豊かさと貧しさ(その1)

  浄土真宗本願寺派という教団の取り組み「実践運動」には「自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現のために」というフレーズがある。
 このこともあってか、いつのころからか「心豊か」ということについて考えたりするようになった。「心豊か」って何なのだろう。「豊か」って何なのだろう。

 それが、先日自分でもこんな言葉が出てきて驚いたくらいなのだが、こんなことを口走っていた。

 「豊かさ」を知るということは、むしろ自分の中にある「貧しさ」と向き合わなければならないのではないか。貧しさを知らなければ、本当の意味で豊かさなんてわからないのではないか。

  言った後から考えてみると、そうだな、そうなんだなとやけにうなづけることがある。


 いつも、子どもを保育園に送っている。(朝、保育園に子どもを送っていくのは主に私)
 いま3歳になった息子は、以前よりもかなりすんなりと保育園に向かってくれるようになったが、2歳くらいまでは、心の赴くまま手を伸ばし、首を伸ばし、なかなか足取りをすすめてくれはしなかった。

 花壇では枯葉を広い、歩道のポール(10本くらいある)の金具を手に取りガチャガチャと引っ張って音を出して楽しむ。公園に寄り道しよう、ダンゴムシ探そう、行きたくないとその場に座り込んだりもする。

 大人の足でだいたい5分もあればつくところを、彼といつも10分以上かけてようやく保育園に到着していた。5分でつけるのに、10分もかかるのは、ムダな時間だと思うのが普通ではないだろうか。朝は時間がない。10分が5分に、5分かかることが3分になるならなおのことよい。すこしでも節約したい、要領よく時間を使いたいと思うのは、多くの社会人が共感してくれる思いではなかろうか。

 僕も息子に「はやくして…」といったことは、1度や2度ではない。(すまない…)

 しかし、ここでさっきの「豊かさ」ということを考えてみよう。僕と息子と、どちらが「心豊か」なんだろうか。

 僕の時間/オトナの時間は、節約して、要領よく使いたいといえば、聞こえがいいが、言い方を変えれば、「短ければ短い方がいい」ということだ。もっというと、それがない方がいい、無い方が望ましいという時間でもある。

 しかし、彼(息子)の時間/子どもの時間は、大人が5分でできることを10分かけているけれども、1分たりとも無駄な時間ではない、楽しい時間で、10分が20分かかってもいいとおもっているのかもしれない。「もっと過ごしたい時間」「すべてが意味のある時間」ではなかっただろうか。

 オトナは、無い方がいい時間を過ごしている。子どもは、なくしてほしくない時間を過ごしている。果たしてどちらが「豊か」なのだろうか。「心豊か」なのだろうか。きっと、多くの人が、子どもの方を選ぶのではないだろうか。

 「はやくして」というオトナの願望は、子どもの豊かな時間を削り、それは「意味のない無駄な時間だ」という烙印を押そうとしていたのではないか。(でも、どうしても急がなきゃいけない時もあるんだ、ごめんね)。

 その時間、その行為そのものを楽しみ、意味を見出そうとすること。それが、今この時間を「ないほうがいい時間」ではなく、「意味ある時間」として積み重ねていくことになるのだろう。 最近はそんなことを考えながら、できるだけ いい時間を過ごそうとしている。(そうならずに、どうしても時間の節約や、合理化しながらでなければ回せないものをたくさん抱えているのでもあるが…)

 【続く】 その2へ


 

コメント

このブログの人気の投稿

【登壇情報】宮崎哲弥先生と対談します。

【告知】 伝道院で報恩講が行われます

教育委員会(臨時会)に出席 人権や教育について考える機会

広告A