「他者性」についての雑感
細見和之『思考のフロンティア アイデンティティ/他者性』 (岩波書店、1999年)より
「言うまでもなく、人間は一個の身体として、あるいは生命体として存在している。アイデンティティを他者性との関係で捉えるとき、この身体という次元を無視することはできないだろう。あたりまえの話だが、ぼくらは自己の外部から酸素や水分、栄養などを耐えず摂取しなければ生きられない存在である。身体ないし生命として「私」を維持するために、いつも外部から「他者」を取り込まなければならない、という逆説。だが、そのように他者を取り込むということは、同時に自己が絶えず他者化されるということでもある。毒ガスや毒物という致命的な他者を摂取して、文字通り身体が破壊されてしまうのは、そのような他者化の極端な例である。(宗教的に厳格な人々がその戒律に則ってある種の食材を忌避する際にも、自らがまさしく肉体レベルで「他者化」されることへの恐怖があるにちがいない)。ぼくらはひとつの身体的存在として、そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態を、日々生きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的存在として、自らの内部を未知の不確定な「外部」へとつねにすでに開いてしまっているのである。」(3~4頁)
論文で触れる必要があって、「他者性」にまつわる論文や本を読んでいる。
「他者」とは、「自己」に対するものであって、自己とは全く異なるものである。
他者論で、つねにといっていいほど引用されるのは、レヴィナスだそうだ。レヴィナスの他者論については、以下のように説明される。
「他者」とは、「自分とは異なる存在」である。単に「私」(自己)以外の人間が「他者」であるとは限らず、「私」によって支配も回収もされることのない、「絶対的に他なるもの」も「他者」である。『全体性と無限』という書名が示すように、レヴィナスの哲学では「他者は決して全体性に回収されることのない無限の存在」とされている。」
しかし、自己は自己のみで自己にはなりえず、他者との邂逅/接触によって成り立つものといういうほうが、仏教の「縁起」の考えに近いように思われる。また、それほど自他の境界は絶対的なものであろうか?とも考えてしまう。
冒頭の文章は、署名の通り、アイデンティティと他者について書かれたものであるが、序文にあるそれは、他者がむしろ自己を成立させる存在であるという面を語られている。
他者を自己に同化させていくのは暴力であるといわれるが、他者が自己を成立させていく存在であった(むしろ自己はそのようにしか成立しえない)というような面はないだろうか?

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