2023年6月21日水曜日

総合教育会議(令和5年4月27日)の議事録と備忘 インクルーシブ教育について発言したこと

  4月に開催され、出席した総合教育会議の議事録が公開されています。
 総合教育会議とは、法律で規定され、首長と教育長、教育委員が構成員の会議で、原則公開で行われています。

総合教育会議の公開(尼崎市)
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/shisei/si_kangae/education/1007975.html


総合教育会議議事録(PDF)
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/975/sogokyoikukaigi.pdf

 

 この時の会議は、主に体罰やいじめに関するアンケート調査や、「子どものための権利擁護委員会」の取り組み、そして市立高校で起こった体罰事案を契機に取り組まれてきたプランの状況報告と検討、というのが主たるものでした。

 予定された議案が報告されたあと、追加で「インクルーシブ教育」に関する報告と意見交換もあり、一部そちらでコメントしたことが議事録に乗っているので、補足・紹介しておきたいと思った次第。


 発言の内容は上のURLの議事録(PDF)からも参照いただけるが、下に転載もしておく。

 実はこの発言はあらかじめ、ペーパーを用意して臨んでいたのだが、時間が限られていた中にすこしながく発言してしまったこともあって、大きく割愛されている。(他の出席者の発言も、議事録掲載のために、要約されています)

 

 発言したことのポイントは3点である。

 

 1)「支援」のみでは、インクルーシブは達成できないということ

 いうまでもなく、「合理的配慮」や支援が必要な児童・生徒、あるいはあらゆる人にそれを行うことは必要なことだと考えている。しかし、議事録の発言にも引用したように、「社会的包摂」(ソーシャルインクルージョン)とは、社会的弱者に変化を求めるものではなく、弱者をそのような状況に追いやっている「構造的課題」に目を向け、社会の側が「ともに生きていけるように」「包摂的なありかた」に変化していくことが求められるものと理解している。

 つまり、社会ーマジョリティ側にも変容が求められるのであるから、インクルーシブを推進する施策を評価する際には、「マジョリティ側」(より多くの生徒、教職員、保護者、さらには市民一般)への働きかけ・アプローチも可視化し、評価していく必要があるのではないだろうか。

 現状の報告では、いわゆる「支援」つまり、ハンディキャップを抱え、支援が必要な児童生徒へのアプローチや、そのための環境整備という面しか見られていないように見え、果たしてそれでいいのか?という問いかけをさせていただいたつもりである。

 2)インクルーシブ教育システムは、本当にインクルーシブな在り方なのか?ということ

 すこし混乱が生じるが、文科省や教育行政では「インクルーシブ教育システム」という名称で、施策が推進されている。しかし、その実態は、従来の特別支援教育の延長にある施策とも評価され、本当に「インクルーシブなのか?」という疑問が呈されている。

 議会や市民レベルでも混乱が見られ、本当に進めるべき政策を具体的に議論していく上では、ちゃんと整理し、広く理解されなければいけないと考えている。

 議事録に見られるように、本市の「インクルーシブ教育はどこをめざすべきか?」という投げかけにとどめているが、本意は「インクルーシブとはなにか?」ということを行政レベルで本質に迫る議論をしてほしいと願っている。

 3)政策になったということは、その時点で後手かもしれないという懸念

 議事録で、「制度というのは、先に困難や問題があって、後からできるものだ。基礎自治体や学校現場には、どうしてもその制度に収まらない課題や困難を抱えている人たちがたくさんいる。それも含めてこの場では取り組んでいきたい。」と記録されている部分。

 「行政課題」として、議論の俎上に上がってきたり、予算が付いたり、政策的な課題として設定されることは大変重要なことであると認識している。ただ、そのうえで、感覚として「行政課題」になるまでの時間や、議論を考えると、時間的にそれはすでに「一般的に認知されるまでに至った課題」であるケースが圧倒的に多い。実際はまだ、人知れず困難や問題を抱えていて、手つかずになっていること、あるいは草の根レベルでなんとか取り組まれているようなことが非常に多くあるのだろうと感じている。

 だとするならば、「制度的にこのように設計されている」ということを根拠に課題に取り組むのは、その時点で「後手」である可能性が高いのではないかと感じている。

 教育委員という行政機関の中で、行政職員のみなさんの実情に接して感じていることは、みなさん、精いっぱい職務に対して、まさに「精励されている」ということ、まじめに取り組んでくださっているということに尽きる。その点は非常に敬意を表し、感謝の念を抱いている。 その一方で、私の立場でもあり、「市民の目線」からすると、制度や行政の論理に陥って、市民感覚からずれてしまっていることも、無くは無いように思っている。(結構あるように思う)そういう点については、市民の目線に、本当の意味で近づいてもらえるようになってほしいということも一方で思っている。 
 そのズレが、上のようなギャップが生じているということについて、自覚的になってもらえるかどうかということにもあるような気がしている。

 ※(追伸)つい先日、親しくしている行政職員の方とお話していた時に、まったく同様の指摘を、その方が発言されていたので、行政職員のみなさんにも、その課題感というのはおそらく共有されていることも多くあるのだろうということも補足させていただきたい。


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【議事録より、中平の発言箇所】

インクルーシブ教育について、疑問に思っていることを言いたい。

インクルーシブのあり方とは、その構造自体の変革である。つまり、構成員のここにインクルーシブな場ができているという理解抜きには成り立たない。

東京都立大学の阿部彩先生によると「社会的包摂政策は、社会の何がその人を貧困や孤立に追い込んだのかを考え、その仕組みを変えていこうとするものである。社会的排除政策は変わることを貧困者に求め、社会的包摂政策は社会が変わることを目指している。」

従来型の自己責任論ではなく、子どもの貧困の問題などのように構造的な問題として捉えて、社会の側が変わっていくというアプローチだ。

つまり、インクルーシブ教育とは、当事者の支援だけでなく、通常級の子ども、教員、保護者、地域の人といったマジョリティー側の理解の変革も必要である。そうしないと支援されている「特別な人」という枠は超えていけない。

次に、政策的な話だが、日本の教育行政は「インクルーシブ教育システム」という名のもとに行われているが、これがいわゆる「インクルーシブ教育」と差があり、議会や市民との間ですれ違いが起こっているのではないか。本市としての「インクルーシブ教育」はどういうものか、議論して明確にしていく必要がある。

最後に、会議前の議論で、教育委員会事務局では制度の中で苦労していただいていると伺った。しかし、制度というのは、先に困難や問題があって、後からできるものだ。基礎自治体や学校現場には、どうしてもその制度に収まらない課題や困難を抱えている人たちがたくさんいる。それも含めてこの場では取り組んでいきたい。

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