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ハワイ研修_本願寺ヒロ別院

【ハワイ開教・ヒロ別院】  ハワイに行くというと、いいなぁとうらやましがられた、というのと同じくらいあったことが、 なぜ行くのかと言うと、「ハワイにお寺があるの!」 と驚かれるというあるある。  ハワイにも浄土真宗関係のお寺があります。  主に、日系人の方たちが中心になってお寺を建立したり、お坊さんの派遣を依頼したりというのがその由来になります。現状では主に日系人のコミュニティのある場所に、多く浄土真宗寺院もまたあるということになります。  今日では、地元の日系人以外の方にも、ご縁やつながりができて、あたらしいメンバーになるかたもいらっしゃるそうです。  いろいろと課題などもありますが、それは別の機会に。  28日に到着し、昨日29日から実質的な研修がスタートしました。  29日は終日、ハワイ島の本願寺ヒロ別院( http://www.hilobetsuin.org/ )で、ハワイでの浄土真宗の開教や、寺院、開教使(僧侶)の活動についてのレクチャーを受けたり、見学をしたり、(交流のバーベキューもしたり)というスケジュールでありました。    

夜店と神楽と打ち上げと

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【神社の夜店にいって、宮司さんと打ち上げに同席する】  上坂部のお隣・久々知の神社で夜店があったので、顔を出してきました。  カリー寺のスタッフで入ってくれた方がから、「カリー寺にスタッフだったSさんが家族できて、しゃべった」という話をきいてうれしくなる。  地域のおじさまから「残っていけ」と声をかけていただき、おしまいの本殿での巫女さんのお神楽を拝見。 本殿に座るのも、神楽に触れるのも初めて。いい経験。  片付けの後の打ち上げにも座らせていただく。  神社の宮司さんも同席されていて、挨拶させていただき、結局最後の最後までご一緒させていただきました。   夏は行事がたくさんあって、いろいろと大変だけれど、交流とかこういう楽しみがないといけないな~とも。みんな楽しそうに行事に関わっていらっしゃる姿がとても印象的でした。 夜店の様子 すいかでかい! 打ち上げの様子

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年)

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年) 目次 まえがき 第1章 哲学と詩への目覚め 一九〇六-三三年  Ⅰ 子ども時代  Ⅱ マールブルクとハイデルベルクでの学生生活  Ⅲ ナチ前夜 第2章 亡命の時代 一九三三-四一年  Ⅰ パリ  Ⅱ 収容所体験とベンヤミンとの別れ 第3章 ニューヨークのユダヤ人難民 一九四一-五一年  Ⅰ 難民として  Ⅱ 人類たいする犯罪  Ⅲ 『全体主義の起源』 第4章一九五〇年代の日々  Ⅰ ヨーロッパ再訪  Ⅱ アメリカでの友人たち  Ⅲ 『人間の条件』 第5章 世界への義務  Ⅰ アメリカ社会  Ⅱ レッシングをとおして  Ⅲ アイヒマン論争 第6章 思考と政治  Ⅰ「論争」以後  Ⅱ 暗い時代  Ⅲ「はじまり」を残して あとがき  本書は、ハンナ・アーレントについて、その誕生から逝去までの生涯と、思想について取り上げている。  ドイツでユダヤ人の両親のもとで生まれたアーレントは、幼くして父を亡くすも、母を初めとしたユダヤ人親族のもとで育てられる。大学では、ハイデッガーとヤスパースに師事。その才能を伸ばし、多くの友人たちとの交流を持つ。やがて、ナチスによるユダヤ人の虐待・弾圧が始まると彼女自身も収容所に入れられるという経験をしつつ、アメリカへ亡命。終戦・ナチスの敗北後もアメリカを拠点としつつ、欧州との間を行き来しつつ、『全体主義の起源』『人間の条件』、「アイヒマン論争」を引き起こす『イェルサレムのアイヒマン』等の執筆、発言をしつづけた。  アーレントの視点は興味深い。彼女の思索、視点はその生涯、ユダヤ人というアイデンティティ、そして彼女とユダヤ人がおかれていた政治状況とまったく無関係には成立していない。しかし、その言及は単なる「ユダヤ人」の権利や、地位向上を訴えるものにとどまらない。「ユダヤ人」という立場を前提にしつつも、普遍的な人間としての価値や、正義にコミットとしていくような深み、奥行きがつねに内包されているように思われる。  たとえば『全体主義の起源』については、単に全体主義の歴史的事実、あるいはナチスドイツの全体主義批判をするのではなく、それを生み出した歴史、要素を分析、記述しようと努めているとい...

毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』

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とある依頼で、LGBT関連の資料と情報をまとめる機会をもらった。 そんなわけで、あらためてこの問題について関する本を一冊。 というか、そういう状況で手にとってしまって、また感情がゆさぶられたので。 ・毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』  LGBTのことに関心を向けた数年前にまとめて買った本の中の一冊。すこし読んだだけで、切なさと、それぞれの決断で感情が大きく揺さぶられる。    人間には、一定の割合で「男性」と「女性」のいずれでもないか、あるいはいずれの特徴ももって生まれてくるということが起こりうる。性分化疾患(DSD)や、インターセックス等とも名称される。その当事者と家族をはじめとする周りの人たちの姿をとりあげたルポ。    生まれてきた子どもの性別を決める、という覚悟と決断を迫られる親、明確な性別のアイデンティティをもつことが許されず、つねに「居場所」がないという苦しさを抱えて生きて行かざるを得ないい当事者。  恥ずかしながら、「性別」は誰もが当然のように自覚でき、公表しうると思っていたが、現実には、非常にあいまいな状況におかれ、公表することもできず、ひとりで息を潜めて生きて行かざるを得ない状況があること、また、重すぎる覚悟と決断を無理矢理に背負わされていた人がいたということに対して、想像が及んでいなかったことをまざまざと知らされた一冊。  しかし、その苦しみに責任を負うべき悪い人がいるのか、というとだれのせいでもない。誰のせいでもない苦しみを共有したり、公言したりできない社会の方が、変わっていかなければいけないのではないかという思いを強くした一冊でもある。  僕が、LGBTのイシューについて、発言したり、関与したりすることにいぶかしがっている人もいる人もいるかもしれないけれど、一人の社会人としても、そしてなにより「宗教者」としても、この苦しみは知った以上に無視できないという思いがつよくなったからです。  なにもできなくても、そういう人がいる、ということを知るだけでも、その人が抱えている苦しみに変化をあたえることができる、ただ知ること、それが大きな意味を持つことだと思っています。 そんなわけで、ずっと頭の中にあった想い、 LGBTについて活動されている当事者の方に来ていただいて、 学び、語り...

今日のこと(2016/02/12金)

終日、大学の研究室にて。 主に、資料作成。 週末~週明けにやるべきことがたくさんあって、並行的にする=集中できない=停滞。 カルチャーセンターの講義、 とあるかいの話題提供、 「オトナテラコヤ」なる会での「縁起」についてのレクチャー LGBTに関する資料作成。

今日のこと(2016/02/11)

午前、お寺の仕事(お参り) 午後、自室に掃除、片付け     資料作成、等々。  某研究所から、LGBTのイシューについて、まとめたスライドを作成する依頼を頂き、すこし手を付ける。理解が進ならありがたいと、前向き。  今年に入ってから、ブログにほとんど手が付けられていなかった。  そもそも、時間が経つのがいままで以上に早く感じる。  日記程度でも、書いていこうか。 13日から15日までは、ちょっとハード。 3日連続で、人前でお話しする場をいただく。それも、みっつともまったくことなるフィールド。 そして、どれもいろんな意味で、大切な場。 大事に準備しようと思う。    

先日、あるフィールドワークに同行して、稲荷大社へいった。 大学時代にランニングコースでもあった稲荷山を昼から夕方にかけて、ぐるっと一周、登り下り。 フィールドワークは楽しい。 理論ではなく、信仰の現実、混沌の実際を目にする。 「こんなものあるのだ」という、驚きもある。 その中での会話。 日本人のいう「神」と、一神教の「神」って、はやり違いますよね。 日本の「神」を、Godと翻訳するのは、適当ではないんではないか?ということ。 そんなことを思い出して、ネットで検索してみると 日本の神様をgodと翻訳することへの抵抗や問題を記したページもあって・・ http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-024.html http://park10.wakwak.com/~ebible/bsrch/engbib/god.html 実際のフィールドをうろうろしていると、 そういうことも実感をもって把握したり、考えたりすることもできる。

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