2015年8月16日日曜日

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年4月)

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年)






 本屋で見かけたことをきっかけに、軽く読んでおこうと買った本。
 取材を元に書かれたルポ。ただ、やや「外」からの視点で書かれた印象。

 書かれたモチベーションとしては、葬儀の要不や意義についての議論の中で、

「だが私は、ちょっと待ってよ、と思った。議論以前に、葬送の仕事をする人たちが、どのような思いで、どのような働きをしているのか。私たちは知らなさすぎやしないか、と。」(あとがき、249頁)

と感じたところにあるのだろうと思われる。

 6章構成の中で、「葬儀の専門学校」に通い学ぶ学生たち、葬儀社、納棺・湯灌の業務に携わる人たち、エンバーマー、火葬場の職員さんたち、等に取材し、それらの声と思いが集められている。いずれも、真摯に遺体や遺族に向き合い、使命感や意義をちゃんと見いだしてその仕事に携わっている姿が描かれている。
 熱い思いをもって、葬送業界に関わっている人は多様だ。身近な葬儀で感動を覚えた人、人生の変遷の中で関わった人。それぞれの人生、生活の背景と共にその業務や志か語られている。

 葬儀というものが、どんな人に担われているのか、どんな思いで仕事が為されていたのかを、想像を及ぼすにはいい一冊。

 
 個人的には、評価についてはペンディングしておきたい印象。
 本書の表現の方法は、取材対象が直接立ち上がってくるのではなく、著者の「取材現場」に、読者が直接居合わせている印象。取材対象が語る言葉や、行為に対して、著者の思いやリアクションも含めて描写される。そのためか、取材対象の方の言葉が集められているのだけれど、ところどころに著者のフィルターがかかっているようにも感じる。そういう意味では、どこかしら、著者のこうあって欲しい、こういう人たちであって欲しいという期待も感じられなくもないのかも・・・。
 



追記:
 アマゾンのレビューは今日(2015/08/16)現在、のきなみ高評価だった。


2015年8月11日火曜日

2015/08/11 テンプレート変更

ずっといじってなかったので、久しぶりにテンプレートを変更してみました。

十字架のある教室(8/8-8/9 みんなのサマーセミナー)

みんなのサマーセミナーの会場は、
尼崎市が誇るカトリックの女子校・百合学院(http://yuri-gakuin.ac.jp/

サマーセミナーのウリの一つは、「女子校に入れること」。
スタッフさんたちの「女子校には入れますよ!」推しと、そこにかなりの熱があったことも感じました。笑

会場の様子は、サマーセミナーのフェイスブックでも確認できるのですが、そこでふと目についたのが、教室や至る所に「十字架」(十)があること!

講座のなかには、
 神社の宮司さんや、お寺の住職がする講義もあるのですが、その人たちも十字架の下で、その教えについて語るという、レアな姿が!

 ・十字架の下で仏教を語る僧侶!

 https://www.facebook.com/amasemi/photos/pcb.747817985340839/747817778674193/?type=1&theater

 とか

・十字架の下で神道を語る宮司!
https://www.facebook.com/amasemi/photos/pcb.747382335384404/747382282051076/?type=1&theater

とか。


教室だけでなく、体育館にも!
https://www.facebook.com/amasemi/photos/a.668641296591842.1073741830.658223770966928/747287885393849/?type=1&theater



この十字架があることについて、人それぞれ意見は違うだろうけれど、
個人的には「いいなぁ」と思ってしまったわけです。

 宗教的なシンボリックなものを前にして、学校生活を送る。
 他の学校と変わらない授業をしていても、その象徴するものがあるだけで、それらの営みを全部宗教的な情操が包んでいる空間が出来ているように思えるのです。
 
 もちろん、僕の母校である平安高校や、龍谷大学、あるいはその他の仏教系の大学にも礼拝施設があって、宗教的な空間が設置されてはいるのだけれど、これほどまでに至る所に、宗教的な象徴が配置されているところがどれだけあるだろうか。

 この全体的にどこにいっても「十字架がある」という、宗教的象徴が満ちあふれた空間は、その精神が(そこにいる当人たちが自覚していようがしていまいが)、影響を及ぼし続けている場所がそこにあることを感じずにはいられず、仏教徒だけど、いや仏教徒だからかも知れないけれど、
「あぁ、イエス様の息吹がここにあるのだなぁ」と新鮮な驚きで、その学校内の雰囲気を味わった次第。


8/8-8/9 みんなのサマーセミナー

先日、尼崎では「みんなのサマーセミナー」という行事が開催されました。

僕も予定があえば、必ず参加させて頂いている「あまがさき・ソーシャルドリンクスhttps://www.facebook.com/amagasakisd」が、愛知で行われているサマーセミナーのお話をうかがい、それが元で実際に現地に見学にいき、尼崎でも出来たらいいねと盛り上がり、実際にやってしまったという勢い満載のイベント。

 先日のソーシャルドリンクスvol.l23(http://kokucheese.com/event/index/305419/)で、お話を伺って、その動きを知りました。スタッフ・関係者の楽しそうなこと、みんないきいきとされていて、それだけでいいイベントだなぁと直感しました。

 スタッフだけが盛り上がるのではなく、話を聞いた人もぜひ参加した見たいと思う巻き込まれたい感のあるイベントで、クラウドファンディング・FAAVOhttps://faavo.jp/hyogo/project/600では、当初目標の2倍の額を達成!
(ソーシャルドリンクスで、お知り合いになった方もたくさん関わっていらっしゃるのと、なにより楽しそうな、応援したいイベントなので、些少ですが、私もご協力させてもらいました)


 当日までの動き・当日の様子も、フェイスブックで見ることができます。  


 残念なことに、8月8日(土)は、お寺の仕事と、月一回のNHK文化センターの出講が重なり、足を運ぶことが出来ませんでしたが、2日目の9日(日)は、
朝の朝礼と午後の授業になんとか参加できた次第。


9日(日)
8:40 会場(百合学院)に行く。
受付で、ファンドレイジングの御礼のTシャツと、バッジをもらう。
このバッジを付けていると(支援したので)、会場内から「ありがとう!」と声を掛けてもらえるというシステム。笑 





開会前の様子を見ながら、顔見知りとご挨拶、お話。
朝、こうやってみんなで集まるのっていうのもいいなぁと思う。



9:00開会式

朝の開始はラジオ体操から。
その後、諸注意があって、校歌斉唱。

校歌は、なんとキダ・タロー先生作曲「ああ尼崎市民家族」
市制70周年(来年は100周年なので30年前!)
を記念して作られた歌だそう。でも、尼崎の雰囲気を伝えてくれるよい歌です。
百合学院の生徒さんの合唱隊が歌ってくれました。
動画!「https://www.facebook.com/amasemi/videos/746974525425185/?pnref=story







  
 















その後、授業開始。二日間で171講座!


スケジュールの都合上、朝礼のみ参加して、一旦早退しましたが、
午後から、ある講義を受けました。
それも、とても刺激的でおもしろかったです。


こういう行事には街を変えていく力があるなぁ、人を変えていく力があるなぁと感じた次第。




2015年8月10日月曜日

中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年)

中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年)





2015/08/10(月)
ふらっと入ったJR尼崎の駅ナカの本屋で見かける。
ぱらぱらとめくって、雰囲気と内容から購入を決定。 ほぼジャケ買い。
もともとはwebの連載から展開した書籍。

父と娘の週末トーク

100万プレビュー以上を記録した有名なコンテンツだったそうだけど、本を見るまで知らなかった。



一気に読了。内容は、とても良かった。いろいろと考えた。


 表紙・タイトルはポップだけれど内容は、「父と娘がガチでトークしました」という表紙に書かれている言葉に嘘はない。父と娘のガチトーク。
 恋愛について、「父がキモい」ことについて、「人生」について、死について、いじめについて、ディープなテーマが親子でしっかりと、本当にしっかりと語り合われています。

 読み終えて、あらためてすごいなぁと感じたのが、タイトル『お父さんがキモい理由を説明するね』の妙。

 お父さんがなぜ「キモい」のかがしっかりと語られて、お父さんが撃沈するわけだけれど、一貫して流れているのは、ちゃんと成立している親子の「対話」。
 父は、自分の経験や知識を語ると同時に、娘に対して投げかけを行い、またなにより娘の考えや思いを受け取って驚きを得ている。娘は、自分の思いや感情をちゃんと言葉にして、13歳の世界と考えを提示して、全力で語っている。

 「お父さんがキモイ理由を説明する」というタイトルに象徴されるように、娘の方がその世界を開陳して、父親に衝撃を与えるという構図は、父親にとっての不可解きわまりなく、受け入れがたい感情が、まさに13歳の中学生の娘のあり方そのものであって、それと向き合ったことで、はじめて「対話」(はもちろんのこと、そもそも思春期の娘とのコミュニケーションそのもの)がなりたっているということを、象徴しているのではないかと感じ入った。

・対話すること
・インタラクティブな学びのあり方
・親子のコミュニケーション
・ディープな問いを深く考えていく面白さ

読む人が、「考えられる」本になっていると思いました。
おススメです。

そして、巻末の成人した娘に宛てられたお父さんの手紙は、ちょっと、うるっと来ます。



あと、つれづれに書くと、

・サオリちゃんはいい子だなぁ。
・賢いし冷静だなぁ。
・家族みんな仲がいいなぁ。

こんな風に語り合える関係がある、というのは、非常にうらやましくあります。




2015年8月6日木曜日

鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』




鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』

2015/8/6(木)
鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年5月25日刊行)

寺院・住職に対するインタビュー、取材を元にしたルポタージュといった性格の本。

全体で4章構成
 第1章は時代・社会変化、災害などの事象によって、運営・経営の危機に瀕する(瀕しながらも奮闘する)寺院の実状、
 第2章は、時代に適応しようとし、新たな試みをしたりするなどしている僧侶、寺院の姿を、
 第3章は、廃仏毀釈や、農地改革などで劇的な影響を受けた歴史的な背景から寺院の実状に近づこうとし、
 第4章には、各教団がおこなった実態調査の報告が(付録的に)置かれている。

 こういう性格の本を書こうとすると、やはり「事例紹介的」にならざるを得ないのは、寺院寺院で、規模や実状がまったく異なるからだろう。隣同士のお寺でも抱えている問題や、状況はまったく違ったりする。
 そういう意味では、一般化できる問題と、個別的な問題が、併置されるように語られていて、それを見分けることがむずかしい(見分けることというより、分類することがほぼ困難)なのではないだろうか。人によって、「一般的な問題」と思われることと「個別的な事例だな」と思うことの境界があいまいだったりする。 共感するしかないということも、一般化して語る事を許さずに「ルポ」的に、こういう手法で語っていくしかないのかな、といつも思う。

 寺院や宗教が果たすべき役割、求められること、というのも同様で、地域や立場によってそれぞれ考えていることが違うので、これまた一般化できない。
 これはもう、コミュニケーション能力でその場、その地域で発掘していくしかないのではないかと思っている。

 時間を掛けずにざっくりと書くので乱暴になるけれど、こういう個別的な事例を、無理矢理に一般化するのではなくて(する場合は慎重にしつつ)、
読み人個人の課題や思いとすりあわせながら、自分のなかに落とし込んでいくまで、というのがこういう性格の書の向き合い方かな~等と思った次第。十把一絡げにしてはいけない。
 

関連記事
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/326116/060400010/?ST=business&P=1

http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/240960.html

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2015061700005.html


2015年8月5日水曜日

小林正弥監修、藤丸智雄編 『本願寺白熱教室』

2015/8/5(水)
小林正弥監修、藤丸智雄編
『本願寺白熱教室』

いまさらながらに、読みました。遅くなりまして、ごめんなさい。
前職の研究所が、法蔵館から出した一冊。

身内を褒める、手前味噌のような感じになるのもアレですが、
それを差し引いても、伝統教団の中ではかなり進んだ議論が公開の場で行われたのではないかと思う。あらためて見直しても刺激的な議論。

僧侶同士であっても、意見の割れる問題が設定される。そこでの意見や判断から、どういう価値がわれわれの中にあるのか、何を優先して行動しようとしているのか、が自覚的になってくる。

頭の中で結論を出すのではなくて、現実の具体的な問題のなかに身を置く。その場で身を引き裂かれるような判断が迫られる中で、「えいっ」と決断をする。そんな中でしか、社会的な実践なんてできようのないのだろう。そんな中でしかちゃんと社会的に意味ある行動なんてできないのだろう。そんな風に思うのだが、どうだろうか。

 現実の社会の中で向き合おうとするならば、かならず突き当たる「ジレンマ」をちゃんと正面から見据えていること。
 「本願寺」という宗教教団(団体・お寺)の名称を冠しながらも、「宗教」と「宗教教団」が抱える「長所」と「短所」(問題)を忌憚なく、遠慮なく書いている。
けっして「布教」(ましてや一般が思われる「洗脳」とか)目的の内容ではなく、ちゃんと「宗教」とはなにか、「公共」とはなにか、「公共の場で宗教がある、ということにどんな意味があるのか、ということについて考えられる内容になっている。




「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので

今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。  数年前に大阪大学が、大学としてのカ...