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2月, 2007の投稿を表示しています

『インストール』

 綿矢りさの新刊が気になって、いまごろ『インストール』を買って読んでみたわけである。  帰り道の古本屋で、『蹴りたい背中』と併せて購入。二冊で1060円。印税が入らない買い方をしてごめんなさい。    仕事が山のようにある状況にもかかわらず、通勤の電車の中で読んでしまった。  17歳女子高生が、日常の悩みから登校拒否をはじめ、ふとしたことから知り合った同じマンションの小学生とともに、チャットレディのバイトをするという話。   悩みは、深いものというよりも、青春時代特有のなやみといったもの。宗教的な深さや、重たいテーマが潜んでいるといったテンションではない。(教育問題とか、不登校とか、ネット社会の低年齢化とか、云々と言ったことを考え出すと、社会問題といえるかもしれないが、切り込むといったものではなく、あくまでもそれらは、モチーフを浮き上がらせる演出だろう)    けれども、文芸作品としてそれなりに評価されたというのは、やはり描写のうまさからなんだろうと思わされる。大学生の自殺を思い出すことによって自分の悩みを相対化して描いたり、母親同士の会話を、学校の会話とフィードバックさせることによりその特徴を浮き彫りにしたり。  平野啓一郎の『本の読み方』を読んだ影響もあるかもしれないが、「小説を読み込む」作業が面白く感じた。付箋を貼り、ゆっくり読み返しつつ、書き込み、メモを取り、読み進めるおもしろさがあった。    しかし、自分も登校拒否をしていた時期があるからかもしれないが、人生に於ける逃避行動の意味ということを考えてみると、なかなか意味深いものがあるかもしれない。若干のモラルハザードも発しつつ、それが結局、自己認識を深め、歩むべき道をすすむモチベーションを再発見することになるのだろう。

世の中の不思議

 僕の机の上には、ナショナリズム関連の文献は山のように積まれている。ともかくまあ、ひとつづつ、何とか順調に片づけられてはいるのだ。理解率は決して高くはないけれども、書評を書かねばならないという目的が、非常に脳細胞を刺激して、いままで見えてこなかったものにまで光を当ててくれている感覚。  なにかあたらしい光が見えてきている感覚か。  勉強が面白くなってきた。  もうちょっと頑張ります

師匠

 その人は、生活のできる時間すべてをそれに勤めた。  その人にとって、それは「生活の手段」ではなく、「人生」そのものだったのだろう。  そのような人を身近に感じることができたというのは、人生における数少ない幸福の内の一つだろう。

ナショナリズム

 某研究所の業務の関係で、ナショナリズムの問題に関連する文献を読んでいます。関連する文献は山にようにあり、専門化にはとてもなれそうにはありませんが、なかなか興味深い指摘がたくさんあります。  ナショナリズムはやはり「宗教性」とかなり近いところにあるような印象です。事実、「宗教的な資材」が、政治に動員されることが、ナショナリズム形成のひとつの典型であることなど、改めて考えてみるべきことがたくさん。  こうして考えてみると、「宗教」というもの可能性を本当の意味で気づきにくいところにいるのは、当の宗教者であるのかもしれないとさえ、思えるのであります。

年度末

 年度末のあわただしさを感じるようになってきた。  経常のスケジュール(締め切りのある仕事、自坊法座、出講)、今年度のあとかたずけ(報告書、報告論文)、来年度の準備(申請書、来年度の講義)などなど。  すべきことがちゃんとできるのかどうか、焦りが出てきた今日この頃。  

老い易く

 一日が短い・・・。  ふと数年前のバイトとかしていた時期を思い出すと、無駄ではないけれど、「早く終わらないかなぁ」と考えたりする時間のすごし方があった。  今は、朝起きてから、夜布団に入るまでの時間、振り返るとあっというまのような気がする。  思いついた調べ物も、実行に移すまでに至らない。    かといって、なにもしないではすまない。    実行のために必要だと思うもの  スキルアップ、効率化、なにより意志の強さ。

松下幸之助~日経アソシエ

 今回の日経アソシエは、松下の特集。  松下電器の経営哲学は松下幸之助の影響が色濃く残っている。  松下の改革は、会社の体制などのシステムや人材の構成を大きく変えたりはしたものの、それと同時に従来の理念・哲学を変えるのではなくよりいっそう徹底して周知するようにしたとのこと。  今回の特集にも、その金言が多く紹介されていた。  なかでも、今回気に入ったものがコレ。    お客様がほしがる商品を売るな。   ためになる商品を売れ    テレビなどを見ていてもそう思う。  最近はつまらない番組が多いので、なかなかテレビを見ない。(テレビを見る時間がなくなったということもあるが)    すべてがすべてそうではないが、「どんな番組が視聴率を取れるか」という、視聴率のためになにかがつくられているような番組が多い気がする。   たとえば、最近の番組のCMの入り方などは、一番盛り上がるところで「ブツッ」っと切られて、段落や落ち着き、それまでの「文脈」などはまったく無視されてしまっている。これも、精神衛生上よくない。こんな不自然な切れ方に慣れてしまうと、頭も悪くなってしまうのではないかとさえ思うのだ。  あるいは、「ああ、おもしろかった」とか、一瞬の笑い。それも大切なことでもあるけれど、それだけで、あとに続かない。  一瞬の時間をすごすためだけのものならば、いまの僕にはいらないのだ。  愚痴になってしまったけれど、松下幸之助のこの言葉は、自分の仕事に対する警句でもある。    なんのためにそれをするのか、誰のためにそれをするのか。   どこを向いて仕事をするのか。

黙想

 宝塚の合気道の道場では、稽古を始める前と稽古を終えるときに黙想をする。  静かに目を閉じて、心を作る。  静寂の中、張り詰めた空気が一瞬にして作られる。  今から行なう稽古のための雰囲気と、心の準備がその数十秒の間に行なわれるのだ。  ほんの数十秒だけれど、重要な数十秒。      目を閉じて、心を落ち着かせるとき、僕はもうひとつ別のことを考える。  ざわついた心は少しばかりコントロールできるが、「絶対の静寂」にはならないということだ。  どうしても、コントロールしきれない部分が残る。  その心に気がつくということがとても大切な何かを教えてくれるような気がする。    心をコントロールしていくことも大切だが、究極的にはコントロールしきれるものではないのではないかと。  それは、非常に仏教的なテーマだと思う。

睡眠への渇望

 一日のうちにある程度以上の情報を処理しすると、そこから先は、本を読んだり、講義に出たりしても、なかなか頭の中に入っていかない感覚になるときがある。  「もうはいらないよ!」と、頭の方から訴えがくるのだ。  頭のキャパシティがいっぱいで、目や耳などから入れようとする情報があふれて出ていってしまっている感覚。効率の悪い状況になっていると自覚できる時がある。    そんなときこそ、睡眠が必要で、睡眠が非常に意味のあるものになると感じる。  いろんなものをインプットして、あるいは自分の可能性を掘り起こして、ごちゃごちゃになった頭の中の机を、眠ることによって整理するような感覚。  起きている時に、今日は寝ることさえも「成長への糧だ」と思う、そんな一日を過ごせた時の充実度はもちろん高い。  

カラト書房

マリンピア神戸に買い物に行く途中、前々から行ってみたかった古書店 「カラト書房」 に立ち寄る。  魅力的な品揃えと中国関連に絞った、通好みの本屋さんだ。  きれいな店内。お店のおじさんと話をする。脱サラして、この仕事をされているという。「楽しんでやれている」とおっしゃる。ほんとに楽しそうだ。  吉川幸次郎氏の著作三冊、王力『古漢語辞典』を購入。 また、訪れたいお店ができた。ありがとうございます。

本願寺史関係の本を読んで

今週は、本願寺の歴史関係の本を3冊読んだ。 千葉乗隆『親鸞聖人ものがたり』 千葉乗隆『本願寺ものがたり』 金龍静『蓮如上人の風景』  中世・戦国期の行動原理というのは、やはり当時の価値観に則してみなければ理解できない。本願寺の動向にかぎってみても、関東各地の門弟集団との関連・力関係、比叡山との関係、国家・朝廷との関係など、背景となる要因を知って初めて理解できる。  当時の寺社勢力の地位や行動原理というものも興味深い。  寺社・聖域というよりも、「仏教教団」という名の一勢力のような印象。  「朝廷」「戦国大名」「寺社勢力」がそれぞれの領域をカバーしつつ、ある場合は共存、ある場合は闘争を繰り広げているような時代であっただろうか、という印象を受ける。  一番の収穫は、知らないことが、やはり「知らなかった」とわかったことか。  気になったことを羅列すると  ・門弟集団の動向  ・本願寺と比叡山の関係の歴史  ・北国への教線の拡大とその影響力

如実

 ついつい刺激的な言葉を使う修正が人間にはあるらしい。  大げさなことを言ってしまいがちになる。  多少刺激的なニュースのほうが話題としては面白い。しかし、「誇張」はいけない。  物事をそのごとく伝えることは難しいのだ。

回り道をたのしむ

 お参りの後、京都へ出勤。  今日は、JR尼崎駅までの道のりを歩いていった。  自転車を置いて帰ったり、自転車の鍵を忘れたりして、数日歩いて往復せざるをえなかった。だいたい20分から25分くらい。自転車の倍程の時間がかかるが、歩けない距離ではない。むしろ、なまった体には適度な運動。  今日もすこし時間に余裕があったので、徒歩にて駅まで。  どう効率的に時間を使うかということも、もちろん必要。  けれど、あえて時間をかけて自分の足で駅まで歩くことは、「いかに駅までの時間をたのしむか」という課題に答えられているような気がする。  急いでいろんなことを片づけて時間を作ろうとすると、かえって心に余裕がなくなっている。  駅まで歩いていくと、時間はかかるが、一日ゆとりをもって過ごせているような気がする。    時間のあるときは、徒歩移動。

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