ご依頼を頂きまして、力不足も重々承知しながら、
「SDGs―持続可能な開発目標―から考える、今とこれから」(『築地新報』2018年9月号)
という原稿を書かせて頂きました。
上記のように、築地本願寺の刊行物『築地新報』の2018年9月号の特集として掲載されています。しかしながら、そういった専門誌でもないので、とてもとても基本的なところと、西正寺でのテラハの取り組みについて書かせて頂いたようなことです。
ご協力いただいたみなさまには、この場をかりて厚く御礼申しあげます。また、こちらへの掲載については、執筆時に編集部からご許可を頂きました。ありがとうございます。
この原稿のなかでは、100年後、1000年後に想像を及ぼしてみましょうというようなことを書きました。しかし、つねづね「想像力の外側に対する想像力」というようなことを口にしていますので、本音では、どこまで想像を広げながらも、常にその想像の及ばないことがら(人・もの・できごと)があるということも大事だと思っています。
今回の原稿では、そこまで言及していないのですが、そのようなことも考えていまして、それもふくめて、ご意見・ご指摘・ご教示をいただけたらうれしいなぁとおもっております。
2018年9月30日日曜日
2018年9月26日水曜日
『茉莉花』113号、2018秋号(法話・わろてら)
『茉莉花』113号、2018秋号 に「法話」ということで、原稿を書かせて頂きました。
NHK文化センターの受講生の方に聞かせていただいたお話から、
私としては大変感銘をうけたことを取り上げさせて頂きました。
あと、まったくの奇遇なのですが、
同号には「わろてら」さんの記事も特集されていました。
こちらも、「テラハ。」でのつながりをきっかけにはじまったということで、
大変うれしくおもっています。
2018年9月25日火曜日
【梵音具】出雲市 妙壽寺さま(浄土真宗本願寺派) (1)梵鐘
出雲市平田妙寿寺様 (2018年9月21日見学)
・梵鐘(昭和二十二年十月、鋳物師 高松藤塚町 多田文之助)
門を入ると、すぐに目に入る所に鐘楼がある。
しっかりとした梵鐘。またじっくり見ると、とても丁寧に作り込まれている印象を受ける。池の間には一区から四区まで、陰刻で寄進者名が彫り込まれている。丁寧に文字がきざまれていて、その人の多さとともに、鐘に込められた想いが現れているようだ。(四区と一区の間の縦帯にも寄進者名がある)
印象深いのは、「乳の間と池の間」の間、また「池の間と草の間」の間に、渦巻き模様の装飾があること。繊細な線で、これもまた丁寧に作り込まれた印象を醸し出しているようにおもう。
草の間には、「龍」。これも莊嚴な印象。
【記録】
竜頭:獣頭 (撞き座と平行)
乳:宝珠 108(25×4、+8)
池の間:1~4区に寄進者名多数
4区末尾に、年記・鋳物師
陽鋳:
昭和二十二年十月
鋳造
鋳物師 高松藤塚町
多田文之助
縦帯: 4-1区 陰刻:寄進者名
1-2区 陽鋳:「南无阿弥陀佛(蓮台)」
2-3区 陰刻: 慈光普照 無量佛土
正覚大音 響流十方
3-4区 陽鋳: 雲州平田
無量山 妙壽寺 什寶(蓮台)
・梵鐘(昭和二十二年十月、鋳物師 高松藤塚町 多田文之助)
門を入ると、すぐに目に入る所に鐘楼がある。
しっかりとした梵鐘。またじっくり見ると、とても丁寧に作り込まれている印象を受ける。池の間には一区から四区まで、陰刻で寄進者名が彫り込まれている。丁寧に文字がきざまれていて、その人の多さとともに、鐘に込められた想いが現れているようだ。(四区と一区の間の縦帯にも寄進者名がある)
印象深いのは、「乳の間と池の間」の間、また「池の間と草の間」の間に、渦巻き模様の装飾があること。繊細な線で、これもまた丁寧に作り込まれた印象を醸し出しているようにおもう。
草の間には、「龍」。これも莊嚴な印象。
【記録】
竜頭:獣頭 (撞き座と平行)
乳:宝珠 108(25×4、+8)
池の間:1~4区に寄進者名多数
4区末尾に、年記・鋳物師
陽鋳:
昭和二十二年十月
鋳造
鋳物師 高松藤塚町
多田文之助
縦帯: 4-1区 陰刻:寄進者名
1-2区 陽鋳:「南无阿弥陀佛(蓮台)」
2-3区 陰刻: 慈光普照 無量佛土
正覚大音 響流十方
3-4区 陽鋳: 雲州平田
無量山 妙壽寺 什寶(蓮台)
【梵音具】出雲市 妙壽寺さま(浄土真宗本願寺派) (2)喚鐘
2018年9月14日金曜日
180912 普通を語ろう(仮) 2回目
9月4日に開催予定だったこの会。「普通を語ろう」(仮)の2回目ですが、ちょうど台風21号の直撃と重なって、1週間ほど延期し、この日 9月12日の開催となった。
1週間前にリスケジュールとなったにも関わらず、当日は前回を超える14名(主催者2名を含む)の「われこそは普通」という思いや、そうではない思いを抱える参加者があつまった。
年齢や性別、地域、そして信仰もある程度の多様性を含んだメンバーになっていたのが面白かった。
予定していたより多くの人があつまったため、4人組×3グループになって、それぞれで「普通」について思うところを語り合う。
・時代や文化のコンテクストで揺れ動く「普通」
・子どもに期待する「普通」
・過去の「普通」の水準が、今では異なる水準へと変化している例
・ちょうど先週の台風という災害によって、「普通」にあったものが、「当たり前ではない」という事実に気づかされたこと
・「普通だよね」という批判、「もっと普通にして」という要求。
今回も様々な角度から、話題が提示され、それぞれの思いや感情が乗せられた経験も含めて語りが出てきているようだった。
グループでの話題をシェアしたあとは、(すこし休憩をはさんだ)全体での話し合いの時間。
・抑圧や、威圧、ある種の暴力性を持った「普通」と、それにどう対峙するか?(あらがうか、自覚的になるか)という問題
・異なる「普通」(これは価値とか、文化とか、個性とも癒えるかも知れない)の対立や、摩擦が生じる際に、どのように向き合うか、という問題。
(これは、すりあわせや、交流の問題といえるかもしれない)
両者は、ある面では、よく似ているように思う。前者は、この会でもよく取り上げられ問題になる点で、抵抗を感じるが、時としてそれが「文化」や「歴史」によって培われた「マナー」や、「価値観」の伝達の場面でも起こりうるのではないかというような指摘でもあったように思う。
とするならば、「普通」として語られ、提示される価値の中には、「普通のこと」「普通の感覚(常識)」として、伝達され、受け継がれるものもあるのではないか?
しかし、一方でそれとて絶対的なことではなく、歴史的に変化したり、時代が変わる中で通用しなくなり、捨てられるべきこと(維持できなくなること)もありえるかもしれない。
なにが抵抗すべき事で、なにが受け継がれるべき事なのだろう。
そのなかで、今回の話し合いでは、「時間をかけたコミュニケーション」に、解決や方法を求める案が一定程度支持を得ていたように思う。
異なる価値(普通)は、一方から、抑圧的に押しつけられるものではなく、時間をかけた、丁寧なコミュニケーションによって「納得」や、「理解」をともなって、標準化されていくものではないか。「他者の普通」は断絶の向こうにあり、否応なくやってくるものではなく、異なる普通のすりあわせという事態も生じるのではないか?
そんな「コミュニケーション」の可能性に、今回の話は、希望を見いだしていたように思えた。
そんな風に勝手に、それっぽいまとめと、個人的な納得に到達することができたけれど、実際の会は、さまざまに語り合って、時間が来たので、感想を述べ合って終わり、というありがちな「普通」の結び方であったこともちゃんと記しておこうと思う。
さて、最後に、主催の一人としての所感だけれど、今回は、会の終わりには、心の中に「反省」と「戸惑い」があった。
反省は、話題の方向性や共通の関心がなかなか見出せず、議論を「方向付け」できずに、ただただ眺めてしまっていたということ。「前回(1回目)」の経験があるため、同じように「普通」の用例分析をして、明確化をめざしても、それがパターン化してしまうなぁと、実は思っていたりもした。
(以下が戸惑いでもあるのだが)
ただ、一方でそれがある面では、場に出た関心を「切り捨てる」ということは少なく、「普通」の多様性が立ちあがってきていたようにも思う。参加者の反応は、悪くなかったというところもまた、僕としては戸惑いを感じてもいる。
なにが正解なのか、なにがゴールなのか、見いださないままただただ、普通について語ったというのはなかなか得がたい時間ではあったと思うが、同時に「再現」も「評価」 も困難といったものであることが、感じられもした会だった。
2018年9月7日金曜日
台風21号と被害
9月4日。台風21号。
いまだかつて経験したことのない台風がやってきた。
14時頃におそらく風の強さのピークがきたのだろう。
(後で原因が瓦だったと分かったのだが)強風が本堂の瓦を吹き飛ばし、玄関のガラスと二階の木製の雨戸とガラスを突き破って入ってきた。
いまだかつて経験したことのない台風がやってきた。
14時頃におそらく風の強さのピークがきたのだろう。
(後で原因が瓦だったと分かったのだが)強風が本堂の瓦を吹き飛ばし、玄関のガラスと二階の木製の雨戸とガラスを突き破って入ってきた。
ちょうど同じくらいに停電も発生。
電気はそこから22時間ほど、ほぼ丸1日、止まった状態になった。ちょうどその日の朝から、いつも持ち歩いているノートPCレッツノートが故障し、うんともすんとも言わない状態に。普段ならば、バッテリーからスマホに充電することもできるところが、それもかなわない。当たり前に来ている電気がなくなったとき、どれほど不便になるのかということを改めて感じる。
台風は夕刻には去り、一段落したが停電のため、ろうそくであかりをとりながら、何とかすごす。することもないので、通電を寝ながらまったが、結局あさまで、電気は来なかった。「災害」「被災」の状況を認めたくないような、しかしすでにそこに置かれているような気持ちで、夜を過ごした。
2018年9月2日日曜日
「お寺のために使われる」(カリー寺 オープニングトークから)
もう一月以上たってしまったカリー寺。
カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。
カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。
そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。
(そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばしば、次のようにいわれる。
「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。
しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)
もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。
お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。
現に、今のお寺も、お寺の行事に「参加せねば」と関わって下さったり、本堂や、お墓の掃除に協力的に参加して下さる門徒(檀家)さんたちによって維持されている。
そう考えると、住職をはじめとする僧侶も、「お寺をどう使おうか」という「お寺の使い方」ではなく、「本来的なお寺のあり方にするために、自分がなにをすべきか」という、自らの「使われ方」、あるいは自分自身の「使い方」を考えるべきではないかとおもう。使う主体と使われる主体が逆転するようなあり方が、ある種の信仰の場であるお寺と自身の関係性として、あるいは自身と対象のあり方として立ちあがってくるのではないかと思われた。
そこには、自分の願いや希望をいかにして(金銭等を用いた)等価交換によって得ていくかという経済や、消費、サービスのあり方とは一線を画す考え方を提示する場もたちあがってくるようにおもわれる。
自分たちの願いを基準にしてものとむきあうのではなく、逆にその「場」やそこにあるものを成り立たせている(込められた)願いや思いをいかに読み解いていくか、そのうえで自身にもとめられる振る舞いを考えていく、というアプローチが求められているようにも思うのであるが、どうだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ もちろん、上記の考えにもまた問題が含まれることもあるとおもっている。
宗教的なことがらに対して、「自身を使うべき」という文脈になると、そこには主体性の剥奪や、盲目的な信仰、ネガティブな意味での宗教が孕んでいる問題も充分に考えなければいけないことがらのように思っている。
そのあたりを含めて、またじっくりと考えてみたい問題でもある。
カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。
カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。
そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。
(そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである)
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しばしば、次のようにいわれる。
「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。
しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)
もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。
お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。
現に、今のお寺も、お寺の行事に「参加せねば」と関わって下さったり、本堂や、お墓の掃除に協力的に参加して下さる門徒(檀家)さんたちによって維持されている。
そう考えると、住職をはじめとする僧侶も、「お寺をどう使おうか」という「お寺の使い方」ではなく、「本来的なお寺のあり方にするために、自分がなにをすべきか」という、自らの「使われ方」、あるいは自分自身の「使い方」を考えるべきではないかとおもう。使う主体と使われる主体が逆転するようなあり方が、ある種の信仰の場であるお寺と自身の関係性として、あるいは自身と対象のあり方として立ちあがってくるのではないかと思われた。
そこには、自分の願いや希望をいかにして(金銭等を用いた)等価交換によって得ていくかという経済や、消費、サービスのあり方とは一線を画す考え方を提示する場もたちあがってくるようにおもわれる。
自分たちの願いを基準にしてものとむきあうのではなく、逆にその「場」やそこにあるものを成り立たせている(込められた)願いや思いをいかに読み解いていくか、そのうえで自身にもとめられる振る舞いを考えていく、というアプローチが求められているようにも思うのであるが、どうだろうか。
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※ もちろん、上記の考えにもまた問題が含まれることもあるとおもっている。
宗教的なことがらに対して、「自身を使うべき」という文脈になると、そこには主体性の剥奪や、盲目的な信仰、ネガティブな意味での宗教が孕んでいる問題も充分に考えなければいけないことがらのように思っている。
そのあたりを含めて、またじっくりと考えてみたい問題でもある。
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