龍谷大学大学院実践真宗学研究科で担当している講義「宗教実践特殊研究」。
(なかなか、いかつい名前である)
昨年企画・実施した研究科主催のシンポジウムを受ける形で、「ソーシャルインクルージョンと宗教」と題して、宗教者による社会課題に対する実践をテーマにしている。
自身が宗教者(僧侶)でもある若い大学院生のみなさんが、それぞれ関心をもった「社会課題」について調べて発表してもらい、その発表とその後のディスカッションを通して、宗教、あるいは宗教者が関われる可能性―そのフィールドの設定や、具体的な方法―について、考えを及ぼしていくことができたらと、目論んでいる。
これまでは、それぞれの自己紹介を通して、身の回りにある課題や、関心を掘り下げる作業、それから、現在の社会の動きとして(講義のテーマでもある)「ソーシャル・インクルージョン」という考え方、宗教と社会の関係性―「世俗主義」とその捉え直しという―変遷について、レクチャーを行った。
それを踏まえて、今回から、大学院生による発表という回。
一番目の院生さんが選択してきたテーマが、自身がある業界でアルバイトしていることもあって、「悪質クレーマー問題」。
問題の詳細については、ググったり、以下のリンクをみていただけたらと思う。
■労働組合UAゼンセンによる悪質クレームの定義と対策の文書■
正直、宗教者のフィールドに結びつくのだろうかと、不安がなかった訳ではない。
しかし、受講している院生の積極的な発言や、視点の提示によって、予想以上の視野の広がりと、興味深いディスカッションの展開になった。
悪質クレームという問題を、社会的な病理という面からアプローチする視点、
社会心理や、文化的な背景もあるのではないかという、外国での状況と比較した意見。
また、宗教者のフィールドとしては、「企業チャプレン」というアプローチについても言及があった。
(そして、企業チャプレンの話題については、本日、以下の記事があることが、臨床宗教師会のMLでも配信されて、なんとタイムリーなことかと驚く。
※「クリスチャントゥディ」
「米国で雇用広がる企業チャプレン 充実しない日本の「心のケア」
http://www.christiantoday.co.jp/articles/1358/20070910/news.htm
基本的に発表は、「宗教者」としての視点、フィールドまでに考察は及んでいない、純然たる「社会課題」についてのレポートであった。しかし、それを場に出すことで、それまでの(宗教者・僧侶である)自分たちと異なる視点や、アプローチに接することになるという経験は、それはそれで、刺激をもたらしたように思えた。
知られるところ、得られるところあるだろうと思いつつ、
それと同等のチャレンジを含んだ講義の設定であったけれど、実際に発表とディスカッションを一回行ったころ、予想以上に手応えもあった回にもなった。
(このことについては、講義内で受講生とも共有している)
今後は、「障害・障害者」について、「多文化共生」について、等、
楽しみな発表もあるのようなので、期待している次第。
2018年5月16日水曜日
「おてらかいぎ Temple meeting」やりました
昨日(2018年5月15日)「おてらかいぎ」と名づけた会を行いました。
継続的に、学びの場、遊びの場、つながりの場として、お寺で会をしたいとこんな会を開きました。そもそもは、「失語症」や、「障害」あるいは「ガンの経験」を語らう場とがお寺でできないか?という相談を頂いていたことも一つのきっかけでもありました。
当日は、主催も含めて7名の人が集まりました。
参加者による自己紹介とそれにあわせて、関心や抱えている課題を出し合い、話し合いました。
失語症の支援、高齢者施設の課題、中高生・若者支援の活動、地域包括ケアの実情と課題、ガンの経験とそこから生み出される価値やグッズ、といったことが語り合われました。
自分たちの業界ではあたりまえのことが、すこし離れるとまった知られていない新しい知識や情報として共有される場であったように思います。
つながりや、気づきを共有すること、それだけで変わっていくこともあると思います。
今後は、これを形にしていきたいとおもっています。
継続的に、学びの場、遊びの場、つながりの場として、お寺で会をしたいとこんな会を開きました。そもそもは、「失語症」や、「障害」あるいは「ガンの経験」を語らう場とがお寺でできないか?という相談を頂いていたことも一つのきっかけでもありました。
当日は、主催も含めて7名の人が集まりました。
参加者による自己紹介とそれにあわせて、関心や抱えている課題を出し合い、話し合いました。
失語症の支援、高齢者施設の課題、中高生・若者支援の活動、地域包括ケアの実情と課題、ガンの経験とそこから生み出される価値やグッズ、といったことが語り合われました。
自分たちの業界ではあたりまえのことが、すこし離れるとまった知られていない新しい知識や情報として共有される場であったように思います。
つながりや、気づきを共有すること、それだけで変わっていくこともあると思います。
今後は、これを形にしていきたいとおもっています。
「広場」という概念はおもしろいー広場ニスト・山下裕子さんのお話 あまがさき縁側会議
2018年5月13日(日)夜19時から、
西正寺を会場に、「あまがさき縁側会議〜広場ニスト山下裕子さんに聞く 安心して居られる広場のつくり方と、まちを好きになれる広場のつかい方〜」というイベントが開かれた。(https://www.facebook.com/events/1730692190308015/)
尼崎ENGAWA化計画の藤本氏が主催の行事で、カレー付きで2000円という参加費。
(カレーを作られたのは、カリー寺スタッフでもあるSさん)20名近くの人が参加した。
19:30から、トークの予定だったが、カレーを食べているときに、山下さん、藤本さんから相談があって、オープニングでお経をお勤めすることに。
参加者みなさんの承諾を得て、「十二礼」のお勤めをみなさんとする。
お勤めを終えると、心が整って一つになったような印象。
だれかが、「(イベントが)終わった感じがしますね」という声があったのも印象的だった。
そこから、山下さんのお話。
山下さんは、富山グランドプラザという「広場」の運営をされて成果をだされ、
今は青森県八戸の「広場」の構築をお仕事にされている。
「広場」とは、「公園」(都市公園法)でも、「道路」(道路交通法)でもない、公共空間だという。富山では、その「広場」という空間を「条例」によって運営するという試みが行われているのだそうだ。そういう意味では、既存の法律の制限を受けない空間をあえて「広場」として設定するあたらしいチャレンジだと理解できた。
その「広場」として立ちあげられた富山グランドプラザは、なにもない平日の朝から人がいる。
イベントもない、店も開いていないけれども人がいる広場。
お金がなくても、用事がなくても行ける場所としての広場。
そうなるまでの、そこを面白くし、まちに賑わいをもたらす場としてさまざまな工夫がされている。
・毎日模様替えをしてしつらえを変えつづけている。
・人工芝でさえ、毎日置き方を変えている。
・禁止事項の張り紙をなくすなど、自由な雰囲気をつくっている。
しかし、広場にくる人に直接的な働きかけや声かけはほとんどしないらしい。
しつらえや仕掛けを通して、「場」をつくることに徹しているような印象を受けた。
模様替えをして、それによって人がどんな反応をするか。
どこにどんな人がすわって、どんな行動をしているか。
どうすれば、人と人の関わりが生じるか。すべて仕掛けとその反応で、極めて自然にそれら生じる場をつくってこられたのだろう。
山下さんが「広場」として語られ、運営してこられたそれは、僕にとっては容易に「お寺」に翻訳しても通じることが多い概念だったのが印象的だった。とくに「居る」と表現されることのなかに、いろいろな意味を感じることができた。
ただ居るということであっても、居ることの難しさ、人に居てもらうことの難しさ。
あるいは、何かで(共通項で)括ろうとしたり、共通の目的や方向性を持たせようとすると、「一緒にいられないもの」たちを、ただいるだけでいい場であること、あるいはいなくてもいい場であることによって、「一緒にいることができる」ようにする。そして、それによって、交流や、会話、あるいは、そこにいたらなくても「ただいると認識し合う」だけのような接点が生じるということの意味。
「居る」ということだけで生じることをいろいろと言語化してもらったような感覚でもあった。
翌日、イベントのあと、山下さんの言葉を反芻していた。「毎日模様替えする」。
先日かったベンチを(ほとんどすわる人はいないけれど)門の近く、いつもと違うところに配置してみた。実践的を伴うひとの言葉は、実践的であって、具体的な実践に影響を及ぼすものなのだろうか。
場を預かるものにとっては、「聞いた」でおわらない、含蓄のある時間をもらったように反芻している。
【追記】
質問など会場のやりとりをするなかで、僕はあまり質問が思いつかなかったのだけれど、話が、「広場が賑わい、街に影響を及ぼし、経済的な効果ももたらしている」ということに及んだときに、不意に「それは文化ではないのかな」「文化を生み出しているといえるのではないかな」というような思いが立ちあがってきた。(そしてその点について尋ねてみた)
経済的なインパクトというのは、その活動をするにあたって説得力や、目に見える評価になる。しかし、そこが「理由」や原点だと結局「儲かるから」というお金が活動の理由や根っことしてかたられてしまうということにもなってしまわないだろうか。
広場の活動は、そのような経済的なものを目指して行われていたものではなく、人のつながりや、居場所として、またなにかが起こるかもしれないという期待や、可能性がその魅力で、根っこにあるように語られていたように聞いていた。
実際に山下さんのお返事には、自身の希望や思いではなく、その地域にある文化や人の気質や、特徴がその広場で顕在化するような働きかけをしているようなお返事だったように思う。そして、それが「広場」があることによって、より見える化されたりする。あるいは他の土地にはないような「広場がある」ということ自体が、実は「広場文化」みたいなものを根づかされているような、そんな活動として理解することができるんじゃないかなぁと、思ったことを思い出したので、追記しておく。
西正寺を会場に、「あまがさき縁側会議〜広場ニスト山下裕子さんに聞く 安心して居られる広場のつくり方と、まちを好きになれる広場のつかい方〜」というイベントが開かれた。(https://www.facebook.com/events/1730692190308015/)
尼崎ENGAWA化計画の藤本氏が主催の行事で、カレー付きで2000円という参加費。
(カレーを作られたのは、カリー寺スタッフでもあるSさん)20名近くの人が参加した。
19:30から、トークの予定だったが、カレーを食べているときに、山下さん、藤本さんから相談があって、オープニングでお経をお勤めすることに。
参加者みなさんの承諾を得て、「十二礼」のお勤めをみなさんとする。
お勤めを終えると、心が整って一つになったような印象。
だれかが、「(イベントが)終わった感じがしますね」という声があったのも印象的だった。
そこから、山下さんのお話。
山下さんは、富山グランドプラザという「広場」の運営をされて成果をだされ、
今は青森県八戸の「広場」の構築をお仕事にされている。
「広場」とは、「公園」(都市公園法)でも、「道路」(道路交通法)でもない、公共空間だという。富山では、その「広場」という空間を「条例」によって運営するという試みが行われているのだそうだ。そういう意味では、既存の法律の制限を受けない空間をあえて「広場」として設定するあたらしいチャレンジだと理解できた。
その「広場」として立ちあげられた富山グランドプラザは、なにもない平日の朝から人がいる。
イベントもない、店も開いていないけれども人がいる広場。
お金がなくても、用事がなくても行ける場所としての広場。
そうなるまでの、そこを面白くし、まちに賑わいをもたらす場としてさまざまな工夫がされている。
・毎日模様替えをしてしつらえを変えつづけている。
・人工芝でさえ、毎日置き方を変えている。
・禁止事項の張り紙をなくすなど、自由な雰囲気をつくっている。
しかし、広場にくる人に直接的な働きかけや声かけはほとんどしないらしい。
しつらえや仕掛けを通して、「場」をつくることに徹しているような印象を受けた。
模様替えをして、それによって人がどんな反応をするか。
どこにどんな人がすわって、どんな行動をしているか。
どうすれば、人と人の関わりが生じるか。すべて仕掛けとその反応で、極めて自然にそれら生じる場をつくってこられたのだろう。
山下さんが「広場」として語られ、運営してこられたそれは、僕にとっては容易に「お寺」に翻訳しても通じることが多い概念だったのが印象的だった。とくに「居る」と表現されることのなかに、いろいろな意味を感じることができた。
ただ居るということであっても、居ることの難しさ、人に居てもらうことの難しさ。
あるいは、何かで(共通項で)括ろうとしたり、共通の目的や方向性を持たせようとすると、「一緒にいられないもの」たちを、ただいるだけでいい場であること、あるいはいなくてもいい場であることによって、「一緒にいることができる」ようにする。そして、それによって、交流や、会話、あるいは、そこにいたらなくても「ただいると認識し合う」だけのような接点が生じるということの意味。
「居る」ということだけで生じることをいろいろと言語化してもらったような感覚でもあった。
翌日、イベントのあと、山下さんの言葉を反芻していた。「毎日模様替えする」。
先日かったベンチを(ほとんどすわる人はいないけれど)門の近く、いつもと違うところに配置してみた。実践的を伴うひとの言葉は、実践的であって、具体的な実践に影響を及ぼすものなのだろうか。
場を預かるものにとっては、「聞いた」でおわらない、含蓄のある時間をもらったように反芻している。
【追記】
質問など会場のやりとりをするなかで、僕はあまり質問が思いつかなかったのだけれど、話が、「広場が賑わい、街に影響を及ぼし、経済的な効果ももたらしている」ということに及んだときに、不意に「それは文化ではないのかな」「文化を生み出しているといえるのではないかな」というような思いが立ちあがってきた。(そしてその点について尋ねてみた)
経済的なインパクトというのは、その活動をするにあたって説得力や、目に見える評価になる。しかし、そこが「理由」や原点だと結局「儲かるから」というお金が活動の理由や根っことしてかたられてしまうということにもなってしまわないだろうか。
広場の活動は、そのような経済的なものを目指して行われていたものではなく、人のつながりや、居場所として、またなにかが起こるかもしれないという期待や、可能性がその魅力で、根っこにあるように語られていたように聞いていた。
実際に山下さんのお返事には、自身の希望や思いではなく、その地域にある文化や人の気質や、特徴がその広場で顕在化するような働きかけをしているようなお返事だったように思う。そして、それが「広場」があることによって、より見える化されたりする。あるいは他の土地にはないような「広場がある」ということ自体が、実は「広場文化」みたいなものを根づかされているような、そんな活動として理解することができるんじゃないかなぁと、思ったことを思い出したので、追記しておく。
2018年5月12日土曜日
【掲示板】「若葉がすごい!」
若葉がすごい!
先日、お寺の前に柿の花の写真と案内をあげましたが、柿の花の盛りも過ぎたようです。
そこで、今日から看板にこんな案内をかいてみました。
「若葉がすごい!」
草木の緑が繁る季節になりました。よくみると葉っぱの中に芽ぶいたばかりとおもわれるきみどりの若葉。とてもきれいな、みずみずしいきみどりをしています。(本堂右手の椿の写真です)
先日、ある仕事の打ち合わせで、写真家の方がお寺にこられました。
すこしのんびりされているときに、突然「あの緑すごいですね!」と声を上げられました。気がつかなかったのですが、椿の若葉が、写真のようにとても綺麗なきみどり色をしていたのです。しかも、古い葉っぱとは明らかに違う色合い。「こんなに違うんですね!」と驚かれていました。(僕もびっくりしていました)
若葉のみずみずしさ、若々しさをじっくりとみたのは初めてのような気がします。
他にも、綺麗なきみどりの葉っぱが芽吹いているものがあります。ぜひぜひご覧ください。
特にみずみずしく、美しかったのは、
木の葉の茂みの中ににょきっと生えていた下の写真の若葉。
2018年5月11日金曜日
失敗百物語 第五夜 「これも芸の肥やしになる」
2018年5月10日(木)
夜19時から西正寺を会場に失敗百物語・第五夜というイベントが開催された。
「失敗百物語 第五夜」
https://www.facebook.com/events/906875656160348/
(図:会場で丸川氏が作成したファシグラ)
こちらは、友人の藤本氏、丸川氏が主催して開催している100人の失敗を聞くことを目指すイベントでこれまで4回開催されてきたもの。今回、西正寺を場として開催された。これまでの気づきで、「失敗を語ることが、ケアや癒しにつながる」という気づきがあったそうで、その関連から、お寺での開催を依頼された。これはうれしいことだ。
今回は二人の女性の「失敗」にまつわる話が提供された。
そのお一人、演劇をされている女性の言葉のなかに、失敗を消化していく言葉に「これも芸の肥やしになる」と思って、悲しくはなかった。
というものがあった。
「芸の肥やし」という一言。
とても力強い言葉に聞こえた。人生のあらゆることがらが、「芸の肥やし」になりえる。どのような失敗も、躓きも、あるいは喜怒哀楽の感情とそれに関わる出来事のすべても、「芸のこやし」たりえる。言い換えると、自身の人生におこるすべてのできごとが「芸」によって、意味を与えられるのではないだろうか。
会の後、彼女と話をする中で、「演劇がなくなると生きていけない」と思っているという言葉もあった。演劇に支えられ、演じるということが、もしかすると、彼女の人生を根っこから支えて意味づけているものなのかもしれない。
自分にとって、念仏や仏教もそういう面がある。
大きな悲しみや、苦しみも、自分にとっては、「これも仏教の味わい」、「これも仏教を理解する糧になるはず」、「これも念仏の道」と、仏教にことよせることで、意味づけようとし、立っていられるようなことがあった。
自身の歩むべき「道」、つきつめたいと思う「道」を持つということは、もしかするとそういうことなのかもしれないと思った。人生のできごと、身に起こる感情の全てが、その道のを歩むための糧となり、実をつける肥やしとして、意味づけられ、消化されていく。
これも「芸の肥やし」になる。いい言葉だ。
失敗や悲歎をささえ、消化させるといった、その言葉はぐっと突き刺さるような、自分への問いかけの言葉のような余韻を残していた。
夜19時から西正寺を会場に失敗百物語・第五夜というイベントが開催された。
「失敗百物語 第五夜」
https://www.facebook.com/events/906875656160348/
(図:会場で丸川氏が作成したファシグラ)
こちらは、友人の藤本氏、丸川氏が主催して開催している100人の失敗を聞くことを目指すイベントでこれまで4回開催されてきたもの。今回、西正寺を場として開催された。これまでの気づきで、「失敗を語ることが、ケアや癒しにつながる」という気づきがあったそうで、その関連から、お寺での開催を依頼された。これはうれしいことだ。
今回は二人の女性の「失敗」にまつわる話が提供された。
そのお一人、演劇をされている女性の言葉のなかに、失敗を消化していく言葉に「これも芸の肥やしになる」と思って、悲しくはなかった。
というものがあった。
「芸の肥やし」という一言。
とても力強い言葉に聞こえた。人生のあらゆることがらが、「芸の肥やし」になりえる。どのような失敗も、躓きも、あるいは喜怒哀楽の感情とそれに関わる出来事のすべても、「芸のこやし」たりえる。言い換えると、自身の人生におこるすべてのできごとが「芸」によって、意味を与えられるのではないだろうか。
会の後、彼女と話をする中で、「演劇がなくなると生きていけない」と思っているという言葉もあった。演劇に支えられ、演じるということが、もしかすると、彼女の人生を根っこから支えて意味づけているものなのかもしれない。
自分にとって、念仏や仏教もそういう面がある。
大きな悲しみや、苦しみも、自分にとっては、「これも仏教の味わい」、「これも仏教を理解する糧になるはず」、「これも念仏の道」と、仏教にことよせることで、意味づけようとし、立っていられるようなことがあった。
自身の歩むべき「道」、つきつめたいと思う「道」を持つということは、もしかするとそういうことなのかもしれないと思った。人生のできごと、身に起こる感情の全てが、その道のを歩むための糧となり、実をつける肥やしとして、意味づけられ、消化されていく。
これも「芸の肥やし」になる。いい言葉だ。
失敗や悲歎をささえ、消化させるといった、その言葉はぐっと突き刺さるような、自分への問いかけの言葉のような余韻を残していた。
もぐもぐたいむ
2018年5月9日水曜日
ラジオ収録・8時だヨ!神さま仏さま 390回
先日、ラジオの収録に参加させてもらいました。
◆8時だヨ!神さま仏さま
ホームページ http://8ji-dayo.seesaa.net/
フェイスブック https://www.facebook.com/8jidayokamisamahotokesama/
尼崎が誇る名物宗教ラジオ番組、FMaiai「8時だヨ!神さま仏さま」に出演させていただきました。 レギュラーDJ・宏林住職がお休みのため、代打でホストDJとして出演させていただきました。
以前、ゲストで2回出演させていただいて以来、何度か収録日にこっそりとブースに遊びに行かせていただいたりもしていました。今回、いつの間にやら、準レギュラー扱いいただいていたようで、うれしいかぎりです。
今回の放送では、尼崎市教育委員会が発行している「あまらぶ」の紹介でお越しになった市職員・福田州也さんと、先日もブログでレビューを書かせていただいた(https://ryogo1977.blogspot.jp/2018/05/jr.html)『軌道― 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』の著者、松本創さんが、ゲストでした。
松本さんからは、今回は、これまでの著作のこと、神戸の摩耶近辺の取り組み、灘・東灘・葺合を走る東神戸マラソンのこと等を紹介・お話いただいています。
参加させていただきましたが、収録中は、(本物の)レギュラーDJお二人の安定感と進行ぶりに、どこで口を挟んでいいのか、内心、おそるおそる・どぎまぎしながら、過ごしていたのはここだけのハナシです。
放送日は、5月9日(水)、本日です!
松本さんは、2週連続ゲストということで、来週も登場。
中平も、来週もつづけて出演させてもらいます。
収録語には、持って行った本に、サインをいただき、貴重なサイン本にしていただきました。
ラジオ面白いので、ぜひぜひ電波でも、ネットでもご聴取ください~。
2018年5月4日金曜日
おてらびらき 4回目
おてらびらき。
これまで、不定期に実施している「てらひらき」。
(https://www.facebook.com/events/291576954710598/)
※ イベントページでは、「寺びらき、てらひらき、テラヒラキ。」としていますが、実は仮称。あまりこだわっていないのと、どういう風にいってもらってもいいや、とかそれくらいの感じで使っています。
昨年の2月、5月(GW)、8月(お盆)に実施してきた。昨年もGWに実施していました。そこで、今回も1~2週間前に告知して、GWの昨日5月3日に実施するか~、ということで、案内・実施にいたりました。
数日前に、ちょっと面白かったのは、
大学院の後輩が、てらひらきに感心をもってくれて、「コンセプトいただいていいですか?」とコンタクトをとって、彼のお寺でも開催したいというハナシがきたこと。
本日5月4日にも、愛知県岡崎で、おてらがひらかれるそうです。
まねしてもらえるくらいになったといえば、なかなかのもの。笑。(にしても、ほんとに、そのまま引き取ってもらっているなぁ 笑)
明願寺 「寺ひらき、てらひらき、テラヒラキ」 https://www.facebook.com/events/973106819520257/
さて、当日。
それらしい、雰囲気をあわあわと作り始めました。
午前中の法務を終えた後、あわあわと、近くのスポーツショップにいって、
廉価なベンチをふたつ購入。本堂前にならべてみました。
ずっと、境内にベンチを置きたいとおもっていたのですが、
やっと、仮設ながら、すわってもらえる装置がきました。
ベンチにすわって、目の前の風景を写真にとりました。
道行く人にもお越しいただけたらと、カンバンを設置してみました。
(テキトウ)。
今度は、もうちょっと考えて作ろうと思います。
さて、13:00。
準備の途中で、お約束をしていた方がいらっしゃり、・・・ということでテラヒラキスタート。
はなまつりに、きてくださったお子さんと、おうちの方(3名)、いつもきてくれるNほさん、某フード系のNPOの理事のMおさん、お仕事途中にたちよってくださったOさん、
そのほか、ちらちらっとカンバンをながめていってくださった通りがかりの方、と、夕刻まで、ゆるゆると
すごしました。
腕輪念珠をつくったり、おしゃべりしたり、
仕事をもちこんでくださっていたり、それぞれゆるゆるとすごしました。
「ゆったりしていたのに、もう3時間!?」
「こんなに時間経ってるってちょっと信じられないなぁ」
というような、(肯定的なニュアンスだったと理解しております)感想もいただきました。
2018年5月1日火曜日
松本創『軌道― 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』
松本創『軌道― 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』。
この本を手にした理由は二つ。一つは、人のつながり。この本の主役・浅野弥三一氏が、尼崎のまちづくり関係の事務所の創設者であり、かつその事務所と今現在、地域の関わりで大変親しくしていただいていること。かつ、その事務所の社長でもある若狭氏から紹介、おすすめをいただいたということ。
そして、もう一つはこの本自体のテーマ。尼崎のJR福知山線脱線事故を扱っているといこと。脱線事故については、昨年にそれをテーマに「テラハ。」を実施して以来、頭の中にありつづけている。地域に住む者として、また地域の寺院の僧侶として、どのように向き合い、関わっていくのかということが、一つの課題・テーマとなっている。
本書は、浅野弥三一氏という一人の人物を通して、事故とその後のJR西日本との対峙・対話の経緯を主として綴られている。合わせて、JR西日本の関係者のインタビューから事故とその後の対応についてせまるものだ。350ページを超える分量があるが、飽きや苦労を覚えずに、一気に2日で読み切ることができた。それは、単に読みやすいということだけではなく、本書の登場人物と文章の持つ熱量、本書にこめられている「願い」のようなものが、そうさせてくれたのではないかとも思う。
まず、感じずにいられなかったことは、事故のもたらした影響の大きさ、「負傷者」「遺族」の抱えた傷や、人生にもたらしたものの大きさ。その不条理。地域に住む者として、その立場から言葉を紡ぐ場をもちたいと「テラハ。」で企画した。しかし、地域に住む者と事故によって大きく人生を変えられた方たちとはその影響が比べものにならない。異なりすぎているとあらためて感じざるをえない。果たして、われわれが、事故について考え、言葉を発することなど、許されるのだろうか、果たして「地域に住む者」として、あの場を開き、語ったことは軽々なことではなかったのだろうかと思いを巡らさざるを得なかった。
本書は、事故後、遺族である浅野氏が4・25ネットワークの活動を通じて、JR西日本に対して、事故の本当の原因究明や、今後の対策、組織の変革をもとめつづけて、それを方向付けた経緯が軸になっている。浅野氏のことばでいえば、「事故を社会化する」闘いの内実がドキュメントされたもの。
本書を読んだ中で、事故後の浅野氏の姿勢、実際の交渉とJRを動かしていった経緯で印象的だったことは、
■人と人との対話が、組織を変えていくということ。
■人と人との向き合いが、すべての原点であるということ。
だれと話すのか、どのように向き合うか。
■加害者と被害者の対立、立場の違いは生じるが、それを「闘争」にするのではなく、「対話」を求めつづめ、同じテーブルで一つの方針を見いだす姿勢。
このようなことが際立っていたように思われた。
大きな組織に、(悪い意味で)官僚的に、官僚的なロジックをもって対応されているなかで、(めげそうな中にもなお)折れることなく、時には怒りに震えながら、対話の糸口を探し続け、対話の回路を開き続けていたこと。
話ができる人間、人の心に目を向け、人と人とが話す、ということができる人を探し出し、そこから着実に対話や、交渉の回路を構築していったこと。
被害者―加害者の相容れない立場にあるもの同士が、それぞれの立場で壁を作って話すのではなく、同じテーブルに着くこと、それを実現させたこと。おそらく、これは、ご自身が「被害者」の一人(それも深刻なケースの)であったからこそ、なしえたことなのかもしれない。
「なにを話すか」ではなく、それを「誰が話しているのか」という当事者性。そのひとでなければ、語れないこと、その人でなければ変えられないこと、生きている中で抱えて生きた重みが説得力を持つ、ということがあるのだということを、ここ最近考えている。
背負った者があるからこそ、関われる場がある。変えられるものがある。語れる言葉がある。のだろう。
内容に比して、自分の言葉が軽いように思う。
感心のあるかたは、是非一読を。
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