2014年1月22日水曜日

人の流れが面白く見えた


 昨日、大学内の本屋でふと見かけて、買ってしまった本。
 三浦しをん『舟を編む』

予想以上におもしろく、感慨深かった。感想やレビューはまた改めて書きたい。

 主人公の「まじめ」さんは、とても変わった人で、「エスカレーターに乗る人を見ること」が趣味だという。

 「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になって順番にエスカレーターに乗る。しかも左側は立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」
 (中略)…そこに美と喜びを見いだす馬締は、やはり辞書づくりに向いている。

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 朝、職場に向かう道中。京都駅。
 中央の改札を出て、左に進む。
 その流れに乗ってすこしすすむと、左の階段から下りてた人の流れがそこに加わる。
 流れの先に目をやると、ちょうどあふれかえった人の流れが、二つに分かれていくように、徐々に開いていくところだった。
 人の波がハッキリと2つに分かれると、歩道沿いに左側へと進む流れ、横断歩道を渡るために右へと進む流れに分かれた。
 
 多くの人は、流れの真ん中辺りに固まって進む。
 何人かの人たちは、その人混みを避けるようにやや外側を歩く。人混みを避けながら、でも流れに沿いながら、同じ方向に向かう。
 水が平地を流れながら、川の流れを形作っていくような過程を見たような気がした。

 そんな光景がおもしろいと思ったのも、昨夜に「まじめ」さんの言葉に触れたからだ。
 今まで毎日歩きながら、人の流れを「面白いもの」と思って見ることもなかったし、そこに美を見いだすことはなかった。
 けれど、そこに美があると、語ることばに触れて、改めてみると確かにそのようにも見ることができた。

 言葉は、見たものを表現し、あるいは心を表現する手段のように思われる場合もある。
 しかし一方で、言葉によって物を見て、言葉によってそのような感情が立ち上がってくるという面もある。
 言葉がなければ、なにも「見ることはできない」し、言葉がなければ、何かを感じたり、思ったりすることはできない。
 
 少なくとも、昨夜に読んだ言葉が、今朝の風景を与えてくれたように思う。
 そんな世界の見方を変えてくれた本に触れられた翌朝は、幸せな気分だった。





2014年1月19日日曜日

あるべきものがない、ということ


ある物(人)が、ある(いる)、ない(いない)。
という二つのパターンで思考しがちだけれど、
そんなに単純ではないのかも知れない。

「失うこと」「なくなること」で、感じる感情は、
それが「ない」というよりも、
「あるべきもの(いるべき人)」、「あったもの(いた人)」がない(いない)
ということの方が近い。


「ない」「なくなる」と、「あるべきものがない」「あったものがなくなる」
このちがいが、とても大きな事のように感じた先日。


「ある」「ない」の二分法で考えるのではなく、
もうちょっと微妙な表現と、その間にあるものにも思いを巡らせないと行けないのではないか、などとも思う。




2014年1月15日水曜日

いつもと違う動きを…

今日は、ヘルプの作業の当番が当たっているので、
いつもより早めに家を出なければと、数本早めに出たところ、
最寄り駅で目の前で電車に乗り遅れる。
乗換駅でも、のんびり構えていたら乗り換え時間が意外と短くて、
また1本乗り遅れてしまった。

というわけで、先行の電車を2本ほどロスして、
結局いつもより2本だけ速い電車。
かなり早く着けると構えていたけれど、
「ちょっとだけ早く着ける」になってしまった。

いつものルーティン的な動きと違うことをすると
慣れていなくて、ロスが発生するという事例。

あるいは、充分間に合うと、のんびり構えていたけれど、
ロスを重ねて、余裕が思いっきり目減りしてしまった事例。


2014年1月12日日曜日

死後の世界を語ること 思想について思うこと

 死後の世界は意味がないか?

 浄土真宗は、「浄土」という思想をもっている。
 死んだら、「天国にいく」のではなく、「お星様になる」のでもなく、「浄土に生まれる」という思想。

 浄土さらに広くいえば、死後の観念自体については、今日的にはしばしば批判がある。
 「死んだ後のことなんか、生きている間には関係がないじゃないか」
 (つまり、浄土の信仰は、この生き方には無関係だという批判)とか、
 「そもそも死んだ後の事なんか、本当にあるかどうか分からないじゃないか」
(あるかないか分からないものは、無意味だし、信じる事なんてできないという批判)

 しかし、本当にそうなんだろうか。
 たとえば、「悪いことをしたら、地獄落ちるよ」、とか、「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ」という死後の観念が、あるいは物語が、
「死んだ後のことだから、生きている間に関係ない」といえるかといえば、そうではなくて、
明らかに、生きている今に、影響を及ぼす。


 先年、アマゾンで地獄の絵本の売り上げが良かったことが話題になった。
 読み聞かせをしたら、子どもが「いい子になった」という。

 ちなみに、アマゾンの感想。
 
 アマゾン → 地獄の絵本 

 それから、まとめサイト。
 http://matome.naver.jp/odai/2134501267609788301


 
 ちなみにいっておくと、「地獄の話で、子どもを驚かして、扱いやすくしてしまおう」とか、
 「懲罰があるから、ちゃんとよく生きないといけないのだ」とか、
 勧善懲悪的な思想に与しようというわけではないので。

 いわんとしていることは、「死後の観念」が、生きている今に影響を及ぼしているではないか、ということ。 本当は、「浄土」でそれを語るべきなんだろうけれど、それはまた別の機会にゆずりたい。


 死後の観念について思うとき、必ずしも、「死後の世界が実在する」という主張をするという形をとる必要はないようにおもう。 ただ、言えることは、こういう「物語」を触れ、自分の中に蓄えている人と、そうでない人は、心の動きも、現実の振る舞いも異なってくるだろう。

 「思想」とはなにか、ということを考えるとき、結局「言葉」や「物語」と切り離せないのではないかと思う。
 思想をもつ、ということは、なんらかの「実在」を信じるというのではなく(そのように語られる場合ももちろんあるだろうけれど)、
たった一言の「言葉」、ちょっとした短い「文章」、あるいは長ければ「物語」といわれるものを
どのように自分のなかに蓄えているか、そんなことで表現することができないか。そんなことを考えている。

 おそらく、すでに過去の思想家がそんなことを言っていそうにもおもうので、ご存じのひとは教えてもらいたいとも思います。
 

2014年1月9日木曜日

教理史的な研究についての雑感・思考・つれづれ

 私のしている研究領域に「教理史」と呼ばれる分野があります。
 とあることをきっかけに、そもそもこの学問は・・・的なことを考えています。


□真宗学における「教理史的研究」について
 昭和20年から30年頃に出版された研究書を中心とした研究業績、その中でも現在もその価値を失っていない重厚なものの中に多く、今日「教理史的な視点」と呼ばれるスタイルで研究されたものが多くあります。
 言い方を変えると、そのころ、「教理史的な研究」といわれるものが、成果として世に出されるようになってきたというわけです。

 その内容は、私の個人的なかつ暫定的な定義ですが、
 真宗を研究するのに、「歴史学的な態度」を取り入れ、画一的な訓詁註釈ではなく、文献や祖師を研究する視点に、その時代性や社会状況も充分に視野に入れながらみていこうとするもの、と言えると考えています。


 具体的にいえば、中国の唐の時代に生きた善導という人の行跡・思想を扱う場合、いまの我々の価値観、あるいは鎌倉時代の親鸞聖人・法然上人といった、後の世の目線(フィルター)を介して、それを眺めるのではなく、あくまでも、中国という国、唐という時代に生きた人物として善導を、そしてその場所・その時代で生きた人として、彼の書物を扱おうという視点といえます。

 いってみれば、今日、文献を扱う際には、いわば当たり前と考えられる態度です。

□歴史学的な視点とその営み
 ところが、これは言うほど簡単なことではありません。
 なぜならば、それを研究対象とする私達自身もまた「歴史的な存在」だからです。
だからこそ、知らず知らずの内に、自分のなかにある無自覚な観念や考え方が、史料・文献を扱う際に、入り込んできてしまってしまいます。
 それをまったくなくするんだ、というのではなく、そこに対して自覚的になる必要こそがあると考えます。パラドックスに陥るような感覚になりますが、「歴史学的な視点をもって、対象を眺める自分も実は歴史的な存在(歴史的制約、社会的制約を受けつつ存在していて、それから離れることはできない)」という事実とも向き合わないといけないということです。(自分の観念や、考え方を抜きに、完全に客観的な歴史や事実が存在する!と主張する人、あるいはそのように歴史を考える人も多くいます。そこには、落とし穴があることに気がついていないのではないかと・・・)

□教理史的(歴史学的)な視点の面白さ(個人的)
 そこまで、踏まえてもらって、個人の思いを2つほど書きます。
 1つめは、上述のような所に、私は研究することの面白さを感じているということ。
 いわば自分ならざるものとして、過去の祖師やその文献と向き合うわけですが、
そのなかで、相手のことが分かると同時に、自分の無自覚だった観念や感覚・価値観が自覚的になってくるのです。
 研究対象との向き合いや、過去の蓄積と自分の視点の違い、それらを頭のなかで、ぐるぐると回している内に、自分の視点・態度が相対化されて、無自覚な観念や感覚が、白日の下に引き出されてくる、そんな感覚が得られるときがあります。
 
  ああ、自分はこんなところにこだわりを持っているのだなぁとか、
  過去の人とは、こんな価値観の違いをもって生きていたのか、とか、

それは、結構楽しいものです。そこにいたるまで、結構な時間を費やさないといけないので、
いまはあんまりちゃんとできていませんが、結構楽しいものです。

 だから、それは、純然たる客観の事実として歴史があるのではなく、見られるべき対象と、見ている主体との関係性のなかで、「どのような言葉で語られるのか」という、「語り」こそが歴史だというような感覚といえるのではないかと考えます。


□その営み自体歴史的な所産ではないのかという疑問
 もう1つ、2つめ考えていることは、それ自体にも限界があると考えないといけないのではないか、ということ。
 先に書いたように、昭和20~30年頃にいわゆる「教理史的な研究」がなされるようになりました。
これは、明治期に導入された西洋的な学問の波が、遅ればせながら真宗を対象とする学問にも及んできたことを意味しています。
 しかし、そのことを振り返ってみると、その視点・研究法法自体が、時代的・社会的な要請や感覚によって導入されたものではないか、という疑問も立ち上がってきそうです。
 
 つまり、「歴史的・社会的な制約を受けるものとして対象を見ていく」という態度は、その研究法法自体にも、向けることができる。そうしてみていくことで、それが果たしてきた役割や、いま、どうすべきかということについても自覚的になっていくことができるのではないだろうか、と考えたわけです。

 電車のなかで、思いつくまま、ざっと書いたことでもあり、また、別段、新しいことを言っているわけではないと思います。(歴史学的な研究について云々のところは特に)
 先日来考えていたことを、とりあえず、書き出してみたくなって、この媒体に書いて、
可能ならば、諸処からのご教授も仰いでみたく思ったわけで…。
 
2014/01/09(木) 電車の中にて りょうご

2014年1月8日水曜日

ほんとの所は

去年のある講義でのことだけれど、
(浄土思想の文献を読む講義なので)
「浄土に生まれる、って本当に信じている?」
とある学生に聞いてみると、
「信じてますよ。」って結構力強く返答した。

ところが、話を進めてみると、
「ほんとのところを言えば、自分が死んだらなんにもない、って思ってます。
結局、この人生、どう生きるかじゃないですか」
という言葉が出てきた。

それはまったく違う死生観ですよ。思想的にも違う。

でも、大事なのは、講義的に「正解」の返答ができることではなくて、
そういう、自分の中にある、正直な考え方と、
仏教(文献)が提示してくる思想を、正面衝突させることなんじゃないかと思うのです。

「こういうことですよね」という物わかりのいい態度よりも、
「なにいっているかわからない」
「自分とは全く違う考え方で、自分にはうけいれらない」
と自分をさらけ出して(他人にさらけ出すということではなくて)
正直になって、ぶつかり合うことで、
自分の中にある無自覚な思想が相対化されたり、
自分の思想がより磨かれていったりということが起こるんだろうと思うわけです。


というわけで、
浄土教的には、不正解だけれど、
学生さんの正直な考えに触れることができたようで、
おもしろい時間だったわけです。


補足
そのあとも興味深い話ができたので、
けっして物別れに終わったわけではありません。

2014年1月7日火曜日

新年のスケジュール

1日 元旦。7:00から修正会のお勤め。
   家族で新年の挨拶。

2日 御門徒が挨拶にみえるなど。

3日 臨寺のご住職が年末に往生されて、通夜に出勤。

4日 臨時の葬儀に出勤。
    3が日にお供えしたお餅を、下げて、餅切り機で、ばっつんばっつんと切り分ける。
   切り分け作業は結構大変で、一人で3時間超。
   夕刻、小学校の時の同窓会が開催される。

5日 初法座。正信偈のお勤めと二〇分程の法話で構成。


今年もよろしくお願いいたします。

新しい一年が始まって、あっというまに一週間が経とうとしています。
去年は、なんだかんだという間に過ぎてしまいました。

なにかやったような、なにもやっていないような・・・。
今年はちゃんと計画立てて、
自分のなかで、これはやったぞ!と言えるような年にしたいと思います。


今年も一年よろしくお願いします。

「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので

今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。  数年前に大阪大学が、大学としてのカ...