念仏をたしなむ

とある方から聞いた話が、ずっと胸に残っている。



その方はかなりのお年のお坊さんなのだけれど、とある旅館に泊まったときのこと。



旅館といってもかなり昔のことで、となり間との隔ては、今みたいに壁ではなくてふすまだったらしい。

で、そのお坊さんが、部屋に入ってくつろいでいると、ふすま越しにとなりの部屋から、おばあさんらしい声で「なまんだぶ。なまんだぶ」とお念仏が聞こえてくる。



その声に誘われて、そのお坊さんもお念仏された。

「なまんだぶ なまんだぶ」



そしたら、となりのへやのお念仏が、はたと止んだ・・・



そして、声がした。

「となりの方・・・」



「失礼ですが、お隣の方。  あなたさまもお念仏たしなまれますか?」



お坊さんは答える

「はい。たしなみまする」



そうすると、

「そちらにうかがっても、よろしゅうございますか?」

といわれ、

「どうぞ」

と、いうと、ふすまが開いて、おばあさんの顔があらわれ、

それから、一晩お念仏のことについて語り合ったとのこと。

「お念仏がご縁のありがたい出来事じゃった」とその方はいわれた。





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なぜか、この話はなかなかわすれられない。

お念仏を心底よろこんだ二人のかいごうが、カルチャーショックだったと言うこともある。



いま、この話を思い返して、つくづくと感じるのは



「たしなむ」



という言葉だ。



辞書を引くといくつか意味があがっているが、「お酒をたしなむ」のたしなむと

同じくらいの感覚で意味を取るのがもっともしっくりくる。



お念仏にも「味」と「効能」があると、最近思う。

なにか、「道具」のように、あるいは哲学的な意味が分からなければいけないように考えていたけれど、単純に、やってみればわかる「味」と「効能」がある。



心静かに10ぺんでも「なまんだぶ」と称えてみると、

称える前の自分とはやはりちがう。なにかの食べ物を食べたか、薬でも飲んだかのように。



楽しいときには楽しいときの味がある。

苦しいときには苦しいときの味があり、効能がある。



それに味をしめると、これはもうついついとしたくなってしまうもので。



人にお話をさせていただく立場になると、やはりその前に、

自分で「味見」をせねばという気持ちになり、またその味を思い出す。



「たしなむ」

不思議な響きをもつことばだけれど、その話を思い返すたびに、そんな味わい方もあったと感じる。

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