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目の前のことをしたり、さぼったり

予定と課題を抱えていると、ゆっくりと文章を書く暇がなくなる。 すべきことができなくなる。 30分文章を書く時間があったとすると、 その前後に見えない、数えられない時間が必要ということを感じる。 気持や状況を整える時間が必要。 ところが、あればできるかというと、 そういうわけでもない。 ありすぎても、いけないし、なくてもいけない。 先週は、なさすぎて、余裕がありませんでした。 昨日は、ありすぎて、逃避しました。 なくてもできない。 あってもやらない。 結局しない。 これではいけない。 自戒を込めて。

ぼろ家ではなくて、トトロの家になるという…

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■娘とトトロを見ています 最近、娘とDVDで「となりのトトロ」を見ています。 2歳8ヶ月を過ぎた娘は、「トトロを見たい」と、要望をしっかりと出してくるようになって、成長にも目を細めたり。 映画を見ながら、あるいは見終わったあと、 「トトロこうしてたねぇ」とか、「こうだったねぇ」と、映画のなかのワンシーンをまねしたり、感想をしゃべったり。幼児ながらにすっかりと、映画の世界を楽しんでいるご様子。 ■トトロを見て思ったこと そんなこんなで、ふと思ったこと。 映画の中で、主人公のさつきちゃんと、めいちゃんは、田舎のぼろーいお家に引っ越してくるわけです。本人たちいわく、 「おばけ屋敷みたーい」。 「わー!ボロ!」 「腐ってる!」 さんざんなわけです。 ところが、本人たちは、そんなボロさをとっても楽しんで、否定的にではなく、むしろ肯定的に賛美している風すらある。 そして、 どうも引っ越しするまでは、「まっくろくろすけ」が住み着いていて、家を片付けていると、それを目撃できたり、 お隣さんには、「トトロ」がいて、遭遇することさえできてしまう。 見ているものには、「ボロ家」がとても素敵な、「行ってみたい」、「経験してみたい」という場所になってしまう。 これを見たものには、一つの世界が与えられる。 ぼろいおうちは、トトロの家。 五右衛門風呂や、カマドのある古い台所は、「時代遅れ」ではなく、 「さつきちゃん、メイちゃんの家と一緒」。 うっそうと茂った森は、「不気味なもの」ではなく、「トトロの住む森」。 何気ないもの、あるいは否定的にとらえうるものを、 肯定的な物語を介在させることで、それらも肯定的に「物語れ」るようになる。 もっといえば、否定的に見ることさえも、 それを「否定的にとらえた物語」の中に生きているといえるかもしれない。 「物語」がないと、それは、ただの「それ」で、 見ることも、語ることもないのかもしれない。 あこがれの世界や物語をもつということは、 現実に目の前にある「ものがら」に意味や価値を与えるものであると、 そんな風なことを思ったり、実感できるのだなぁと考えたり。 【追記】トトロのレビュ...

人の流れが面白く見えた

 昨日、大学内の本屋でふと見かけて、買ってしまった本。   三浦しをん『舟を編む』 。 予想以上におもしろく、感慨深かった。感想やレビューはまた改めて書きたい。  主人公の「まじめ」さんは、とても変わった人で、「エスカレーターに乗る人を見ること」が趣味だという。  「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になって順番にエスカレーターに乗る。しかも左側は立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」  (中略)…そこに美と喜びを見いだす馬締は、やはり辞書づくりに向いている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  朝、職場に向かう道中。京都駅。  中央の改札を出て、左に進む。  その流れに乗ってすこしすすむと、左の階段から下りてた人の流れがそこに加わる。  流れの先に目をやると、ちょうどあふれかえった人の流れが、二つに分かれていくように、徐々に開いていくところだった。  人の波がハッキリと2つに分かれると、歩道沿いに左側へと進む流れ、横断歩道を渡るために右へと進む流れに分かれた。    多くの人は、流れの真ん中辺りに固まって進む。  何人かの人たちは、その人混みを避けるようにやや外側を歩く。人混みを避けながら、でも流れに沿いながら、同じ方向に向かう。  水が平地を流れながら、川の流れを形作っていくような過程を見たような気がした。  そんな光景がおもしろいと思ったのも、昨夜に「まじめ」さんの言葉に触れたからだ。  今まで毎日歩きながら、人の流れを「面白いもの」と思って見ることもなかったし、そこに美を見いだすことはなかった。  けれど、そこに美があると、語ることばに触れて、改めてみると確かにそのようにも見ることができた。  言葉は、見たものを表現し、あるいは心を表現する手段のように思われる場合もある。  しかし一方で、言葉によって物を見て、言葉によってそのような感情が立ち上がってくるという面もある。  言葉がなければ、なにも「見ることはできない」し、言葉がなければ、何かを感じたり、思ったりす...

あるべきものがない、ということ

ある物(人)が、ある(いる)、ない(いない)。 という二つのパターンで思考しがちだけれど、 そんなに単純ではないのかも知れない。 「失うこと」「なくなること」で、感じる感情は、 それが「ない」というよりも、 「あるべきもの(いるべき人)」、「あったもの(いた人)」がない(いない) ということの方が近い。 「ない」「なくなる」と、「あるべきものがない」「あったものがなくなる」 このちがいが、とても大きな事のように感じた先日。 「ある」「ない」の二分法で考えるのではなく、 もうちょっと微妙な表現と、その間にあるものにも思いを巡らせないと行けないのではないか、などとも思う。

いつもと違う動きを…

今日は、ヘルプの作業の当番が当たっているので、 いつもより早めに家を出なければと、数本早めに出たところ、 最寄り駅で目の前で電車に乗り遅れる。 乗換駅でも、のんびり構えていたら乗り換え時間が意外と短くて、 また1本乗り遅れてしまった。 というわけで、先行の電車を2本ほどロスして、 結局いつもより2本だけ速い電車。 かなり早く着けると構えていたけれど、 「ちょっとだけ早く着ける」になってしまった。 いつものルーティン的な動きと違うことをすると 慣れていなくて、ロスが発生するという事例。 あるいは、充分間に合うと、のんびり構えていたけれど、 ロスを重ねて、余裕が思いっきり目減りしてしまった事例。

死後の世界を語ること 思想について思うこと

 死後の世界は意味がないか?  浄土真宗は、「浄土」という思想をもっている。  死んだら、「天国にいく」のではなく、「お星様になる」のでもなく、「浄土に生まれる」という思想。  浄土さらに広くいえば、死後の観念自体については、今日的にはしばしば批判がある。  「死んだ後のことなんか、生きている間には関係がないじゃないか」  (つまり、浄土の信仰は、この生き方には無関係だという批判)とか、  「そもそも死んだ後の事なんか、本当にあるかどうか分からないじゃないか」 (あるかないか分からないものは、無意味だし、信じる事なんてできないという批判)  しかし、本当にそうなんだろうか。  たとえば、「悪いことをしたら、地獄落ちるよ」、とか、「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ」という死後の観念が、あるいは物語が、 「死んだ後のことだから、生きている間に関係ない」といえるかといえば、そうではなくて、 明らかに、生きている今に、影響を及ぼす。  先年、アマゾンで地獄の絵本の売り上げが良かったことが話題になった。  読み聞かせをしたら、子どもが「いい子になった」という。  ちなみに、アマゾンの感想。    アマゾン →  地獄の絵本    それから、まとめサイト。   http://matome.naver.jp/odai/2134501267609788301    ちなみにいっておくと、「地獄の話で、子どもを驚かして、扱いやすくしてしまおう」とか、  「懲罰があるから、ちゃんとよく生きないといけないのだ」とか、  勧善懲悪的な思想に与しようというわけではないので。  いわんとしていることは、「死後の観念」が、生きている今に影響を及ぼしているではないか、ということ。 本当は、「浄土」でそれを語るべきなんだろうけれど、それはまた別の機会にゆずりたい。  死後の観念について思うとき、必ずしも、「死後の世界が実在する」という主張をするという形をとる必要はないようにおもう。 ただ、言えることは、こういう「物語」を触れ、自分の中に蓄えている人と、そうでない人は、心の動きも、現実の振る舞いも異なってくるだろう。  「思想」とはなにか、ということを考えるとき、結局「言葉」や「物語」と切り離せないのではないかと思う。 ...

教理史的な研究についての雑感・思考・つれづれ

 私のしている研究領域に「教理史」と呼ばれる分野があります。  とあることをきっかけに、そもそもこの学問は・・・的なことを考えています。 □真宗学における「教理史的研究」について  昭和20年から30年頃に出版された研究書を中心とした研究業績、その中でも現在もその価値を失っていない重厚なものの中に多く、今日「教理史的な視点」と呼ばれるスタイルで研究されたものが多くあります。  言い方を変えると、そのころ、「教理史的な研究」といわれるものが、成果として世に出されるようになってきたというわけです。  その内容は、私の個人的なかつ暫定的な定義ですが、  真宗を研究するのに、「歴史学的な態度」を取り入れ、画一的な訓詁註釈ではなく、文献や祖師を研究する視点に、その時代性や社会状況も充分に視野に入れながらみていこうとするもの、と言えると考えています。  具体的にいえば、中国の唐の時代に生きた善導という人の行跡・思想を扱う場合、いまの我々の価値観、あるいは鎌倉時代の親鸞聖人・法然上人といった、後の世の目線(フィルター)を介して、それを眺めるのではなく、あくまでも、中国という国、唐という時代に生きた人物として善導を、そしてその場所・その時代で生きた人として、彼の書物を扱おうという視点といえます。  いってみれば、今日、文献を扱う際には、いわば当たり前と考えられる態度です。 □歴史学的な視点とその営み  ところが、これは言うほど簡単なことではありません。  なぜならば、それを研究対象とする私達自身もまた「歴史的な存在」だからです。 だからこそ、知らず知らずの内に、自分のなかにある無自覚な観念や考え方が、史料・文献を扱う際に、入り込んできてしまってしまいます。  それをまったくなくするんだ、というのではなく、そこに対して自覚的になる必要こそがあると考えます。パラドックスに陥るような感覚になりますが、「歴史学的な視点をもって、対象を眺める自分も実は歴史的な存在(歴史的制約、社会的制約を受けつつ存在していて、それから離れることはできない)」という事実とも向き合わないといけないということです。(自分の観念や、考え方を抜きに、完全に客観的な歴史や事実が存在する!と主張する人、あるいはそのように歴史を考える人も多くい...

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