豊さと貧しさ(その2)

https://ryogo1977.blogspot.com/2025/01/blog-post.html(その1)からの続き

 冒頭にあげた言葉 

 「豊かさ」を知るということは、むしろ自分の中にある「貧しさ」と向き合わなければならないのではないか。貧しさを知らなければ、本当の意味で豊かさなんてわからないのではないか。

 自分が過ごす時間を、「豊かな時間」にしようということも、そもそも子どものすごす時間が豊かな時間であるということに気づくことさえも、どうして起こったのかということを考えれば、今、自分の過ごしている時間のなかにある「貧しさ」を知らなければ起こりえなかったことではないかと思う。

 あるいは、それが「子どもが過ごす時間の豊かさ」に触れて、自分が抱える貧しさが知らされ、立ち上がってきたとしても、それは自らの中にそれがあるからこそ、その対比が立ち上がってくるものでもある。 

 子どもの時間だけでは、その意味するところも豊かさも知ることはできない。自らの中に貧しさがあるからこそ、貧しさと対極にあるものー何が豊かで、何が自分には失われいるものであるのかということが、知らされてくるのではないだろうか。

 もう一つ、印象的な逸話を紹介したい。これは、ある友人から人づてに聞いた話でもある。

 その人は青年海外協力隊の活動で、水の少ない地域で井戸を掘る仕事に数年間住持していたという。任務を終えて、日本に帰ってきたとき、空港のトイレに入り、水道の蛇口をひねったときに、涙が流れて止まらなかったそうだ。
 現地であんなに苦労して、井戸を掘っても、安全な飲み水を手に入れることはとてもむずかしかったのに、ここではこんなに簡単に安全な水が出て、トイレにきれいな水が使われている。こんなに豊かに水があることが、当たり前ではない状況をしっているからこそ、なぜか涙がでてとまらなかったという経験をしたというのである。

 その話を聞いたとき、私には「水」を見て涙を流す感情というのはまったくわからなかった。彼が感極まっている豊かな日本の水に、毎日触れているが、それが当たり前で涙を流すことなどできようもなかった。

 それはなぜなのだろうか。僕と、その話の彼との違いは、「水の貧しさ」を知っているか否かではないかと思った。僕は水の貧しさを経験していない、当たり前に水はあるものだと思っているのに対して、彼は水がないという状況をずっと経験してきて、水が当たり前にない状況を知っている。それが故にこの日本にある「水の豊かさ」を知り、つよく感じることができているのではなかったか。

 豊さの中にあるものは、それが「当たり前」であるがゆえにその豊かさをしることはできないのではないか。むしろ、「貧しさ」を抱えるものこそ、その「有り難さ」を感じるがゆえに、それが「豊かである」と知りうるのではないだろうか。

 単に「豊かさ」を強調するだけでは、言葉は上滑りしていっているような気がする。

 本当に「豊かさ」を知るということは、己の中にある「貧しさ」を知るという側面をまた考えてみないといけないのではないかと、そんなことをつれづれに考えたりしている。

 

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