投稿

3月, 2020の投稿を表示しています

クラウドファンディングをして考えていたこと

 カリー寺基金というクラウドファンディングにチャレンジをしています。 https://camp-fire.jp/projects/view/211382  カリー寺基金を企画した理由について、その一つは、以前、活動報告でも書かせていただいたことがあります。なぜ地域に助成するという企画を立てたのかということについて、その意味について書きました。 https://camp-fire.jp/projects/211382/activities/115644#main  このカリー寺基金には、もう一つの側面があります。それはファンドレイジング―協賛の募集および、クラウドファンディングによる資金集めをしているということです。前者は、お金を地域に「渡す」というチャレンジ。後者は、地域や多くの人からお金を「渡される」「預かる」「寄付される」というチャレンジです。今回は、この後者の点について、少し言葉を重ねてみたいと思います。 ●僧侶は「ファンドレイザー」でもあった。 このクラウドファンディングは、私(住職)にとっては、ある意味で「僧侶としてお金集めをする意味を問う」というチャレンジでもありました。古来より、日本では僧侶が寄進を集めてまわる「勧進」などが知られています。勧進については、このキャンプファイヤーのページでも紹介されていました。  “ちなみに、「クラウドファンディング」という言葉自体は比較的新しいものですが、不特定多数の人から資金を募り何かを実現させるという手法自体は古くから存在していました。海外では美術品などのアート分野で寄付を募る取り組みや、日本では寺院や仏像などを造営・修復するために個人から寄付を求める「勧進(かんじん)」などがその例です。” ( https://camp-fire.jp/crowdfunding  より)    古代・中世には寺院や仏像の建立・再建の他、道路や橋等の公共事業なども「勧進」によって行われることがありました。弁慶の勧進帳等の逸話等でも知られています。 そういった意味では、そもそもの僧侶の活動とこのクラウドファンディングということは、一定の親和性があるものという言い方もできるのかもしれません。現在でも、お寺の運営・維持も多くのケースが「お布施」(寄付)によって成り立っています。また大きな工事や、事...

おてらびらき(6)やりました

イメージ
 午後からのんびりとお寺のお座敷をひらいておりました。  てらびらき( https://www.facebook.com/events/192693955497352/ )  12時30分から座敷のお掃除、片づけ、手を付けたいと思っていた作業をいくつかしました。一人だとできないことが、だれかいらっしゃるかも、という可能性が絶妙な緊張感をもたらして整理や掃除をはかどらせてくれました。  だれもいらっしゃらない可能性も十分考えていたのですが、  ・企画の相談行っていいですか?というアポ  ・お寺にいるなら、「………いいですか?」というご相談。 がありました。 ということで、ある程度「予定や時間があいてますよ」という宣言的なものも意味があるなぁという手ごたえもありました。その他、15時過ぎに、フェイスブック見てきましたとお越しくださる京都からお越しの方も。  ちょうどその京都の方がこられてほどなく「企画の相談」が始まったのですが、ここでかなり驚きの展開がありました。  相談された企画の中で、「田んぼでラグビーをやってみたい」という話も出たのですが、そのたまたま来られていた京都の方が、「田んぼでラグビーやっているのに関わっています」と!!!!  いらっしゃるのはその2人で、たまたま居合わせたところでこんなマッチングが!って笑ってしまうような遭遇でした。  そういう結びつきや出あいが自然に起こる場になったというのが、なかなか面白くうれしいことでした。  そういうわけで、明日もコロナで予定があいていますので、午後はのんびりとオープンしております。  3月14日もてらひらき(明日は、6.2)   https://www.facebook.com/events/563107851217449/    

「よいかなよいかな」をオンライン(zoom)で行いました。

 3月9日(月)。19:00から、仏教を学ぶイベント「よいかなよいかな」を予定していましたが、コロナウィルスの影響を鑑みて中止しました。その代替として、オンラインzoomを利用した仏教談義というか、談話会を呼びかけたところ、主催者含めて5名で開催しました。いずれも継続的に「よいかなよいかな」に参加してくださっていた人たちです。。  まずは、自己紹介と最近のトピックをチェックインとして、一言ずつ話してまわりました。    次に、今回の趣旨をアナウンスして、参加者それぞれがこれまでの「よいかなよいかな」での感想や、印象的だったこと、期待ややってみたいことなどがあれば、話してもらい、その出してもらった意見や思いを掘り下げていったり、広げていくような形で進めていきました。  ・「仏さま」の説明とても印象に残って、日常生活にも影響がある。  ・エピソード(たとえ話)がおもしろい。  ・参加者の考えや、感想・反応が興味深い。    等、それぞれの視点があるなぁと感じました。  そこから展開していった話題は、大きく二つあったようにおもいます。  一つは、「宗派」の違いについてのもの。  浄土真宗だけではなく、他の宗派ではどうなのか? 他の宗派のお寺やお坊さんとの接点でこんなことがあったけど?というような話が共有され、このよいかなよいかなの参加者のみなさんの「宗派のちがいって?」というような関心に触れるころができました。  もう一つは、「ご朱印」とか「占い」といった世間的に流行しているものや期待にどうしてお寺や浄土真宗は乗っかっていかないのか、距離があるのかという問い。  実際に、僕自身も、先日東京に行った際に、新宿の街を歩いたとき、かなりの「占い」のお店があり、またどこも盛況だったことを目にしたこと。あるいは身近な人が占いに対して関心を寄せていること、心理的なハードルがあまり感じられないことを、どのように考えたらいいのかというような疑問をもっていたこともありました。  あれこれ聞いた後、すこし私の立場から「占い」に対してどうして距離をとっているのか、という話をしたのですが、こういった話題をあつかってみるのも面白いなぁと思いました。 (抽象的なレビューですみません)  意見交換できたことで、「よいかなよいかな」の展開もいろいろと見えてきた...

西正寺の永代経法要を中止しないのは(規模縮小でやります)

 コロナウィルスで大変な状況ですが、自坊西正寺の永代経法要(3月25日・26日)は、コロナウィルス対応・対策を取りつつ、規模を縮小しながらお勤めさせていただく予定です。  法要の案内・詳細については、以下のリンクの記事に投稿しておりますので、ご覧ください。    http://saishoji.net/archives/317  この投稿では、なぜ現在において(中止ではなく)上記の対応に至ったのかという思いをすこし書きたいと思いました。 【とるべき対応の候補と選択について】 実際に2月末からの急展開で状況が追い付かなかったところが多々あります。全国の小中学校の休校や、諸行事の自粛の様子が報道を通してうかがわれ、どのように対応すべきか正直迷いが生じていました。また、全国のお寺にとっては、3月にはお彼岸を迎える時期ですが、お彼岸の法要や、永代経といった法要の動向も「中止する」という判断をされたことを多数うかがっていました。この判断は、苦渋の決断・断腸の思いであろうとお察ししますし、感染対策として最善の判断をされたということだと思います。  自坊の状況を考えたとき、お寺にお参りに来られる方は、いわゆる高齢者が大変多くいらっしゃいます。今回の新型コロナウィルス、肺炎の高リスク層です。この状況でなんらかの対応をとらないという選択はまずありえませんでした。  では、どうするか。可能性として考えられる候補をリストアップすると、以下の案があると考えました。(選択しないものも含めてリストアップしています) 1、平常通りに実施する。 2、感染対策(消毒・マスク等)を行いつつ実施する。 3、規模を縮小し、感染対策を行いつつて実施する。 4、参拝者なしで、お勤めのみを実施する。 5、中止する。一切何もしない。 もしかすると、この他にもあるかもしれませんが、 素人判断で、思いついたのはこのレベルでした。 上記のように、現状において1はもう無理だと思われました。学校や3月中の行事が自粛・中止をしているなかで、なにも対応を取らずに実施するというのはあり得ません。2の対応をとったとしても、本堂という空間に数十人の人がいるのは、感染対策として今回の場合は十分な対応ではないと思われました。また「都合をつけてご参拝ください」と呼びかけられるレベルでもありません...

中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書、2017年。

イメージ
中島岳志『親鸞と日本主義』。 2017年に刊行されて、話題となった書物。もともとは季刊『考える人』で連載されていたものに加筆・修正と書きおろしを加えて刊行されたもの。 連載の段階から、戦前・戦中の国家主義(超国家主義)と親鸞思想との接続・関係を論じるものとして大変注目させていただいていた。  三井甲之、蓑田胸喜、倉田百三、教戒師と転向した共産主義者たち、亀井勝一郎、吉川英治、暁烏敏等といった国家主義思想を唱えた人物・グループがいかに親鸞思想をベースに自説を唱えていたのかを明らかにした書物。  もともと、戦前・戦中の国家主義と仏教との関係でいえば、日蓮主義との関係がよくしられていた。石原莞爾、田中智学、北一輝等の日蓮主義者と国家主義・国体思想との関わりがよく知られていた。一方で、親鸞思想はいずれかというと、今日の状況から「リベラル」的なものとして理解されることが多かったのではないだろうか。  しかし、現実には、戦前・戦中には浄土真宗本願寺派でも「真俗二諦」という戦時教学を構築し、積極的に戦争協力・国家主義体制に荷担をしたという事実がある。  本書では、次のような指摘がなされている。  幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。  ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響をうけているのではない。国体論が浄土教の影響をうけているのである。法然・親鸞の思想が国体論の思想構造を規定しているのである。  そのため親鸞の思想を探求し、その思想構造を身につけた人間は、国体論へと接続することが容易になる。多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想構造の問題があった。浄土真宗の信仰については、この危うい構造に対して繊細な注意を払わねばならない。(本書・終章282ページ)   国学(本居宣長)と浄土教思想との接点があるという思想史的な視点と、実際の国家主義者たちの主張・思想をひもときながら、上記...

コロナ騒動の中で。

 先月以来のコロナウィルス感染対策。いたるところでのイベントの中止・延期。ご多分にもれず、3月のほとんどの行事や出講がキャンセルになった。  仕事がなくなってしまうと、逆になにをしていいのかわからなくなる。するべきことはたくさんあるはずなのだが。  午前中はデスクワーク、昼下がりから市内某所へお届け物とチラシの配布に。  3月末~4月の行事として  ・永代経法要(3・25水~26木)  ・大江戸ブギウギ(3・29日)  ・第17回はなまつり(4・4土)  ・第17回西正寺寄席(4・18土) が予定されている。どれも、実施できるかどうか、実施した場合は、コロナウィルス感染予防対策をどのようにしようか戸惑いつつ準備をしている。  できることを一つずつしていくしかない。  リスクは極力減らすように。「後悔」が起こらないように。  丁寧に丁寧に。

広告A