投稿

毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』

イメージ
とある依頼で、LGBT関連の資料と情報をまとめる機会をもらった。 そんなわけで、あらためてこの問題について関する本を一冊。 というか、そういう状況で手にとってしまって、また感情がゆさぶられたので。 ・毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』  LGBTのことに関心を向けた数年前にまとめて買った本の中の一冊。すこし読んだだけで、切なさと、それぞれの決断で感情が大きく揺さぶられる。    人間には、一定の割合で「男性」と「女性」のいずれでもないか、あるいはいずれの特徴ももって生まれてくるということが起こりうる。性分化疾患(DSD)や、インターセックス等とも名称される。その当事者と家族をはじめとする周りの人たちの姿をとりあげたルポ。    生まれてきた子どもの性別を決める、という覚悟と決断を迫られる親、明確な性別のアイデンティティをもつことが許されず、つねに「居場所」がないという苦しさを抱えて生きて行かざるを得ないい当事者。  恥ずかしながら、「性別」は誰もが当然のように自覚でき、公表しうると思っていたが、現実には、非常にあいまいな状況におかれ、公表することもできず、ひとりで息を潜めて生きて行かざるを得ない状況があること、また、重すぎる覚悟と決断を無理矢理に背負わされていた人がいたということに対して、想像が及んでいなかったことをまざまざと知らされた一冊。  しかし、その苦しみに責任を負うべき悪い人がいるのか、というとだれのせいでもない。誰のせいでもない苦しみを共有したり、公言したりできない社会の方が、変わっていかなければいけないのではないかという思いを強くした一冊でもある。  僕が、LGBTのイシューについて、発言したり、関与したりすることにいぶかしがっている人もいる人もいるかもしれないけれど、一人の社会人としても、そしてなにより「宗教者」としても、この苦しみは知った以上に無視できないという思いがつよくなったからです。  なにもできなくても、そういう人がいる、ということを知るだけでも、その人が抱えている苦しみに変化をあたえることができる、ただ知ること、それが大きな意味を持つことだと思っています。 そんなわけで、ずっと頭の中にあった想い、 LGBTについて活動されている当事者の方に来ていただいて、 学び、語り...

今日のこと(2016/02/12金)

終日、大学の研究室にて。 主に、資料作成。 週末~週明けにやるべきことがたくさんあって、並行的にする=集中できない=停滞。 カルチャーセンターの講義、 とあるかいの話題提供、 「オトナテラコヤ」なる会での「縁起」についてのレクチャー LGBTに関する資料作成。

今日のこと(2016/02/11)

午前、お寺の仕事(お参り) 午後、自室に掃除、片付け     資料作成、等々。  某研究所から、LGBTのイシューについて、まとめたスライドを作成する依頼を頂き、すこし手を付ける。理解が進ならありがたいと、前向き。  今年に入ってから、ブログにほとんど手が付けられていなかった。  そもそも、時間が経つのがいままで以上に早く感じる。  日記程度でも、書いていこうか。 13日から15日までは、ちょっとハード。 3日連続で、人前でお話しする場をいただく。それも、みっつともまったくことなるフィールド。 そして、どれもいろんな意味で、大切な場。 大事に準備しようと思う。    

先日、あるフィールドワークに同行して、稲荷大社へいった。 大学時代にランニングコースでもあった稲荷山を昼から夕方にかけて、ぐるっと一周、登り下り。 フィールドワークは楽しい。 理論ではなく、信仰の現実、混沌の実際を目にする。 「こんなものあるのだ」という、驚きもある。 その中での会話。 日本人のいう「神」と、一神教の「神」って、はやり違いますよね。 日本の「神」を、Godと翻訳するのは、適当ではないんではないか?ということ。 そんなことを思い出して、ネットで検索してみると 日本の神様をgodと翻訳することへの抵抗や問題を記したページもあって・・ http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-024.html http://park10.wakwak.com/~ebible/bsrch/engbib/god.html 実際のフィールドをうろうろしていると、 そういうことも実感をもって把握したり、考えたりすることもできる。

余白

 いまの職場は、非常に効率がいい。  ただ、効率がいいだけでなく、要点をまとめて伝えるということに、つねに相手への配慮が働いているようで、スムーズにかつ心地良く仕事が回っていることが多い。  そんななかで、ときどき、自分が「浮いてしまった」と思ってしまう場面もある。  ついつい、いらぬことをしてしまうのだ。  コミュニケーションは、「必要な部分」だけではなく、「不必要な部分」のやりとりに、人間らしさや個性をやりとりできるのだという思いもあって、ついつい余計なことを「よかれ」とおもってしてしまう性のせい。  逆に、効率よく、必要なことだけをやりとりすることの中にある「配慮」があるから、スムーズにかつ心地よくすすむというのは、考えてみると、仕事をする上では、そちらの方が当然のこと。  多忙な忙しいビジネスシーンでは、むしろそちらが当然のこと。  とはいえ、相手がもたらす「余白」を余分なものとも思わない心は忘れないようにしておきたいもの。    

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年4月)

イメージ
井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年)  本屋で見かけたことをきっかけに、軽く読んでおこうと買った本。  取材を元に書かれたルポ。ただ、やや「外」からの視点で書かれた印象。  書かれたモチベーションとしては、葬儀の要不や意義についての議論の中で、 「だが私は、ちょっと待ってよ、と思った。議論以前に、葬送の仕事をする人たちが、どのような思いで、どのような働きをしているのか。私たちは知らなさすぎやしないか、と。」(あとがき、249頁) と感じたところにあるのだろうと思われる。  6章構成の中で、「葬儀の専門学校」に通い学ぶ学生たち、葬儀社、納棺・湯灌の業務に携わる人たち、エンバーマー、火葬場の職員さんたち、等に取材し、それらの声と思いが集められている。いずれも、真摯に遺体や遺族に向き合い、使命感や意義をちゃんと見いだしてその仕事に携わっている姿が描かれている。  熱い思いをもって、葬送業界に関わっている人は多様だ。身近な葬儀で感動を覚えた人、人生の変遷の中で関わった人。それぞれの人生、生活の背景と共にその業務や志か語られている。  葬儀というものが、どんな人に担われているのか、どんな思いで仕事が為されていたのかを、想像を及ぼすにはいい一冊。    個人的には、評価についてはペンディングしておきたい印象。  本書の表現の方法は、取材対象が直接立ち上がってくるのではなく、著者の「取材現場」に、読者が直接居合わせている印象。取材対象が語る言葉や、行為に対して、著者の思いやリアクションも含めて描写される。そのためか、取材対象の方の言葉が集められているのだけれど、ところどころに著者のフィルターがかかっているようにも感じる。そういう意味では、どこかしら、著者のこうあって欲しい、こういう人たちであって欲しいという期待も感じられなくもないのかも・・・。   追記:  アマゾンのレビューは今日(2015/08/16)現在、のきなみ高評価だった。

2015/08/11 テンプレート変更

ずっといじってなかったので、久しぶりにテンプレートを変更してみました。

広告A