2010年4月24日土曜日

鷲田清一『悲鳴をあげる身体』

鷲田清一『悲鳴をあげる身体』 (PHP新書)

講演を聞いて以来、ファンになって、本を何冊か読んでいる。
「生きている」ってことを深く掘り下げて考えておられるなぁと思う。
日常の些細な振る舞いの意味とか、失われている日常の大事なものを語り、
また現代の病理の深層についても、考察されている人。(と思っている)


読後感は、ちょっとむずかしかったなぁと、いうのが正直な感想。
文章がすらすらと頭に入ってくるというよりも、じっくりと考えて、かみ締めて読まないといけないような感じ。でも、だからこそ、もうちょっと読み返さないといけないのかとも思う。

以下、示唆的だった文章。


「ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなく、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。」(70頁)



「宗教と科学との相違をあえて言うとするならば、宗教はどこまでも感覚の技術として開発されるということが一つある。第二に宗教は、さきほどは超自然的という言い方をしたが、じぶんを超えたなにものかへの回路を開く技術としてあったと考えられる。このことをある宗教学の研究者はこう規定している。つまり、修行や舞踊というのは、「じぶんを超えたものへの回路を開く」いとなみでもあって、そういう感覚訓練の視点からするならば、解脱とは、自己を自己自身からできるだけ遠ざける技術であり、救済とは逆に、自己とは異なるものを呼び込む技術だというのである。」(142頁)


「笛を人に合わすか、人が笛に合わすか、ここにフルートと竹笛の違いがある」(144頁)


「「道草」は目的地に着くことが惜しいくらいにそれじたいがきらきら輝くものだった」(162頁)

「私たちの子供の頃は途中で友だちを誘ひさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるといふ具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語らい合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったやうに思う。(中略)教室では学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」(163頁、唐木順三『現代史への試み』からの引用から)



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