お参りの途中、曲がり角を急に来た自転車とぶつかりそうになる。
しかし、その相手はあやまらずに、どっかにいってしまう。
別段なんとも思わず、憤りなどもないけれど、そのことについてちょっと考えてみた。
その人にとっては「自分がぶつかりそうになった」というだけで、相手(この場合は僕)の存在は、全く無かったものして扱われているのではなかろうか。ああいう人の頭の中には、見ず知らずの人は、その人の「社会」にはいないものとして扱われているのではなかろうか。
そうでないとしても、そう思えるようなことがらをちょくちょく見かける。
電車の中で大声で騒ぎ続けたり、携帯電話で大声でしゃべり続ける人。
ファミレスで、騒ぎ続ける人。
自分や家族の損得だけを追い求めて、社会にかける迷惑や社会的な損害に対しては全く省みようとしない。
不都合な存在は「いないこと」としてふるまうことができるようになってしまっている。
そういう人たちが、まったく社会的な場面を持っていないかというと、実は顔見知りなどの自分のテリトリー内にいて「仲間」と認識された人に対しては、義理を重んじ、自己の損得を抜き事にして活動をする。そこでは、非常に社会的なのではないかと思う。(推測)
会社やバイトなど、ある種閉塞された社会的に振舞うことが要請される場面でも、そのように振舞うことができるけれども、パブリックな場面で振舞う社会性が欠落しているとでもいうか・・・。
そう、「社会性が身についていない」、あるいは「社会性というものが全く無い」のではなくて、ある人たちの「社会」といえるテリトリーがある意味で限定的な場面になってしまっており、「社会的に振舞わないでもよい」領域が、存在し、そして拡大しつつある状況なのではないだろうか。
これも、僕の頭の中だけの解釈なのかもしれないけれど、なんとなくそんなふうに思ったりするのです。
2008年1月6日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので
今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。 数年前に大阪大学が、大学としてのカ...
-
非常勤講師としてお世話になっている相愛大学で、以下の講演会があります。 第一回のゲストスピーカーとして、登壇させていただくことになりました。 (添え物なので、ちょろっとです。) ご期待にそえるかどうかわかりませんが、 お寺での活動や、宮崎先生がお話しされたことなどから、対談をさせ...
-
◎ 答えずらい質問 よく聞かれる質問に、「お布施はどれほどしたらいいですか?」と聞かれる。 この質問に具体的にこたえられるお寺・僧侶もいらっしゃる。あるいは、ホームページ等に明示的に書かれていることもある。 しかし、正直言って、なかなか具体的にどれだけしてくださいとは答え...
-
業界に詳しい知人と話していたこと。 テレビCMなどでバンバンと流れている、さるグループ・系列の葬儀会社の実情がとてもひどいという話が流れてくる。 具体的にはかけないが、内容がひどい、高額請求がひどい、うたい文句と実情がかけはなれている・・・など枚挙にいとまがない。 一...
0 件のコメント:
コメントを投稿