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学会参加―真宗連合学会2013

本日は、真宗連合学会。 (2013/06/14、於龍谷大学大宮学舎) 午前中の研究発表のみ、参加・聴講させていただいた。 会員ではないのだけれど、いくつか興味深い発表もあったので。 遠方からひさしぶりにお顔を合わせる方もいて、 懐かしい気分にも。 刺激的な研究発表を聞くと、勉強せねばと思う。

御法義地 山口

先週金曜日、山口県宇部市の蓮光寺さまの 「さつき法座(夏法座)」という法座で、御法話させていただきました。  山口は、浄土真宗の盛んな地域で、お寺の法座あり方など、大変勉強させて頂きました。  ご住職は、平安高校の先生をされていた方で、高校時代からお世話になった方です。  まさか、先生のお寺でお話しするとは・・・という思いもありました。  法座には、先輩のHさんが座ってくださり、 終わってからは、新幹線の時間まで、友人のMくん(結婚して名字が変わる前からMくんでした)と、旧交を温めたり。  前日木曜の夜から伺っていましたが、ありがたく充実した二日間でした。    ちょっと前のお話でしたが・・・。

スマホ Xperia acro SO-02C メンテ記録

一昨年の7月から使い始めたスマートフォン、 エクスペリア アクロ(Xperia acro SO-02C) 使っている間に、そこそこ問題も発生してくる。 スペック的に問題となっているのが、以下の数点。 ■内蔵メモリが300数十MBしかなく、非常に少ない。  →すでにメールやフェイスブック、その他諸々のアプリでかなりの割合が占められる。  →メールも受信の度に、「容量不足で受信できません」となることもしばしば。 ■通信速度の問題。  →最新機種 クロッシィは、第四世代の通信技術(4G、LTE)が採用されていて、すでに旧型になっている。 ■動作速度、反応の遅さ。  →メモリ不足と関係しているのか、はたまた別の理由か、とにかく反応がだんだんと鈍くなってきた。 というわけで、本日、いくつかの作業を試みてみました。 以下対応策 ■メモリの高速化アプリをインストール 「サクサクAndroid」   https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.ignis.sakusaku.dapan    ベタなところで、高速化ソフトのインストール。  しつこく、高速化するというボタンを繰り返し押して、試みる。 ■無駄なソフトの削除  置かれているだけで無駄な容量を食う、アプリなどをこの際削除。 ■メールの整理。  容量を一番食べていたのが、メール。  アプリのいくつかは、メモリーカードへ置き場所を変更できるのだが、メールソフトとそのデータは、ハードウェアのメモリに固定。しかもたまると90MB程も容量が必要な状況に。  PCとの接続を試みて、メールをSDカードからPCのメーラーにバックアップ。 その上で、古いメールはスマホから削除して、軽量化を進めた。 ■ソフトウェア(スマホ)のアップデート  PC接続がうまくいったので、そのままいくつかのメンテナンスを実行。  PCからソフトウェアのアップデートもやってみた。 (※これが、あとからわかったことだけれど、最新のアップデートによって、root化などができなくなってしまっているらしい。してよかったのかどうかは微妙。)  さ...

美味しいものを、美味しいと感じていいのかどうか。

 昨日、講義でDVDを見てもらいました。15年程前にNHKが制作した、タイの仏教を取り上げた番組。  タイでは、夏の安居の期間、毎年10万人の人が出家します。成人男性の多くが一時的に出家し、その経験によって社会的な評価も格段に高まるというような社会です。  出家生活では、さまざまな修行、瞑想を重ねることで、あらゆる執着から離れていくことを求めます。食事は托鉢に出て、一般の人からの布施をされることで生活をします。  DVDでは、一般の企業に勤めている男性が、休暇を取って出家し、修行生活に入った姿にスポットが当てられていました。その男性が出家修行生活の中で、日記を綴っていました。  托鉢に出て、いただいた料理の中に、「何と美味しいことか」と思うほどのものがあったと。非常に美味しいと感じたが、徐々に、その「美味しい」と感じることも「執着」ではないかと考え始めたというのです。「美味しい」「美味しくない」と感じるのではなく、どれも同じように、味わいなど問題にせず、淡々と食すべきではないのか。そんな風に考えるようになっているというのです。  受講している学生の感想レポートなどでも、例年疑問が呈される部分でもありました。美味しいものを「美味しい」と感じてはいけないように思うことは疑問だとか、自分には理解できない、と。  (講義で流していたので)もう何回か見ているのですが、今回あらためてそんな疑問を念頭に置いてその箇所を見ていました。  改めてみていると、その態度は、【「当然」と思っていた感情や、考えに対して、問いを投げかけ、考え直している姿】ではないかと思いました。  普段日常生活では、美味しいものを食べたならば、「美味しい」と感じて、そこに疑問や罪の意識など生じることはまずありません。  しかし、仏教生活を突き詰めることで、その感情に対して、「果たして本当に正しい心持ちであるのか」という、チェックが入り、問いが投げかけられるのです。  「正しい」「間違いない」と結論づけてしまうということは、非常に強く揺るぎなく思える反面、そこで思考が止まってしまうという面があるように思います。  「正しい」ことに「本当に正しいのか」「間違いはないのか」、そう問うことの意味は、決して軽くないと思います。   われわれは、日常生活でさまざまな行いをし、考えや感情を...

準備と花粉症と幼なじみと研修と

今日の私  来週に迫った、西正寺のはなまつり、「西正寺寄席」の準備であれこれ。  花粉症の症状もでて、くしゃみして、ティッシュを使って、PCの前でパチパチやっています。  午後からは、幼なじみが引っ越しをするので、お仏壇のお勤めをして欲しいというので、 川西市まで行きます。  で、夕方から夜にかけては、ある研修会に参加すべく大阪に参ります。  というわけで、わりとぎっしりなスケジュール。  

何を求めるか。

ここ数日、法話をしながら、ふと思ったこと。 「思い通りになるようにするにはどうしたらいいのか?」と考えているうちは、しんどい。叶うことのない望みだから。 いろんな人に会ったけれど、「人生がまったく思い通りになった」という人は知らない。 むしろ「思い通りにならない人生をどのように生きるのか?」という問いは、 むしろ仏教的であるといえるんではないかと。なぜならば、避けることのできない苦しみがある、というのが仏教的な問いの出発点(の一つである)といえるだろうから。

旧友(高校時代)と

 昨日(3/15)のこと。  高校時代からの友人・後輩、3人と、会食。  うち一人が年末に結婚したので奥様も同席。初めてお会いしたけれど、とっても感じのいいかた。  古い友人にあると、年月の経過なんてどっかに行ってしまったように感じる。  なんの腹蔵もなく、おもったまんま、とめどもなく話をしていた。  なかなか時間がとれない仕事をしている人たちなので、頻繁にはあえないけれど、 たまには、こんな時間もと思う。  

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