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1月, 2025の投稿を表示しています

尼崎仏教会総会に出席。(1月29日)

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1月29日の午後の予定としてもう一つ。 16時から尼崎仏教会の総会に出席してきました。 諸先輩方にご挨拶。 決算・予算の承認などを行いました。 このほか、火葬場や葬送に関する問題提起などもあり、仏教会としても動いてもらえたら大変ありがたいなとおもう提案もありました。 会の後は懇親会。普段はご一緒できない他宗や他の真宗寺院のご住職方とご一緒する貴重な時間でした。 スケジュール的になかなか会の活動には参加できずに申し訳ないところではありますが、久しぶりに参加出来て、貴重な時間でした。  

猪名川倶楽部主催 トークイベント「園田アイランド~まちの魅力とこれから~」の打ち合わせとお知らせ

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 昨日(1月29日水曜)の午後は、園田東生涯学習プラザで、以下のチラシのイベントの打ち合わせをしてきました。  2月24日(月・祝)に 猪名川倶楽部という団体が主催し、園田の魅力について語られるトークイベントがあり、そちらに登壇者の一人として上げていただくことになりました。   尼崎を知り尽くしている若狭健作さんが、基調講演的にお話されて、その後、藤川所長と中平が辻川さんのコーディネートのものとお話しするという構成の予定です。  若狭さんが作られている『南部再生』( http://www.amaken.jp/ )でも、以前「園田アイランド」という特集で園田を扱われたこともあって、こちらにも大変おもしろい園田情報がたくさんのっています。    当たり前すぎて住んでいるからこそ気づかないまちの魅力を認識できる時間になればいいなと思っています。  お時間あれば、ぜひぜひ足を運んでください。

クラウドファンディング 「難病者の社会参加白書」の制作

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両育わーるど代表の 重光さんからお知らせをいただいたので、 表題のクラウドファンディングに一口入れました。 応援したクラファンのリンクは以下です。 制度の狭間にいる難病者700万人の社会参加の選択肢を増やしたい~『難病者の社会参加白書 2025』の制作~ https://readyfor.jp/projects/ryoiku2025 【ご縁】  両育わーるどさんの星野さんが、西正寺で  THINK Universal  ( https://www.facebook.com/events/170255940556461 )というイベントを開催してくださったことによるご縁から。(さかのぼっていけば、そこにつながるご縁は ミーツ・ザ・福祉 でもあり…さらには…となっていくものだけれど) (懐かしい写真 2018年11月11日のイベント・・・ もう6年以上前か…)  この時は、障害のある世界、状況をツールを使って疑似体験するような経験をしたイベントだった。その後、別件で東京にいったときに、星野さんから代表の重光さんに引き合わせていただき、お茶をご一緒した。(お目にかかったのはそれ1回だけだけれど、ご自身の「難病」の事や、活動の事など伺ってとても心に残っている時間でもある) 【クラファンについて】  2021年にも、「難病者の社会参加白書」を制作するクラウドファンディングをされていて、今回がその第2弾。前回の時にも一口入れさせてだいて、この白書は自宅にもある。  ※前回作られた 白書は、こちらのリンクから参照できます。   https://ryoiku.org/wp-content/uploads/2021/09/2021_white_paper.pdf  難病について、僕自身も知っていることはあまりない。重松さんや、このクラファンで紹介されている情報の一部に接しているくらいである。そういう意味では、ほとんど知りえていない、でも厳然と、明確に、しかし見えづらい生きづらさが目の前にあるような感覚といえるかもしれない。   難病を抱えた方たちの実情や状況については、前回の2021年のクラウドファンディングの情報に大変詳しく書いてあったので、ぜひそちらを参照してみていただきたい。   2021年のクラウドファンディング  https://readyfor.jp/projects/r...

豊さと貧しさ(その2)

ht tps://ryogo1977.blogspot.com/2025/01/blog-post.html (その1)からの続き  冒頭にあげた言葉   「豊かさ」を知るということは、むしろ自分の中にある「貧しさ」と向き合わなければならないのではないか。貧しさを知らなければ、本当の意味で豊かさなんてわからないのではないか。  自分が過ごす時間を、「豊かな時間」にしようということも、そもそも子どものすごす時間が豊かな時間であるということに気づくことさえも、どうして起こったのかということを考えれば、今、自分の過ごしている時間のなかにある「貧しさ」を知らなければ起こりえなかったことではないかと思う。  あるいは、それが「子どもが過ごす時間の豊かさ」に触れて、自分が抱える貧しさが知らされ、立ち上がってきたとしても、それは自らの中にそれがあるからこそ、その対比が立ち上がってくるものでもある。   子どもの時間だけでは、その意味するところも豊かさも知ることはできない。自らの中に貧しさがあるからこそ、貧しさと対極にあるものー何が豊かで、何が自分には失われいるものであるのかということが、知らされてくるのではないだろうか。  もう一つ、印象的な逸話を紹介したい。これは、ある友人から人づてに聞いた話でもある。  その人は青年海外協力隊の活動で、水の少ない地域で井戸を掘る仕事に数年間住持していたという。任務を終えて、日本に帰ってきたとき、空港のトイレに入り、水道の蛇口をひねったときに、涙が流れて止まらなかったそうだ。  現地であんなに苦労して、井戸を掘っても、安全な飲み水を手に入れることはとてもむずかしかったのに、ここではこんなに簡単に安全な水が出て、トイレにきれいな水が使われている。こんなに豊かに水があることが、当たり前ではない状況をしっているからこそ、なぜか涙がでてとまらなかったという経験をしたというのである。  その話を聞いたとき、私には「水」を見て涙を流す感情というのはまったくわからなかった。彼が感極まっている豊かな日本の水に、毎日触れているが、それが当たり前で涙を流すことなどできようもなかった。  それはなぜなのだろうか。僕と、その話の彼との違いは、「水の貧しさ」を知っているか否かではないかと思った。僕は水の貧しさを経験していない、当たり前に水はあるものだと思っているのに対し...

豊かさと貧しさ(その1)

  浄土真宗本願寺派という教団の取り組み「実践運動」には「自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現のために」というフレーズがある。  このこともあってか、いつのころからか「心豊か」ということについて考えたりするようになった。「心豊か」って何なのだろう。「豊か」って何なのだろう。  それが、先日自分でもこんな言葉が出てきて驚いたくらいなのだが、こんなことを口走っていた。  「豊かさ」を知るということは、むしろ自分の中にある「貧しさ」と向き合わなければならないのではないか。貧しさを知らなければ、本当の意味で豊かさなんてわからないのではないか。   言った後から考えてみると、そうだな、そうなんだなとやけにうなづけることがある。  いつも、子どもを保育園に送っている。(朝、保育園に子どもを送っていくのは主に私)  いま3歳になった息子は、以前よりもかなりすんなりと保育園に向かってくれるようになったが、2歳くらいまでは、心の赴くまま手を伸ばし、首を伸ばし、なかなか足取りをすすめてくれはしなかった。  花壇では枯葉を広い、歩道のポール(10本くらいある)の金具を手に取りガチャガチャと引っ張って音を出して楽しむ。公園に寄り道しよう、ダンゴムシ探そう、行きたくないとその場に座り込んだりもする。  大人の足でだいたい5分もあればつくところを、彼といつも10分以上かけてようやく保育園に到着していた。5分でつけるのに、10分もかかるのは、ムダな時間だと思うのが普通ではないだろうか。朝は時間がない。10分が5分に、5分かかることが3分になるならなおのことよい。すこしでも節約したい、要領よく時間を使いたいと思うのは、多くの社会人が共感してくれる思いではなかろうか。  僕も息子に「はやくして…」といったことは、1度や2度ではない。(すまない…)  しかし、ここでさっきの「豊かさ」ということを考えてみよう。僕と息子と、どちらが「心豊か」なんだろうか。  僕の時間/オトナの時間は、節約して、要領よく使いたいといえば、聞こえがいいが、言い方を変えれば、「短ければ短い方がいい」ということだ。もっというと、それがない方がいい、無い方が望ましいという時間でもある。  しかし、彼(息子)の時間/子どもの時間は、大人が5分でできることを10分かけているけれども、1分たりとも無駄な時間ではない、楽し...

はすの会の報恩講と、年が明けてもう18日もたっていたという…。

今日もあっという間に1日が過ぎた。というより、新年になってもう18日。1月の半分以上、つまり、1/24以上が過ぎているということに驚いている。このままだと、また今年もあっという間に過ぎてしまいそうだ…。  ずっと、ばたばたと過ごす中に1日が終わっていく。やるべきことをやっていると時間が足りなくなっていく感覚。本を読んだり、ちゃんとした文章(論述)を書いたり、思考を深めたりという時間を持てなくなってきたなぁという焦りも頭の中に。 「書く」ということを習慣づけて、また 頭の中で考えたりするという作業をリスタートさせなければとおもったり。そのようなことで、またつれづれなるままに、雑文を書き出してみんと。  先週から葬儀が3件。いずれも、ずっと深いお付き合いをし、お寺を支えてくださった御門徒のご葬儀。1つ1つが寂しいお別れであると同時に、時代の変化、画期を迎えていることを感じるようなお別れ。これからのお寺のあり方を考えざるを得ない。  どんどんどんどん、お寺を取り巻く環境は変わっていく(厳しくなっていく…)。  午後からは「はすの会」(自坊でしている有志の御門徒さんとの勉強会」の報恩講をお勤めした。  いつもの御門徒、参加者にくわえ、この報恩講には参加してくださるご門徒のご婦人方に加え、今日は、近隣にお住まいの方(拙寺へのお参りははじめて)と、R大学の学生さん(以前特別講義でお話をしに行った関係者)と、「浄土真宗の法話案内」(インターネットの法話案内サイト)を見て、他市から足を運んでくださったという方。いつも以上に大勢のお参りをいただいて、お勤めできた。   御講師は、大阪の森祐真先生。お念仏の中で生活すること。(個人的に言い換えると、生活の中でお念仏をするのではなく、お念仏の中で生活をすること、生きることの中心にお念仏があることを示されたのが親鸞聖人のご生涯)というお取次ぎをいただいたように受け止めさせていただいた。  このはすの会の報恩講は、御法話のあと、御講師も一緒に車座になってお茶会をしている。今回は、「お墓」のこと、「ご葬儀」のこと、仏事のこと、あれこれ話題がもりあがり、とてもいい雰囲気だった。こんな感じで お座をつづけられたらいいな。   (次回は、2月15日(土)。といいつつ、今年のテーマもまだ決めかねて 次回に持ち越している)  法要のあと、初七日にお勤めに...

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