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ダブルブッキング

またやらかした。 研究所の会議と、某研究会の発表。 同日のほぼ同時間帯。 研究会のほうを日程調整してもらうことができそう。 関係の皆様申し訳ありません。-_-

法務の中で

本日のお参り。とあるおうちで。 そのおうちのおばあさんの話。   わたしらが小学校の時、若いお嫁さんがきたときに、うちのおじいさんがゆっとった。 ��おじいさん)”生活する中で一番大事なことは何かゆってみ” ��若い嫁さん)”・・・・” ��おじいさん)”ちがう。一番大事なことは、朝起きて仏さんにおてを合わせることや。それから一日がはじまらなあかん”  こんなことをゆっとった。  ほんで、おじいさんがお参りする後ろにおったら、おじいさん、お参り終ったあとに「ありがとうございます」って仏さんにゆってはった。  何してるんかなぁとおもとったけれど、お寺でお話聞かしてもらううちに、ああ、おじいさんまちがったことしてへんかったんやなぁって、思うようになった  昔は、なんでお参りすんのかわからんまんま、つれていかれとったけれど、今になって、ありがたいことやなぁって。  でも、後のもんに伝わってないのが・・・・。  そんな話でした。  特に、おじいさんが「ちがう。一番大事なことは、朝起きて仏さんに手を合わせることや。それから一日がはじまらなあかん」云っていたというところには、ガツンとくらった感じ。  僕らが一生懸命説こうとしている理屈とか法義とかというものも、そのおじいさんの一言には太刀打ちできないと感じる。  それは、「ことばで教えとは」と一生懸命語っても、「教えの如く生きている」「信を生き様として示している」ものの前に出たときには、その偽瞞性というか、うすっぺらさが知らされてしまうような。そんな感覚。  一番大事なことは朝起きて仏さんに手を合わせること。 あぁ。ごめんなさい

なつやすみ明け

大学の夏休みは、九月の最終週に明けます。 後一週間後には、夏休み明けです。 もちろん、いつもどおり働いているわけですが、講義が始まり、いろいろとすることが増えるわけです。 仕事の締め切りもその時期にかたまっていたりするわけです。

部屋掃除

ここ数日、部屋の掃除を毎日すこしづつしている。 おかげで、だいぶんへやもかたづいてきた。埃もかなり掃除機の中に吸い込まれていった。 一番時間がかかることが、山積みになったプリント・論文のコピー・小冊子・ダイレクトメール、その他諸々をひとつづつ、いるものといらないものに分別すること。 ほんとに山のようにある。 いつか要るかもとか、いつか読もうとか、読んだけどあとでファイリングしよう、整理しよう。 ついつい、そう考えてしまう。 かなり、自分の頭を“非情モード”に切り替えて勝負にでなければならない。 やはり自分の手で触れたものだから思い入れが出てきてしまう。 けど、時間を割いてまでこいつに関わってやれることはないなと、思った段階で、「さよなら」だ。 結構すっきりした。 どれくらいすっきりしたかといえば、机が机としての機能を果たせるくらい。  分類できないもの・収納できないものを減らせば部屋は片付くのに。。。  わかっているけど、なかなかできないもの。

阿弥陀如来

 阿弥陀如来という仏さまは、全ての衆生を見捨てずにすくい取ろうという願いを立てられた仏さまです。  阿弥陀如来という仏さまの放つ、慈悲の光明は、いつでも、どこでも、全ての衆生を照らしているのです。煩悩によって見ることが出来ないけれども、常に、照らし続けているのです。    知っている人にとっては、なんだそんなことか、ということかもしれません。  けれども、その「当たり前」のことが、一番大事なことではなかろうかと。  その如来のすばらしさは、「知っている」という世界にいる人たちにとっては当たり前のことでありながら、それを聞いたことのない人には、素晴らしい魅力を持っているのではないだろうか。  その素晴らしい魅力があるのに、もしかしたら、「さもありがたそうな、大したことのない魅力」を一生懸命探していたのかもしれない。  自分たちが当たり前に感じて見落としているなかにある「すばらしさ」を、もう一度見直すことも大事ではないかと、最近ちょっと思うのです。

死者と生者

「身近な人の死を経験したことのある人ならば、死者は死によっていなくなってしまうのではなく、というか、むしろいなくなってしまうことを通じて、生者以上に強力にはたらきかけ、私を放っておいてはくれないことをしっているだろう」 ��末木文美士 『仏教VS倫理』より)  「死」は、「別れ」である。しかし、「別れ」とはそれで終わりということではなく、あたらしい関係の始まりなのだろう。

帰宅。

うちに帰ってきました。 とある社会で評価される人が、違う場面にいくとまったく評価されていなかったり。あるいはその逆だったり。 具体的に誰がというわけではないですが、そんな場面によくでくわします。 そして、よい評価は自分の耳に入ってくるけれども、悪い評価はなかなか耳にすることはなく。 結局、自分がどこで批判されているか気がつかないまま。 評価され、人前に立つということは、それだけその反面の影の部分も強くなるということをことあるごとに思います。 昼書いた、どうなりたいか、ということは、ある面では、どこで評価をされ、どこで批判されるかということを、ある意味求め、ある意味あきらめるというか。 そんな意味もあるわけで・・・。 思いつくまま。 もう寝ます。

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