2008年1月6日日曜日

謝罪

 お参りの途中、曲がり角を急に来た自転車とぶつかりそうになる。

 しかし、その相手はあやまらずに、どっかにいってしまう。

 

 別段なんとも思わず、憤りなどもないけれど、そのことについてちょっと考えてみた。



 その人にとっては「自分がぶつかりそうになった」というだけで、相手(この場合は僕)の存在は、全く無かったものして扱われているのではなかろうか。ああいう人の頭の中には、見ず知らずの人は、その人の「社会」にはいないものとして扱われているのではなかろうか。



 そうでないとしても、そう思えるようなことがらをちょくちょく見かける。

 電車の中で大声で騒ぎ続けたり、携帯電話で大声でしゃべり続ける人。

 ファミレスで、騒ぎ続ける人。

 

 自分や家族の損得だけを追い求めて、社会にかける迷惑や社会的な損害に対しては全く省みようとしない。

 不都合な存在は「いないこと」としてふるまうことができるようになってしまっている。





 そういう人たちが、まったく社会的な場面を持っていないかというと、実は顔見知りなどの自分のテリトリー内にいて「仲間」と認識された人に対しては、義理を重んじ、自己の損得を抜き事にして活動をする。そこでは、非常に社会的なのではないかと思う。(推測)

 会社やバイトなど、ある種閉塞された社会的に振舞うことが要請される場面でも、そのように振舞うことができるけれども、パブリックな場面で振舞う社会性が欠落しているとでもいうか・・・。





 そう、「社会性が身についていない」、あるいは「社会性というものが全く無い」のではなくて、ある人たちの「社会」といえるテリトリーがある意味で限定的な場面になってしまっており、「社会的に振舞わないでもよい」領域が、存在し、そして拡大しつつある状況なのではないだろうか。

 これも、僕の頭の中だけの解釈なのかもしれないけれど、なんとなくそんなふうに思ったりするのです。

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