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釈徹宗『親鸞の教えと歎異抄 図解でやさしくわかる』

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釈徹宗『親鸞の教えと歎異抄 図解でやさしくわかる』 こんなの出ていたのを知りませんでした。 広告で知りました。 でもって、注文しました。 到着を待ちます。

万年筆

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ひさびさの休日。 自宅にてのんびりとすごす。 午後から、妻子とお茶を飲む。 帰り、西宮ガーデンズで懸案だった「万年筆」を物色。 万年筆の割には、非常にお手頃なお値段でいいものがあったので、インクと一緒に購入。 これで、お手紙・お葉書などを書くのです。

睡眠と議論

ここ数日、少しばかり睡眠が不足していたのを補い中。 というか、ちょっといつもより寝たら快調で、「あぁ、寝不足だっ たのか」と自覚した次第。やはり、睡眠は大事。  睡眠が増えたせいか、そういうスケジュールだったのか、ここ2 ~3日、頭を結構刺激してくれている議論に立ち会っているように 思う。 ・論註のこと。 ・フリーマガジン編集のこと。 ・慈悲はどっからくるのか。  →性善説と性悪説とか ・初学者(学生)の疑問と、実はわかっていなかった点。  →先生はおいてけぼりにするところでした。 いずれも、余韻が残っていて、あとから「あぁ、そうだ!」などと 気づくことがある。これは、いい刺激を受けた証拠。 さぁ、体も頭も使おう!

泣く子を見て

娘が泣き止まない。母親と離れると、ずっと泣きっぱなし。 あんまり、やかましいので、かえって感心してしまった。 こんなに、悲しい、寂しいって思えるってすごいなぁ。 本当ならば、これくらい泣いて、 悲しむべきこと、寂しいことがあるんじゃないかな。 大人になると、感情をコントロールして、泣かない、悲しまない、 寂しがらないように生きているんじゃないかな、ってふと思った。 赤ん坊のほうが、正直に気持ちを素直にだして生きているんではな いかなと。 いつのまにか、感情にフタをして、暮らしてきたんじゃないかなぁ と、我が身を振り返る。 ……… 昨夜の出来事。 フェイスブックにも投稿したところ、好評いただいたようなので、忘れないようにこちらにも転載。

保険料の計算

ちょっとしたきっかけがあり、あらためて健康保険料の計算をしました。 (尼崎の国民健康保険料の計算ページ) http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/kokuho/kokuho_sikumi/067keisan.html 我が家は、父を世帯主として、 父/母/自分/妻/娘 で世帯が構成されています。 可能性として、 父母の世帯と我々夫婦の世帯を分けることも考えられますが、 そんなことをした日には、保険料をほぼ倍払わねばならなくなるようです。 びっくりするような金額になりました。 家族はやはり、まとまっていたほうが、いいということなのでしょう。

はじめてのおでかけ

おくさまの調子がいまひとつだったこともあって、 娘と二人で、ちょっとした買い物を済ませに、近くの百貨店まで。 行き帰りも含めて3時間。 実は、初めての二人っきりのお買い物タイム。 食料品売り場などでは、ズボンの裾にくっついておどおどしていたのに、 子供用品売り場にいくと、お店のお姉さんになつき出し、 お姉さんのポーチをあけたり、ボールペンを取ろうとしたり、 通路をわたって、ひとりでおもちゃで遊びに行ってしまったり。 ともかくまぁ、ぐずることもなく、 お父さんをへとへとに疲れさせることもなく。 たいしたことは、な~んにもなく、 無事に帰り着く。 まぁ、二人っきりでおでかけができたということで、ヨシ。

日食と降誕会

5月21日は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のお誕生日。降誕会。  今年はそれ以上に、金環日食が話題。  家人は、かなり前から日食の観測用のグラスを準備し、非常に楽しみにしていた模様。前の月食も、見上げては、「すごい、すごい」とのたまわっていたので、どうやら意外と天体ショー的なものは、お好みのご様子。といいつつ、僕もグラスを拝借して観測。とりあえず、これで、一通り「日食は見た」といえる。  午前中は、平常の法務(月参り)をして、  午後からは自坊にて、降誕会法要。  降誕会に際して、親鸞聖人について少し。  最近、親鸞聖人のことについて話すときに、「親鸞聖人は成功者ではなかった」といえるのではないかということを考える。  29才の時には、20年間の重ねてきた修行に挫折し山を下りる。この人は!と思えた法然上人のもとでの勉強は、弾圧による流罪という思っても見ない形で幕を閉じ、師匠との別れが訪れる。晩年は穏やかかというと、そうではなく、自分の息子の背信によって泣く泣く親子の縁を切らねばらならないという経験もする。  親鸞聖人の人生を語っていくとき、それは「苦難を経験し、苦悩のなかで生き続けた人生」といえるんじゃなかろうか。そして、それは「浄土真宗」という仏教を考えるときに、非常に示唆深い投げかけをしてくれるのではなかろうか。  仏教を聞いていくということは「成功する」ということではないということ。浄土真宗がもっとも手本にすべき仏教者である、宗祖の親鸞聖人は「成功」していなかったのだから。 人生において、「成功」をもとめるならば、違う方法を探し、違う教えを聞かないといけない。  しかし、僕たちの人生は、ほとんどの場合「成功」ではなくて、「苦難」だ。求めるものは手に入らないし、自分の体でさえも思い通りにならない。愛する人との別れを経験し、苦しい憎しみを捨てることのできないことだってある。  だからこそ、親鸞聖人の人生は、僕らの問いをたずねるにふさわしいのではなかろうか。  いかに成功するのか?ではなく、いかにこの苦しみを抱えて、生きていくことができるのか。われわれと同じように「苦難」を抱えて生きられた親鸞聖人だからこそ、問えるものがそこにはあるのではないかと思う。    今日(もう昨日)は降誕会。親鸞聖人という、一人の仏教者の誕生日(とされる日)...

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