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映画「リンダリンダリンダ」2019ー05

塚口サンサン劇場。 高校の文化祭の3日間。 初日にバンドのギタリストが怪我をして、演奏をどうするかというガールズバンド。 いろんな経緯から、韓国人留学生のソンちゃんをボーカルに迎えてブルーハーツのコピーを披露することに。文化祭の準備や、ブースや模擬店の当番等と平行しながら、ライブまでの3日間のストーリー。 恋愛や友情、学校の人間関係など「青春物」の要素もありながら、埋め込まれていた「異文化交流」というテーマが印象的だった。 ボーカルに入るソンちゃんが、当初文化祭で行おうとしていたのは、教師と一緒に韓国文化を紹介する「文化交流展」を実施するような教室。 ハングル文字や食文化などを紹介するポスターを掲示して用意をしているものの、彼女にはあまりいきいきとしたものを感じない。先生の「楽しまなきゃね」という言葉が、「楽しくない」ことの裏返しのように響く。 その準備の途中に、ふとしたことからバンドのボーカルになることに。 しかし、カラオケボックスで一生懸命に日本語の歌を覚え、 バンドメンバーとの夜を徹するような練習。 文化交流展の教室で居眠りする彼女は、 その教室での展示より、ずっと深い交流とつながりをその数日の間につくっているようだった。 文化や民族の境界を超える交流。ともに一つのことをなそうとする時間。 ただ単に「教室」で「文字」や「絵」で知ることでなしえないもの。彼女たちのたった3日間のしかし、必死にそれに懸けたバンド活動が象徴してくれるものがあったように感じた。

おてらのそうじ(2回目 190112)

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おてらのそうじ 第2回 2019年1月12日実施。 参加者:11名 7:00集合。  勤行:重誓偈  柔軟体操と自己紹介 7:30  掃除開始  ・本堂正面引き戸  ・本堂の縁側 8:20頃  終了、朝食(おかゆ)     お餅を焼いたりしてゆるゆると過ごす。 2回目にして参加者10名を超える。 近隣の人に加えて、加島・新大阪からも参加。 早朝からいきいきとみなさんが掃除をしてくださる。 「お寺の掃除を朝からするととても気持ちいい」 「公共の場所を掃除するのはいいですね」 「たのしみにきました」 といろいろな声が。 月例で定期的に開催されていく予定。

1月4日 餅切りの日

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 2019年1月4日 毎年恒例の餅切り。 参加者:主催含めて3名  なかひら、つばささん、きしかわさん。 お正月の三が日に、ご本尊、祖師にお供えしたお餅をお下げして、お餅切りをする。 切ったお餅は、明日の「初法座」(1月5日(土)10:30より、西正寺にて)にお参りいただいたみなさまにお配りをしていますので、ぜひぜひ、お参り下さい。 (写真1:お供えしたお餅のおさがり) 毎年一人で、せこせことお餅を切っているのですが、今年はいろいろとお寺に関わって下さる人もいるので、先日フェイスブックを通じて、呼びかけをしてみた。 当日までに数人リアクションをくださったが、諸事情や都合もあり、最終的に3人が参加。 9:30 短いお勤めをして、お餅を下げる。 9:45頃からお餅切り開始。  開始当初は、僕を入れて2名。  この日のために、新しい餅切りを購入。  2台態勢で、手分けをして、せこせことお餅切り。  負担も実質半分になるので、かかった時間も、負担も昨年までよりも圧倒的に軽かったように思う。 11:00頃には、お餅きりが終わる。12:00頃には、そのお餅をお配りするように、包む作業も終了した。  終わった後は、お餅を、ストーブと、火鉢で焼きながら食べる。 火鉢で、ゆっくりこんがりと焼いたお餅は、見たこと内ほどやさしい焼き色がついていた。  味も、電子レンジで温めたものとも、ストーブで焼いたものとも、まったく違う味わいがあったのが印象的だった。  これは、食べてみないとわかるまい。笑   ゆるゆると、もちを焼きながら食べるのと、某企画のうちあわせもすこし進む。 結局3時過ぎまで、餅に関わりながら過ごした一日。  ←これまで使っていた餅切り。 大型でまだまだ現役。  ←あたらしく購入した餅切り。 コンパクトだけれど、なかなかいい感じ。 餅切り、近所の人で、モチを切るのに必要という方がいらっしゃれば、レンタルしますよ。

2018年の除夜会に際して

 あっという間の一年だったように思います。  正直、まだ一年が終わるという感覚、今が「年末」という感覚さえもありません。  しかし、一年が終わろうとしています。振り返ると、今年もいろいろな事があった一年でした。また、いろいろな方にお世話になり、共に時間を過ごした一年でした。  振り返る中に、感謝や、お詫びや、さまざまな気持ちと一緒にここにいます  来年、元号が変わるということもあって、今年の後半は、特に「平成最後の」ということがよく言われました。そういう意味では、平成最後の年越しになります。  その「平成最後」ということに関して、実は先日西正寺、ちょっと変わった相談が持ち込まれました。それは、「平成の葬儀」つまり、平成のお葬式をやってくれないか?という話でした。  なんだそれは?と思われたかも知れません。    その話をもってきてくれたのは、北海道の曹洞宗のお坊さんでした。彼は、芸術家でもありこのたび出展した作品が、岡本太郎現代芸術賞という賞に入選したというのです。それが、平成の終わりということで、平成の葬儀を提示するというものでした。  当日会場で、その葬儀の様子も動画で流すのに、西正寺で一度葬儀をしてくれないか?という話でした。  最終的に、「アート」として平成の終わりをそのような形で表現するのもアリなのかなということもあって、お引き受けしました。けれども、最初それを聞いたときに感じたのは、違和感でした。  時代の終わりの表現が「葬儀」「葬式」でいいのだろうか?ということでした。そして、そういうことで葬儀を行ってもいいのだろうか、という違和感もありました。  しばらく、その彼とお話をしたのですが、話しているうちに、いくつかの気づきもありました。  私たちは、「時代の葬儀」ということをしないけれど、いろいろな時代や、時間やあるいは状況に、いろいろな仕方で区切りを付けたり、それを見えるように行ったりしているなぁということです。  態勢の終わりに、壁を壊したり、像を壊したり。  あるいは、入学式や卒業式というのも、一つの区切りだったりします。  この除夜会や、鐘を撞き、ゴーンという響きをきくことで、一年の終わりを感じたりする。  あるいは、一日の終わりを、お風呂に入ること、シンクをきれいに磨き上げること、寝酒にウイスキーを飲ま...

「お寺を掃除したい!」

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 今年あったうれしいことの一つ。 地域での活動のなかからつながった若い友人から、「お寺を掃除させてもらえませんか?」という打診をもらったこと。 非常に近所の、元門徒さんのおうちだったところが、若いNPOワーカー等数人で暮らすシェアハウスになった。そこに住んでいるお一人(20代女性)からの提案。  彼女は、小学校の頃の同級生に「お寺のお嬢さん」がいて、彼女の家でもある「お寺」を掃除したあとに、そこでカレーをごちそうになる、というのが経験としてあったそうだ。それで、その思い出もあって、「お寺を掃除したいんです、させてもらえませんか?」という相談をもらった。 こちらとしては、「え?掃除をしてくれるの、そんなこといいの!?」という感じの、願ったり叶ったりの提案。1も2もなく、お引き受け(?)をした。  当日までは、フェイスブックでイベントページ(「おてらのそうじ」 https://www.facebook.com/events/257019921633567/ )も立てて、彼女とは別に以前からお寺の掃除を望んで下さっていた人も加えて、主催者チームを結成した。 果たして当日、12月23日(日)。寝坊してはいかんと緊張しながら朝を迎えた。 大まかなタイムスケジュールは以下の通り。 6:00 準備開始    炊飯用意、開門、本堂点灯等 7:00 集合 (主催含めて参加者7名)    勤行(重誓偈)    体操・柔軟    自己紹介 7:30 掃除開始    1)トイレ (トイレ掃除)    2)側溝 (どぶさらい)    3)本堂外陣 (掃除機・ぞうきんがけ) 8:30 朝食用意・朝食  9:45頃 解散 6:00。作務衣に着替え、開門、本堂に明かりをつける。まだ外は暗い。凛とした空気で、一人ご本尊の前で勤行(お経)。  炊飯器や朝食のための用意、掃除をして頂く場所などの想定をしておく。 7:00集合時間。主催者も含めて7名(も)集まってくださった。 集合したあと、勤行(重誓偈)、柔軟体操、自己紹介。 7:30掃除開始(この時点で30分経っていた。笑)  掃除して欲しい場所として、  ・トイレ  ・側溝  ・本堂の畳 を上げておいた。 まずは、境内の屋外のトイレと、側溝の掃除を...

また変わった話がやってきた~終わりについて考えを及ぼす。

日記のように振り返る。 昨日(2018年12月21日(水))午後に、ジャーマン・スープレックス・エアライン( http://germansuplexairline.com/ )のMさんから連絡。電話に気がつかずに折り返しに連絡すると、Mさんの知人が相談したいことがあるから、今からお寺に行ってよいか?と。  ちょうど、のんびりと過ごしていた時間帯。  ほどなく、Mさんとその知人Kさんのお二人がいらっしゃる。  まあ、Mさんがもってくるということで、普通の相談ではないなと思ってはいた。( 笑)。それで、Kさんの相談の内容は以下のようなことだった。  ・Kさんは、北海道の曹洞宗の僧侶であり、現代アートのアーチスト。  ・来年1月に開催される「岡本太郎 現代芸術賞」TARO賞に入選して、それに出展する。( http://www.taro-okamoto.or.jp/info/taroaward.html )  ・出展するのは、「平成の葬儀」。「平成」のお葬式をするそうだ。   終わりを迎える「平成」の終わりを、「葬儀」という形で表現するという。     その展示でながす動画を撮りたい。  ついては、西正寺で「平成の葬儀をしないか?」というご相談。  聞いた第一印象は、僕には、「平成」の終わりにお葬式をする、ということがいまひとつ正直しっくりこない。平成がおわるから「葬儀」で、果たしていいのだろうか?  たしかに人の人生の終わり、そして終わった命と向き合いを、われわれは葬儀という儀式で行ってきた。でも、時間や、体制、さまざまな終わりもいろいろな「儀式」的な関わりや締めくくりをしてきている。  たとえば、一年の終わりに「除夜の鐘」をつくこと。  あるいは、政治の体制の終わりに「壁をこわす」「権力者の像を引き倒し壊す」ことも。  「お風呂に入る」ことや、「台所のシンクを徹底的に磨く」ことで、一日の終わりとする人もいるかもしれない。あるいは、寝所で本を読んでサイドスタンドの電気をパチンとけす、ということ、あるいは寝る前の一杯のウイスキーということもあるかもしれない。  それなりに、「時」についての区切りをいろんな形でしているという中で、果たして時代や時間の区切りを「葬儀」という形で行うことが適当だろうか?  もしかすると、ある一...

いい会議だった。(ミーツ・ザ・福祉 

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2018年11月10日土曜日、尼崎で開催される「ミーツ・ザ・福祉」というイベント。 もともとは、「市民福祉のつどい」という名前で開催されていたイベント。昨年から実行委員会として関わり、運営に関わらせてもらっている。 週末の開催を控え、ずっとつづけてきた準備も大詰め。昨夜(11/5)も中心的なメンバーが集まっての会議があった。準備物の確認や、準備の行動の確認等あれこれ相談をおこなった。いつも真剣に、しかし楽しい会議になるのだが、昨夜のそれはまたきわだって面白い時間がすごせたように思う。  それは会議の最後の議題、「アンケート」について。予定の時間がきてしまったので、一端クローズして、可能なメンバーだけ残って、延長戦的にそれについて話し合いをした。結局、アンケートの質問項目を考えるというだけで、1時間以上話し合いに費やした。しかし、後に残った感覚は「疲弊」より、楽しさと気づきを得られた充実感だった。  準備してきたこのイベントが参加者になにをもたらしたのか。僕たちがしたことはなんだったのか、アンケートの項目を考えながら、イベントや運営の姿勢があらためて問われる様な時間だった。同時に、その場にいるメンバーの価値観や、イベント、メンバー、参加者に向き合う姿勢も表現され、共有されていっていった時間だったようにも思う。  会議といえば、準備して疲弊して、というような「労働」とか「負担」という内容のものを多く経験してきたが、思えば最近はそうではない会議を経験することが多くできるようになってきた。  綱引きや駆け引きではなく、協働と共感。政治的ではなく、対話を重ねていくような。終わった後は疲労感ではなく、学びや気づき、あるいはその場を経験することで何かを確かに得られたような。payではなくgainのような時間。    会議を構成する要因はいろいろあるけれど、このイベントの会議に関しては、なによりその場のあり方と、そこ時間をともに過ごすメンバーによるものが大きいのだろうとおもっていて、そういう関係性のなかで実行委員会ができていることに恵まれてるなぁと感じた夜でもあった。 繰り返しになりますが、ミーツ・ザ・福祉は11/10です。 みなさんのお越しをお待ちしています!!

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