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魂はどっからくるのか・・・

今日のお参り。  とあるおうちで。    Aさん:マンガみたいなこと聞いていいですか?魂ってどこからくるんですか? お盆とかそんな行事に触れて、そんなことを思われたらしい。 そもそも浄土真宗で(本来的に仏教でもだとおもうけれど)「魂」なんてことは言わない。 浄土真宗では、魂を言わない。 でも、私たちが命を終えたあと、阿弥陀如来のはたらきによって、浄土に生まれることができるのだということは語ることができる。 亡くなっていく命を生きていて、浄土とどのように関わっていくのか。 大切な人とも、限りある命を生きている以上、わかれていかなくてはいけない。 自分は今、その死とどのように向き合っているのか。 さきに生きてくださった人の命とどのように向き合っているのか。 今日は、そんなこと話をしたり、聞いたりできた。 Aさん曰く  学校でも教えてくれないじゃないですか。でも、どうなっているのかなって思って。 そう。学校では、生きていく手段や方法を教えてくれるかもしれないが、死にゆく命を抱えて生きているということは、まず教えてくれない。(教えてくれる学校もあるかもしれないが、たぶんそれは特別なことじゃないかな?)  お寺のお坊さんが語るべきことは、やっぱり、お坊さんにしか聞けない話であるべきなんだろう。

後ろ姿で

昨日の研究所の朝礼。 先輩が当番。お盆参りでこんなことがあったとお話しされた。 とあるおうちで、(お経の)お勤めが終わった後、御門徒さんがこんな話をされたとか。 御門徒:「若院さん、(地元に)帰ってこられたら、土日に法座をしないと行けませんよ」 先輩:「やはり、お休みの日でないとお参り来られないですよね」 御門徒:「それもあるけれど、平日に法座をしたら、家にだれもいないでしょ。家にいないと、その家の人が、おじいさんおばあさんがお参りに行っていても、そのことを知らないかもしれない。日曜日なら、家族の人が家にいて、その人がお参りに行って,帰ってくる姿を見ている。平日だと、せっかくお参りされていても、家の人が「その人がお参りをしている」ということさえ、知らないかもしれない。」 大切にお参りされていても、その大切にしていると言うことが伝わらないかもしれない。 あるいは、直接お参りに来られなかったとしても、家の人がお参りに足繁く通われている姿を見て、後のものがその姿から学ぶ者があるということを教えられた気持ちになる。 御門徒:「お葬式の時に、父・母が亡くなったらみんな涙を流している。大切な人が大切にしていたことであれば、後の者も大切にするはず。」 先輩は、家に帰って、父のご住職とこの話をして、日曜の法座について話をしたそうです。 お参りに来る人だけではなく、お参りに来ていない人さえも、視野に入れた尊い示唆に満ちた話だと思った。

お盆参りをしていたお盆休みが終わる

16日土曜日。 今日からまた京都へ出勤。 お盆の間は基本、お盆休み。 毎年この時期には、 車に乗せてもらってお盆参りについて行った小さいときのことを思い出す。 一年に一度、この時期にしか会わない人もいて、なんとなく一年を振り返る一つの節目。 一年に一度のお参りだった人が、悲しみの中にあって月に一度ペースで会うご縁になった方もいる。 そこにお参りに行っていると、 一回一回のお勤めをとても意味あるものとして感じられている方がいて、 僕の方がお参りをする意味というのを教えられている。 「お坊さんがお参りをすること」に意味があるのではなくて、 お参りの縁に遇う媒介として、お坊さんがいるのではないかと最近は思う。 誤解を恐れずに言うと、「お坊さんはすごくない」。 お坊さんが来るから、縁に遇い、勤める「お経」や手を合わせる「仏さま」、 口から出る「念仏」こそ尊いのではないかと。 さぁ、一週間、仕事を片付けねば。

フリスタ

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先日、池口龍法さんより、「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」をお送りいただきました!ありがとうございます。 メディアでも、頻繁に取り上げられる注目すべき活動。 詳細はこちら。 http://www.freemonk.net/

お盆前

気がつけば、もう8月。 月末から、立て込んだスケジュールだったなぁ。 出講とか、原稿とか。 一段落したので、合気道クラブの10周年記念誌に、ちょっと力を注げるように。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/ama-aiki/ 気がつけば、もう合気道歴6年半ほど? 結構長くやっているかも・・・。 この9月に、10周年の記念大会があります。 その時に発行する記念誌の編集当番になりました。 原稿もぼちぼちとあつまり、 後は体裁を整える編集作業をする段。 お盆の間に仕上げてしまわないと・・・。

応典院とグリーフのセミナー

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昨日7月18日(土)。 午前中、法務。 午後14時から、大阪・応典院で開催された エンディングセミナー「遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる」 に参加。 http://www.outenin.com/modules/contents/index.php?content_id=279 講師は橋爪謙一郎氏。 お葬式などで、遺体に保存処置を施したりするなどの エンバーミングの第一人者で、グリーフサポートの取り組みをされている。 近著は 『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』 (小学館101新書) 橋爪氏の講演・応典院秋田住職の対談との二部構成。 全体として、葬儀をグリーフの観点からどのようにすべきかという内容。 ちょっとした気づきで、悲しみの中にある人たちの支えや、悲嘆を少なくできる実例を教えてもらったように思える。 セミナー後、希望者では橋爪先生を囲んだ座談会形式の勉強会。 葬祭業者さんや、NPO関係者など、いろいろな立場の人が参加。 葬儀業者の方も、グリーフのケア・サポートのため取り組み―DMの送付や、場の設定などをされていて、非常に興味深い話を多く聞くことができた。 ただ、いろいろな話を聞く中で明確になったのは、 自分のスタンス。 僧侶は僧侶であるということ。 仏教者というスタンスの上で、グリーフに取り組むということ。 話のなかで、「グリーフケアのために、規定の概念、宗教の教義をも捨てるべき」というスタンスがあることを提示されていたけれど、 宗教者が、自らのアイデンティティである「宗教」を捨てては、本末転倒であるように思う。 グリーフケアのために捨てるべきではく、 仮に「教義」や「仏教者」の立場を捨てることがあったとしても、それは「グリーフ」のためではなく、 そうすることが仏教であるからだろうと思う。 グリーフケアのために、仏教者の立場を捨てるならば、それは「グリーフケア」の専門家。 仏教者は、仏教者の立場を捨てるとしても、その「捨てる」という行為が、仏教にもとづくものであり、より仏教者であるというあり方の上ですべきじゃないか。 矛盾を抱えた内容だけど、そうなんじゃないか。

ずっと家にて

今日は家にて過ごす。 法務もなく、ちょっとした掃除とお買い物。 送りそびれていたメールやらツイートを送信。 合気道の記念誌の編集すこし。 なかなか、規定の分量に収まらない。 どうしよう・・・。 朝食;ごはん、なめたけ、ちりめんじゃこ 昼食:野菜がたっぷりのうどん 夕食:ナスなどが入ったカレー 三食昼寝付き。 ひさしぶりにのんびりと過ごす。

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