一日の仕事を終えて帰宅中。@電車の中。
あっという間に四月も終わり、明日から連休。
連休は自坊で、お参り。法事がけっこうあるらしい。
なんだかんだ忙しく、思うようにしなければならない仕事もすすまないのに、
時間だけが経っていく。
本も思うように読めていません・・・。
2010年4月30日金曜日
2010年4月24日土曜日
鷲田清一『悲鳴をあげる身体』
鷲田清一『悲鳴をあげる身体』 (PHP新書)
講演を聞いて以来、ファンになって、本を何冊か読んでいる。
「生きている」ってことを深く掘り下げて考えておられるなぁと思う。
日常の些細な振る舞いの意味とか、失われている日常の大事なものを語り、
また現代の病理の深層についても、考察されている人。(と思っている)
読後感は、ちょっとむずかしかったなぁと、いうのが正直な感想。
文章がすらすらと頭に入ってくるというよりも、じっくりと考えて、かみ締めて読まないといけないような感じ。でも、だからこそ、もうちょっと読み返さないといけないのかとも思う。
以下、示唆的だった文章。
「ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなく、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。」(70頁)
「宗教と科学との相違をあえて言うとするならば、宗教はどこまでも感覚の技術として開発されるということが一つある。第二に宗教は、さきほどは超自然的という言い方をしたが、じぶんを超えたなにものかへの回路を開く技術としてあったと考えられる。このことをある宗教学の研究者はこう規定している。つまり、修行や舞踊というのは、「じぶんを超えたものへの回路を開く」いとなみでもあって、そういう感覚訓練の視点からするならば、解脱とは、自己を自己自身からできるだけ遠ざける技術であり、救済とは逆に、自己とは異なるものを呼び込む技術だというのである。」(142頁)
「笛を人に合わすか、人が笛に合わすか、ここにフルートと竹笛の違いがある」(144頁)
「「道草」は目的地に着くことが惜しいくらいにそれじたいがきらきら輝くものだった」(162頁)
「私たちの子供の頃は途中で友だちを誘ひさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるといふ具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語らい合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったやうに思う。(中略)教室では学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」(163頁、唐木順三『現代史への試み』からの引用から)
講演を聞いて以来、ファンになって、本を何冊か読んでいる。
「生きている」ってことを深く掘り下げて考えておられるなぁと思う。
日常の些細な振る舞いの意味とか、失われている日常の大事なものを語り、
また現代の病理の深層についても、考察されている人。(と思っている)
読後感は、ちょっとむずかしかったなぁと、いうのが正直な感想。
文章がすらすらと頭に入ってくるというよりも、じっくりと考えて、かみ締めて読まないといけないような感じ。でも、だからこそ、もうちょっと読み返さないといけないのかとも思う。
以下、示唆的だった文章。
「ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなく、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。」(70頁)
「宗教と科学との相違をあえて言うとするならば、宗教はどこまでも感覚の技術として開発されるということが一つある。第二に宗教は、さきほどは超自然的という言い方をしたが、じぶんを超えたなにものかへの回路を開く技術としてあったと考えられる。このことをある宗教学の研究者はこう規定している。つまり、修行や舞踊というのは、「じぶんを超えたものへの回路を開く」いとなみでもあって、そういう感覚訓練の視点からするならば、解脱とは、自己を自己自身からできるだけ遠ざける技術であり、救済とは逆に、自己とは異なるものを呼び込む技術だというのである。」(142頁)
「笛を人に合わすか、人が笛に合わすか、ここにフルートと竹笛の違いがある」(144頁)
「「道草」は目的地に着くことが惜しいくらいにそれじたいがきらきら輝くものだった」(162頁)
「私たちの子供の頃は途中で友だちを誘ひさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるといふ具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語らい合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったやうに思う。(中略)教室では学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」(163頁、唐木順三『現代史への試み』からの引用から)
2010年4月23日金曜日
NHK出講4/23
毎月第四金曜日は、NHKでの講座を担当中。
今回は13回目。
ちょうど去年に、受け持ち始めたのだ。
前任の先生から引き継いだので、その先生のカラーなども考えたりして、いろいろと試行錯誤しながら来たようにも思う。
この一年にやめられた方がおられたり、新しく来てくださった方がおられたり。
今日は、神戸のほうで、すでにこのブログを見てくださっている人がいて、ちょっとびっくり。
ついつい、「仏教的な常識」を話そうとしてしまって、世間一般の感覚と隔絶してしまって、いかんなぁと思うことしばしば。
こっちが知っておいて欲しいと思うことと、聞いている人が知りたいと思っていることが隔絶していて、いかんなぁと思うこともしばしば。
仏教を知りたいという人が来てくれているのに、こっちが準備しているのは、予想外の体系をもっているものっていうのが、いけないのかもしれない。
「仏教とは何ぞや」てのが、世間一般で問われていないという状況も問題。
世間と隔絶した形で仏教を語ってしまいがちになる我々の感覚も問題。
問題は山積。
今回は13回目。
ちょうど去年に、受け持ち始めたのだ。
前任の先生から引き継いだので、その先生のカラーなども考えたりして、いろいろと試行錯誤しながら来たようにも思う。
この一年にやめられた方がおられたり、新しく来てくださった方がおられたり。
今日は、神戸のほうで、すでにこのブログを見てくださっている人がいて、ちょっとびっくり。
ついつい、「仏教的な常識」を話そうとしてしまって、世間一般の感覚と隔絶してしまって、いかんなぁと思うことしばしば。
こっちが知っておいて欲しいと思うことと、聞いている人が知りたいと思っていることが隔絶していて、いかんなぁと思うこともしばしば。
仏教を知りたいという人が来てくれているのに、こっちが準備しているのは、予想外の体系をもっているものっていうのが、いけないのかもしれない。
「仏教とは何ぞや」てのが、世間一般で問われていないという状況も問題。
世間と隔絶した形で仏教を語ってしまいがちになる我々の感覚も問題。
問題は山積。
2010年4月12日月曜日
羽生善治『決断力』
羽生善治『決断力』 (角川oneテーマ21)
幼い頃教えてもらって以来、将棋は好きだ。将棋の強い人はすごいと思う。
最近は、相手がいないので、将棋ができないことが残念だ。
昨日読んだのが、棋界で偉業を達成した羽生善治名人の本。
ちょうどボクの高校・大学時代一躍羽生ブームを巻き起こし、
それ以来常に、何がしかのタイトルを維持し続け、いまもトップ棋士の座にあり続けているような
不世出の棋士といってもいいんだろう。
その頭はどうなっているのか。 どんな心の持ち主であるのか。
その一端でも知ってみたいと思わされる人の一人。
そんなわけで、昨日帰りの新幹線で、と思って買って読んだ本。
ところが、読み始めてみると、多分過去に読んだことがある、ということに気がつく。
実家の本棚に並んでいるのではないだろうか。
とはいえ、買ってしまったということは、身についていなかったということなので、また最後まで
読む。
読んだ感想としては、
なにか新しいものを得るというより、今自分がしている作業を見直すきっかけになった印象。
「勝負に勝つ」ことを目指す、将棋の世界でもPCの出現によって、情報化や、知識戦へとトレンドが変わっているというのは、おもしろい。
「情報化社会」というのは、知識を持たざるものは、勝負のスタートラインにたった時点で既に負けることが決まっている。
しかし、ただ知識を持っているだけでは、結局「勝つ」ことはできず、その知識を「知恵」へと昇華していくことまで求められている。
なにもせずに本番に臨むことは、すでにこの社会では、「負け」であり「無意味」な時間をすごすことになる。ということが暗示されていて、興味深い。
でも、そのような社会は、正直「負担」を要請するもので、「しんどい」社会でもある。
そんな中で生きていかなければならないことの意味をまた考えないといけないようにも思う。
2010年4月8日木曜日
2010年4月1日木曜日
福岡伸一『もう牛を食べても安心か』
『生物と非生物の間』を読んで以来、福岡先生のファンになる。
内容がおもしろいだけではなく、文章がきれい。
なにより、その提示される「生命観」は、科学的でありながら非常に文学的でさえあるように思えること。そして、その文学的にも見える生命観は、仏教の思想にもリンクするようなところが多分にある。
その生命観は、ルドルフ・シェーンハイマーによって見出された「動的平衡」の生命観をベースにされている。その「動的平衡」をもって、現代的な諸問題にアプローチしている。
本書『もう牛を食べても安心か』は、例の狂牛病の問題を扱った一冊。
アメリカ産牛肉の輸入再開、全頭検査の緩和には反対を表明されている。
なんとなく目に付くタイトルだけれども、本書を読んでみるとタイトルがなぜ、「もう牛を食べても安心か」となっているのかを知ることができる。
逆に言えば、「食べられるか」、でも「安全か」でも、著者のいわんとするところとずれが生じるということ。牛肉問題ではなく、食の安全、安心とはなにか?を考える際には読まないといけない一冊。
生物に対する人為的な操作には、批判的なまなざしを持つ先生。
臓器移植の問題についても、「動的平衡」の生命観から、反対の立場。
肩痛、通勤
肩こり。
朝、バンテリンを塗ってみる。
肩にかけるカバンは荷物のバランスがわるい。
やはりリュックか。
しかし、スーツにリュックは、家人の評判がすこぶる悪く、禁令がでておる。
研究所のF丸先生と話していると、
「リュックを背負っても、ニューヨークスタイルでいいんじゃないか?」とのお言葉。
しかし、けっこういいビジネスバッグを買ってしまって、こちらも使い慣れてきたところ。
物の配置も落ち着いているし。
しばらくは、変化ナシの見込み。
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