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銀を読んだ

最近、熊被害で話題ですが、 期せずしてリンクしたことが、 ネットで『銀牙~流れ星銀』を全巻読みました。 西野七瀬さんという方が、『銀牙―流れ星 銀』を全巻持っているという情報に接して、ふっと読み始めてしまったことによります。 子どものころは、わけもわからずに犬が闘うマンガと思っていましたが、大人になって読み返すと、大人にならないとわからない面白さがありました。 そして、しっかり『週刊少年ジャンプ』でした。

アイデンティティとは 日本人とは

 純粋な「日本人」などどこにもいない。本当はもっと多様で具体的で、ごちゃごちゃしたものが入り混じっているはずなのに、勝手に最大公約数を作って「日本人」をイメージしているのかもしれない。そして勝手に作られた最大公約数を有することができなかった日本人は、日本人なのに排除されていく。  そして、その最大公約数というものは、日本人の中から生み出されたものではなくて、日本人ではないものを見つけ出し、それによって勝手に作り出されたものかもしれない。  仮に、日本人と認められた人も、日本人と認められなかった人も、どこにもいない「日本人」という幻想を抱き、それを実現するために、そうなろうとし続けているけれど、決してそのような実態はどこにもない、日本国籍を持った人はいるけれど、「日本人」など、ほんとうはどこにもいないのかもしれない。そんなものかもしれない。   以下の磯前順一氏の文章からそんなことを。  磯前順一『閾の思考―他者・外部性・故郷』(法政大学出版局、2013年)  朝鮮人という他者を措定することで、日本民族の純粋性も初めて浮上し得るものである。しかし、その他者として措定した存在を同化していかなけれならない帝国の使命がある以上、他者との対峙関係のもとで初めて成り立つ自己の純粋性は、異種混淆的な不純なものへと転落していかざるを得ない運命にある。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、ポストコロニアル状況とはアイデンティティのダブル・バインド状態を絶えず生み出していくものだと看破した。朝鮮人は朝鮮人であることを許されず、日本臣民に同化することを強要されながらも実際に日本人に近づいていくと、日本人であることを拒絶される。あくまでも、植民地に住む日本人、すなわち二級国民に留まる存在であることを強いられていた。  しかし、日本人もまた、朝鮮人や台湾人という他者の存在を設定することで、自分が日本人であることを初めて確認できた。しかし、一方で、内地にはアイヌ人や沖縄人がおり、日本人という境界はつねに不安定なものであった。日本帝国が帝国として拡大し続けようとするかぎり。すべての領域を包摂する日本臣民という同化概念が必要とされ、植民地の人間との境界性は曖昧化されていった。  こうして見るとアイデンティティとは、それが韓国人にしろ日本人にしろ、安定することのない主体の置かれたダブル...

朝の公園で「らじじ体操」と 「どんぐり」を拾う。

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 先週から、朝のラジオ体操に参加している。   上坂部西公園 通称「みどり園」(https://www.amaryoku.or.jp/content/?mode=show&seq=1)  で、朝の6時30分から、されているのに参加している。    朝の目覚めに、30~40分ほどの時間、ラジオ体操と散歩で、カラダもアタマも目覚めて調子がよく、1日も気持ちよく過ごせているので、機嫌よく続けている。  もうすぐ4歳の息子も時々、着いてくる。 彼は、ラジオ体操のことを「らじじ体操」と言っている。(ここ2週間で3回くらい参加している)ちょっとずつ、体操らしい体の動きも見せるようになってきた。  アラフィフの私への影響としては、  ・気持ちのよい朝の時間。  ・からだが目覚めて、朝の運動、散歩として快適。  ・頭がめぐるし、散歩は思考にもやはりいい。  というような影響がある。  もうすぐ4才児も、体操や散歩、公園のあれこれが刺激になっているようで、ずっと歌ったり、何かを見つけて走り出したり、しゃべり続けたりしている。    例えば、  ・公園の定位置にいるネコに、駆け寄り話しかける。  ・めずらしい花や、虫を発見する。  ・その他、いろいろな刺激や興味をもたらすものがある。      公園のなかには、鳥の巣箱も仕掛けられていて、子どもに「小さな家があるよ」というと、とても面白がっていた。  最近は、どんぐりが目に付くようになって、毎日拾っている。   どんぐりの背比べを撮影してみた  息子と、今日は「どんぐり拾おうね」といいながら、公園に行ったのだけれど、体操を終えて、どんぐりポイントへ行こうとすると、    「何歳? どんぐりいる?」と、袋に入ったどんぐりをくれるおばさん、  どんぐりをひらっていると、「ここにもあるよ」「これもあげようね」と、どんぐりを追加でくれるおばさんも登場して、大量のどんぐりが入った袋をぶら下げて、家に帰った。    規則正しい一日は、楽しくもある。

住職はハガキを投函してまわっています。

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 大学や研究関係のことがブログになりがちであったので、ちゃんとお寺の事をしているということも書かなければと思っています。  東京から戻って、昨日・今日はお寺でのお仕事を進めました。  ※と言いながら、昨日は「人権研修」(受講必須)と、今日は「チェーンレクチャー打ち合わせ」が、それぞれオンラインで1時間ありました。  昨日・今日と、午前はお参りを中心に、午後は来週末は、 秋の永代経法要が予定 されていますので、ハガキの郵送や、近隣には手配りで投函するといった作業をしています。  西正寺ホームページ: 【行事案内】令和7年 秋季永代経法要 こちらがお配りしているハガキの原稿  郵便屋さんのごとく、自転車で町内をまわりながら、1軒、1軒投函しています。手間であることは間違いありませんが、配りながら「ご無沙汰しているけど、お元気かな」とかそのお家の方のことを思い出したり、この方の家はここだったな、と薄らいでいく地理的な記憶がリマインドされたりしています。結構、意味ある作業だなと思っています。  問題は、「時間」というリソースが限定的であること。(すべてはそれに尽きるわけですが)  あわあわとしながら、いろいろな作業を進めている日々です。 こちらが チラシのデザインです

古書の相場が暴落している。(20年くらい前と比べて)

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 宗教学会(@上智大学)を最終日の午前の部までで後にして、帰り道、神田神保町の古書街に足を運んだ。  思い返せば、20代の院生の頃は、東京にくると、必ずと言っていいほど足を運んでいた。安く本が買えるかもしれない、貴重な研究書や資料が、売りに出ているかもしれないと。 今は、ネットで古書を検索し、居間にいながらにして入手することができるし、なんならPDFで入手できるものもある。  しかし、今回は自分の研究リハビリ期間と言いつのっている時期でもあるので、若かりし思いをとり戻すべく、足を運んだ。  もちろん、楽しい時間だった。  古地図で、尼崎に関するもの、江戸期の摂津に関するものなどを店主の許可をもらって広げたりしていると、あっという間に時間が過ぎていた。  専門(仏教・真宗)関連の書店にも足を運んだ。刺激もたくさんあったが、古書店に積み上げられた、近年のものはもちろん、大正や昭和初期、あるいは明治からの仏教研究や、人文学関連の研究書の量と、あらためてまったく未知、想像をおよぼしたことのない書名の数々に学問の見えない底の深さにあらためて愕然とさせられもした。  この年になって、あらためて自分には扱う能力のない資料や、影印の資料の数々を見て、言うまでもないが、研究から離れてしまっていたブランクと無力感を痛感する。  さて、それで表題の件だけれど、古書の相場が暴落している。    今日見たもので、   ・野上俊静『中国浄土三祖伝』8800円   ・望月信亨『中国浄土教理史』5500円  であった。(他にも、驚く値段になっているものはたくさんあったが)  おそらく、一般の方は、「何が安いねん」と思われるかもしれないが、2000年代、私が修士課程になったばかりのころは、古書でこれらを買おうとすると、5万円以上、お店によると10万を超える値段がついていたように記憶している。  先日も、梅田の古書店で、   ・牧田諦亮『疑経研究』が6000円だったので、即買いしてしまった。  店主さんも、レジで、「これ、昔、もっと高かったですよね?… 間違いかもしれないので、確認していいですか?」としばらく待たされるようなことだった。(そして、値段は間違っていなかった)  研究状況の変化かもしれない、研究人口の変化かもしれない、あるいは、物理的な書物ではなく、取り込んでデータにしてしまったりすると、...

日本宗教学会に参加 9月14日午後~16日

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 9月14日(日)から本日9月16日(火)まで、日本宗教学会(会場:上智大学)( 大会特設サイト )に参加した。(リンク: 大会プログラム ) 14日(日)は、午前にお参りを終えて、昼前の新幹線で東京へ。 14:00からのシンポジウムに遅参して参加。  15日、16日は研究発表とパネル発表に参加(聴講)。  主に回った主題として、 弔いに関すること、量的調査や寺院などの現状に関すること、近代仏教に関すること、真宗学・仏教に関すること、友人・知人の発表といった関わりで2日間、発表を聞いて回ることができた。    貧弱なボキャブラリーであるが「よかった」、とてもよかった。  詳細に書いていくと、尽きなくなってしまうが、大まかにいうと以下の様なことがあげられるか。  ・最近の宗教研究にかかわる発表と質疑に触れ、学びや刺激が多かった。  ・研究や関心にかかわる発表をされた研究者・先生との知遇を多く得ることができた。   → これは、自分自身だけではなくて、大学での教育プログラムに大いに反映できることでもあると感じている。    ・かねてからの知り合いや友人との旧交を温めることができた。    書いてみると当たり前のことだけれど、まあ「よかった」のである。  こうやって、泊りがけで研究出張に出られるのも、お参りを引き受け寺の仕事を引き受けてくれている両親、家と息子の保育園の送迎もろもろを引き受けてくれている妻のおかげである。感謝。 日本宗教学会の会場となった 上智大学さん シェアサイクルで移動すると、世界陸上のマラソンに遭遇。 マラソンの交通規制で、道路が、がら空きだった。 交流会でたくさんの先生方と再会・ご挨拶 2日目の夜、宿(御徒町)から、上野近辺を散策しました the・アキハバラ  

記事になりましたよ情報(2件)

 このたび、以下の様な記事に掲載いただきました。 1、『中外日報』(2025年9月10日号) 見出し:「仏教者の平和活動とは」  9月4日の夜にオンラインで開催した、大谷栄一先生(佛教大学教授)を御講師にしたイベントについて記事にしていただきました。こちらでは、聞き手として登壇させていただきました。   イベントのページはこちら ( https://ngo-ayus.jp/activity/training/ayus_seminar/25talkevent/ )  大変勉強になり、刺激をいただいた会でした。私自身については、正直、十分なことができたか心もとなく、たくさん反省もあるようなことでしたが、イベント自体の感想は大変好意的なものを多々いただきありがたい会でもありました。  記事の中で、私のコメントとして紹介されているものについて、「教義」との関係の中で私の意図した形とはちょっと違うニュアンスになっているように思います。このあたり、気になる方はまた、直接でも聞いていただけたらと思います。  ※このイベントについては、ライブ配信のみで、アーカイブなどはありません。 2、『文化時報』ホームページ「福祉仏教ピックアップ」 https://fukushibukkyo.com/pickups/13141.html 先般 6月に、龍谷大学大学院実践真宗学研究科の講義「実践真宗学総合演習」で行ったワークショップについてのものです。こちらはすでに『文化時報』紙面にて6月に記事にしていただいていました。これがまた、オンラインでアップいただいたものです。

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