(1月5日)2026年初法座 「心のよりどころ」ということ

1月5日は、毎年「初法座」としてお勤めをしています。

今年も15名ほどのみなさんがお参りください、初法座をお勤めしました。

この年末年始と初法座で、お話しさせていただいたことの一つは、
「手を合わせる場を持つということ」について、とでもいうようなことでした。

 昨年は、いくつかのいわゆる「仏壇じまい」「墓じまい」のお勤めをさせていただくことがありました。これまで「手を合わせ」、「お参り」をされてきた場がしまわれていく、閉じられていく流れがあります。さまざまな状況の中で、それは致し方ないことではあります。しかし、そういう場が閉じられていく、しまわれていく局面に立ち会って、あらためて、お参りをする場が、「心のよりどころ」であったということを感じずにはいられないことがたびたびありました。

 思えば、お仏壇やお墓に、どんなときに身を置き、手を合わせられるでしょうか。

 もちろん、年中の決まった季節や、日常でお参りを大切にされているということもあるでしょう。しかし、それとともに、改めてそういった仏さまの前、お参りの場に身を置こうと思われるときのなかには、心が動揺しているとき、自分一人では受け止めきれないことが起こったとき、ということもあるように思うのです。

 自分一人では受け止めきれないことがおこったとき、身を置く場、こころのよりどころが、お仏壇の前であり、ご本尊・仏さまの前であるとするならば、それらを手放していくようなあり方は、言い方を変えると、「人生で起こる出来事を自分一人の裁量で処理していく、受け止めていく」ような心持ちが求められるというようなことではないかと思うのです。

 そして、それは、多くの人にとって(もちろん私にとっても)とても困難なことを求められるようなことでもあります。

 しばしば「仏壇じまい」について、子どもやあとの人に「面倒をかけたくない」といわれることがありますが、お仏壇に手を合わせることは、面倒なこと、手間がかかることのように見えるかもしれませんが、実は、お仏壇をお世話している・負担を負っているのとは違う面があるのではないかと思うのです。お仏壇という手を合わせる場をもっている、家庭のなかにあるということは、受け入れがたいことがあったとき、心穏やかで亡くなった時に身を置く場があるということであり、それは、我々の方が「支えられる場」を持っているということでもあるのではないかと思うのです。(そして、このような考え方が共有・共感されなくなった時には、それは「信仰」が共有されなくなった時でもあると思うのですが)

 「信仰の場」、「礼拝の場」が、日常の中からなくなっていく流れの中にあるからこそ、その場が支えていたもの、支えられていたもの(それは私たちの心であり、生き方にかかわるものであると思うのですが)について、改めて見つめなおす必要があるのではないかと思うのです。

 一寺の住職としては、あらためて皆さんの中で、それらについてどのように思われているのか、みなさんの思われていることをうかがい、話し合ってみたい思いでもあります。

 私はこのように思うのですが、みなさんはどのように思われるでしょうか。

(ちなみに、ここに書いた内容を、法座でお話したわけではありません)

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