アイデンティティとは 日本人とは

 純粋な「日本人」などどこにもいない。本当はもっと多様で具体的で、ごちゃごちゃしたものが入り混じっているはずなのに、勝手に最大公約数を作って「日本人」をイメージしているのかもしれない。そして勝手に作られた最大公約数を有することができなかった日本人は、日本人なのに排除されていく。

 そして、その最大公約数というものは、日本人の中から生み出されたものではなくて、日本人ではないものを見つけ出し、それによって勝手に作り出されたものかもしれない。

 仮に、日本人と認められた人も、日本人と認められなかった人も、どこにもいない「日本人」という幻想を抱き、それを実現するために、そうなろうとし続けているけれど、決してそのような実態はどこにもない、日本国籍を持った人はいるけれど、「日本人」など、ほんとうはどこにもいないのかもしれない。そんなものかもしれない。 

 以下の磯前順一氏の文章からそんなことを。


 磯前順一『閾の思考―他者・外部性・故郷』(法政大学出版局、2013年)

 朝鮮人という他者を措定することで、日本民族の純粋性も初めて浮上し得るものである。しかし、その他者として措定した存在を同化していかなけれならない帝国の使命がある以上、他者との対峙関係のもとで初めて成り立つ自己の純粋性は、異種混淆的な不純なものへと転落していかざるを得ない運命にある。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、ポストコロニアル状況とはアイデンティティのダブル・バインド状態を絶えず生み出していくものだと看破した。朝鮮人は朝鮮人であることを許されず、日本臣民に同化することを強要されながらも実際に日本人に近づいていくと、日本人であることを拒絶される。あくまでも、植民地に住む日本人、すなわち二級国民に留まる存在であることを強いられていた。

 しかし、日本人もまた、朝鮮人や台湾人という他者の存在を設定することで、自分が日本人であることを初めて確認できた。しかし、一方で、内地にはアイヌ人や沖縄人がおり、日本人という境界はつねに不安定なものであった。日本帝国が帝国として拡大し続けようとするかぎり。すべての領域を包摂する日本臣民という同化概念が必要とされ、植民地の人間との境界性は曖昧化されていった。 こうして見るとアイデンティティとは、それが韓国人にしろ日本人にしろ、安定することのない主体の置かれたダブル・バインド状態のなかで、決して実現することのない同一性への強烈な願望としてとらえられるべきものなのである。(16~17頁)


 

 


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