参加することにした。
動機としては、
・そもそも哲学カフェ自体に興味があったということ、
・主催されている先生と個人的なつながりもあったこと、
・「イクメン」というど真ん中ではないけれど、ジェンダーに関わる問題が扱われていて、関心の範疇だったこと
等が理由になるだろうか。
特にジェンダーに関しては、仕事でも近く関わるテーマでもあり、経験値を高めておきたいという思いもあった。
内容に触れることはひかえるが、10名程度の参加者で、「イクメン」について議論をした。思想というよりも制度や、行政の意図についても話題が及んで、ちょっと想定していた展開ではないな、と思いつつも参加者のみなさんの熱量を感じながら、議論に参加する。
開催時間は、13:30から15:30という2時間の枠だったが、一回休憩を挟んだものの、それほど疲れはなかった。集中して議論に乗って行けていたようにおもう。
学生さんも参加されていたけれど、多くは「哲学カフェ」についての経験が豊富な方や、哲学思想について学んで、より具体的な場でそれらの概念・観念に触れてみたいという思いがある方がけっこういらっしゃるような印象だった。
終わった後、エレベーターで乗り合わせた参加者の方にお声がけいただいて、近くの喫茶店で感想戦のようなお話うかがう。
哲学カフェの場に触れて、興味深かったのは、議論の内容もさることながら、参加されている方達のこと。とても楽しそうに、また継続的にあちこちの哲学カフェのこともご存じの様子だった。もちろん、議論の内容にもそれぞれの「経験」を感じた。
別に催している「おふろバー」なるイベントでも、「おふろ好き」とか、その関連の中で通じ合う「コミュニティ」の存在を感じており、個人的にそこへの関心が高まっている。
「好き」なものを中心に、(それがニッチでもメジャーであっても)イベントに集ったり、会話や、情報交換を重ねるなかで、「コミュニティ」的なものが形成される。そこで展開されるコミュニケーションのあり方は、すこし独特・ユニークであり、またそれに由来するのかユニークさをもったコミュニティを形成しているように思う。
その「コミュニティ」で、独自に展開されているコミュニケーションのあり方というものについても面白さを感じている。
ちょっとじっくりと、考えてみたいなぁと漠然と思っている。
哲学カフェに初参加した。
http://cafephilo.jp/events/event/cafephilo-851/
この日は午前中に数軒のお参りをしたあと、午後からの婦人会の例会は両親の担当ということで、そちらは両親に頼み、僕は神戸で開催されていた哲学カフェに参加することにした。
動機としては、
・そもそも哲学カフェ自体に興味があったということ、
・主催されている先生と個人的なつながりもあったこと、
・「イクメン」というど真ん中ではないけれど、ジェンダーに関わる問題が扱われていて、関心の範疇だったこと
等が理由になるだろうか。
特にジェンダーに関しては、仕事でも近く関わるテーマでもあり、経験値を高めておきたいという思いもあった。
内容に触れることはひかえるが、10名程度の参加者で、「イクメン」について議論をした。思想というよりも制度や、行政の意図についても話題が及んで、ちょっと想定していた展開ではないな、と思いつつも参加者のみなさんの熱量を感じながら、議論に参加する。
開催時間は、13:30から15:30という2時間の枠だったが、一回休憩を挟んだものの、それほど疲れはなかった。集中して議論に乗って行けていたようにおもう。
学生さんも参加されていたけれど、多くは「哲学カフェ」についての経験が豊富な方や、哲学思想について学んで、より具体的な場でそれらの概念・観念に触れてみたいという思いがある方がけっこういらっしゃるような印象だった。
終わった後、エレベーターで乗り合わせた参加者の方にお声がけいただいて、近くの喫茶店で感想戦のようなお話うかがう。
哲学カフェの場に触れて、興味深かったのは、議論の内容もさることながら、参加されている方達のこと。とても楽しそうに、また継続的にあちこちの哲学カフェのこともご存じの様子だった。もちろん、議論の内容にもそれぞれの「経験」を感じた。
別に催している「おふろバー」なるイベントでも、「おふろ好き」とか、その関連の中で通じ合う「コミュニティ」の存在を感じており、個人的にそこへの関心が高まっている。
「好き」なものを中心に、(それがニッチでもメジャーであっても)イベントに集ったり、会話や、情報交換を重ねるなかで、「コミュニティ」的なものが形成される。そこで展開されるコミュニケーションのあり方は、すこし独特・ユニークであり、またそれに由来するのかユニークさをもったコミュニティを形成しているように思う。
その「コミュニティ」で、独自に展開されているコミュニケーションのあり方というものについても面白さを感じている。
ちょっとじっくりと、考えてみたいなぁと漠然と思っている。
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