2015年11月26日木曜日

先日、あるフィールドワークに同行して、稲荷大社へいった。
大学時代にランニングコースでもあった稲荷山を昼から夕方にかけて、ぐるっと一周、登り下り。

フィールドワークは楽しい。
理論ではなく、信仰の現実、混沌の実際を目にする。
「こんなものあるのだ」という、驚きもある。


その中での会話。
日本人のいう「神」と、一神教の「神」って、はやり違いますよね。
日本の「神」を、Godと翻訳するのは、適当ではないんではないか?ということ。


そんなことを思い出して、ネットで検索してみると
日本の神様をgodと翻訳することへの抵抗や問題を記したページもあって・・

http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-024.html

http://park10.wakwak.com/~ebible/bsrch/engbib/god.html


実際のフィールドをうろうろしていると、
そういうことも実感をもって把握したり、考えたりすることもできる。





2015年11月24日火曜日

余白

 いまの職場は、非常に効率がいい。
 ただ、効率がいいだけでなく、要点をまとめて伝えるということに、つねに相手への配慮が働いているようで、スムーズにかつ心地良く仕事が回っていることが多い。

 そんななかで、ときどき、自分が「浮いてしまった」と思ってしまう場面もある。
 ついつい、いらぬことをしてしまうのだ。

 コミュニケーションは、「必要な部分」だけではなく、「不必要な部分」のやりとりに、人間らしさや個性をやりとりできるのだという思いもあって、ついつい余計なことを「よかれ」とおもってしてしまう性のせい。

 逆に、効率よく、必要なことだけをやりとりすることの中にある「配慮」があるから、スムーズにかつ心地よくすすむというのは、考えてみると、仕事をする上では、そちらの方が当然のこと。
 多忙な忙しいビジネスシーンでは、むしろそちらが当然のこと。


 とはいえ、相手がもたらす「余白」を余分なものとも思わない心は忘れないようにしておきたいもの。
 

 


2015年8月16日日曜日

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年4月)

井上理津子『葬送の仕事師たち』(新潮社、2015年)






 本屋で見かけたことをきっかけに、軽く読んでおこうと買った本。
 取材を元に書かれたルポ。ただ、やや「外」からの視点で書かれた印象。

 書かれたモチベーションとしては、葬儀の要不や意義についての議論の中で、

「だが私は、ちょっと待ってよ、と思った。議論以前に、葬送の仕事をする人たちが、どのような思いで、どのような働きをしているのか。私たちは知らなさすぎやしないか、と。」(あとがき、249頁)

と感じたところにあるのだろうと思われる。

 6章構成の中で、「葬儀の専門学校」に通い学ぶ学生たち、葬儀社、納棺・湯灌の業務に携わる人たち、エンバーマー、火葬場の職員さんたち、等に取材し、それらの声と思いが集められている。いずれも、真摯に遺体や遺族に向き合い、使命感や意義をちゃんと見いだしてその仕事に携わっている姿が描かれている。
 熱い思いをもって、葬送業界に関わっている人は多様だ。身近な葬儀で感動を覚えた人、人生の変遷の中で関わった人。それぞれの人生、生活の背景と共にその業務や志か語られている。

 葬儀というものが、どんな人に担われているのか、どんな思いで仕事が為されていたのかを、想像を及ぼすにはいい一冊。

 
 個人的には、評価についてはペンディングしておきたい印象。
 本書の表現の方法は、取材対象が直接立ち上がってくるのではなく、著者の「取材現場」に、読者が直接居合わせている印象。取材対象が語る言葉や、行為に対して、著者の思いやリアクションも含めて描写される。そのためか、取材対象の方の言葉が集められているのだけれど、ところどころに著者のフィルターがかかっているようにも感じる。そういう意味では、どこかしら、著者のこうあって欲しい、こういう人たちであって欲しいという期待も感じられなくもないのかも・・・。
 



追記:
 アマゾンのレビューは今日(2015/08/16)現在、のきなみ高評価だった。


2015年8月11日火曜日

2015/08/11 テンプレート変更

ずっといじってなかったので、久しぶりにテンプレートを変更してみました。

十字架のある教室(8/8-8/9 みんなのサマーセミナー)

みんなのサマーセミナーの会場は、
尼崎市が誇るカトリックの女子校・百合学院(http://yuri-gakuin.ac.jp/

サマーセミナーのウリの一つは、「女子校に入れること」。
スタッフさんたちの「女子校には入れますよ!」推しと、そこにかなりの熱があったことも感じました。笑

会場の様子は、サマーセミナーのフェイスブックでも確認できるのですが、そこでふと目についたのが、教室や至る所に「十字架」(十)があること!

講座のなかには、
 神社の宮司さんや、お寺の住職がする講義もあるのですが、その人たちも十字架の下で、その教えについて語るという、レアな姿が!

 ・十字架の下で仏教を語る僧侶!

 https://www.facebook.com/amasemi/photos/pcb.747817985340839/747817778674193/?type=1&theater

 とか

・十字架の下で神道を語る宮司!
https://www.facebook.com/amasemi/photos/pcb.747382335384404/747382282051076/?type=1&theater

とか。


教室だけでなく、体育館にも!
https://www.facebook.com/amasemi/photos/a.668641296591842.1073741830.658223770966928/747287885393849/?type=1&theater



この十字架があることについて、人それぞれ意見は違うだろうけれど、
個人的には「いいなぁ」と思ってしまったわけです。

 宗教的なシンボリックなものを前にして、学校生活を送る。
 他の学校と変わらない授業をしていても、その象徴するものがあるだけで、それらの営みを全部宗教的な情操が包んでいる空間が出来ているように思えるのです。
 
 もちろん、僕の母校である平安高校や、龍谷大学、あるいはその他の仏教系の大学にも礼拝施設があって、宗教的な空間が設置されてはいるのだけれど、これほどまでに至る所に、宗教的な象徴が配置されているところがどれだけあるだろうか。

 この全体的にどこにいっても「十字架がある」という、宗教的象徴が満ちあふれた空間は、その精神が(そこにいる当人たちが自覚していようがしていまいが)、影響を及ぼし続けている場所がそこにあることを感じずにはいられず、仏教徒だけど、いや仏教徒だからかも知れないけれど、
「あぁ、イエス様の息吹がここにあるのだなぁ」と新鮮な驚きで、その学校内の雰囲気を味わった次第。


8/8-8/9 みんなのサマーセミナー

先日、尼崎では「みんなのサマーセミナー」という行事が開催されました。

僕も予定があえば、必ず参加させて頂いている「あまがさき・ソーシャルドリンクスhttps://www.facebook.com/amagasakisd」が、愛知で行われているサマーセミナーのお話をうかがい、それが元で実際に現地に見学にいき、尼崎でも出来たらいいねと盛り上がり、実際にやってしまったという勢い満載のイベント。

 先日のソーシャルドリンクスvol.l23(http://kokucheese.com/event/index/305419/)で、お話を伺って、その動きを知りました。スタッフ・関係者の楽しそうなこと、みんないきいきとされていて、それだけでいいイベントだなぁと直感しました。

 スタッフだけが盛り上がるのではなく、話を聞いた人もぜひ参加した見たいと思う巻き込まれたい感のあるイベントで、クラウドファンディング・FAAVOhttps://faavo.jp/hyogo/project/600では、当初目標の2倍の額を達成!
(ソーシャルドリンクスで、お知り合いになった方もたくさん関わっていらっしゃるのと、なにより楽しそうな、応援したいイベントなので、些少ですが、私もご協力させてもらいました)


 当日までの動き・当日の様子も、フェイスブックで見ることができます。  


 残念なことに、8月8日(土)は、お寺の仕事と、月一回のNHK文化センターの出講が重なり、足を運ぶことが出来ませんでしたが、2日目の9日(日)は、
朝の朝礼と午後の授業になんとか参加できた次第。


9日(日)
8:40 会場(百合学院)に行く。
受付で、ファンドレイジングの御礼のTシャツと、バッジをもらう。
このバッジを付けていると(支援したので)、会場内から「ありがとう!」と声を掛けてもらえるというシステム。笑 





開会前の様子を見ながら、顔見知りとご挨拶、お話。
朝、こうやってみんなで集まるのっていうのもいいなぁと思う。



9:00開会式

朝の開始はラジオ体操から。
その後、諸注意があって、校歌斉唱。

校歌は、なんとキダ・タロー先生作曲「ああ尼崎市民家族」
市制70周年(来年は100周年なので30年前!)
を記念して作られた歌だそう。でも、尼崎の雰囲気を伝えてくれるよい歌です。
百合学院の生徒さんの合唱隊が歌ってくれました。
動画!「https://www.facebook.com/amasemi/videos/746974525425185/?pnref=story







  
 















その後、授業開始。二日間で171講座!


スケジュールの都合上、朝礼のみ参加して、一旦早退しましたが、
午後から、ある講義を受けました。
それも、とても刺激的でおもしろかったです。


こういう行事には街を変えていく力があるなぁ、人を変えていく力があるなぁと感じた次第。




2015年8月10日月曜日

中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年)

中山順司『お父さんがキモい理由を説明するね―父と娘がガチでトークしました 』(Linda BOOKS!、2014年)





2015/08/10(月)
ふらっと入ったJR尼崎の駅ナカの本屋で見かける。
ぱらぱらとめくって、雰囲気と内容から購入を決定。 ほぼジャケ買い。
もともとはwebの連載から展開した書籍。

父と娘の週末トーク

100万プレビュー以上を記録した有名なコンテンツだったそうだけど、本を見るまで知らなかった。



一気に読了。内容は、とても良かった。いろいろと考えた。


 表紙・タイトルはポップだけれど内容は、「父と娘がガチでトークしました」という表紙に書かれている言葉に嘘はない。父と娘のガチトーク。
 恋愛について、「父がキモい」ことについて、「人生」について、死について、いじめについて、ディープなテーマが親子でしっかりと、本当にしっかりと語り合われています。

 読み終えて、あらためてすごいなぁと感じたのが、タイトル『お父さんがキモい理由を説明するね』の妙。

 お父さんがなぜ「キモい」のかがしっかりと語られて、お父さんが撃沈するわけだけれど、一貫して流れているのは、ちゃんと成立している親子の「対話」。
 父は、自分の経験や知識を語ると同時に、娘に対して投げかけを行い、またなにより娘の考えや思いを受け取って驚きを得ている。娘は、自分の思いや感情をちゃんと言葉にして、13歳の世界と考えを提示して、全力で語っている。

 「お父さんがキモイ理由を説明する」というタイトルに象徴されるように、娘の方がその世界を開陳して、父親に衝撃を与えるという構図は、父親にとっての不可解きわまりなく、受け入れがたい感情が、まさに13歳の中学生の娘のあり方そのものであって、それと向き合ったことで、はじめて「対話」(はもちろんのこと、そもそも思春期の娘とのコミュニケーションそのもの)がなりたっているということを、象徴しているのではないかと感じ入った。

・対話すること
・インタラクティブな学びのあり方
・親子のコミュニケーション
・ディープな問いを深く考えていく面白さ

読む人が、「考えられる」本になっていると思いました。
おススメです。

そして、巻末の成人した娘に宛てられたお父さんの手紙は、ちょっと、うるっと来ます。



あと、つれづれに書くと、

・サオリちゃんはいい子だなぁ。
・賢いし冷静だなぁ。
・家族みんな仲がいいなぁ。

こんな風に語り合える関係がある、というのは、非常にうらやましくあります。




2015年8月6日木曜日

鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』




鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』

2015/8/6(木)
鵜飼秀徳『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社、2015年5月25日刊行)

寺院・住職に対するインタビュー、取材を元にしたルポタージュといった性格の本。

全体で4章構成
 第1章は時代・社会変化、災害などの事象によって、運営・経営の危機に瀕する(瀕しながらも奮闘する)寺院の実状、
 第2章は、時代に適応しようとし、新たな試みをしたりするなどしている僧侶、寺院の姿を、
 第3章は、廃仏毀釈や、農地改革などで劇的な影響を受けた歴史的な背景から寺院の実状に近づこうとし、
 第4章には、各教団がおこなった実態調査の報告が(付録的に)置かれている。

 こういう性格の本を書こうとすると、やはり「事例紹介的」にならざるを得ないのは、寺院寺院で、規模や実状がまったく異なるからだろう。隣同士のお寺でも抱えている問題や、状況はまったく違ったりする。
 そういう意味では、一般化できる問題と、個別的な問題が、併置されるように語られていて、それを見分けることがむずかしい(見分けることというより、分類することがほぼ困難)なのではないだろうか。人によって、「一般的な問題」と思われることと「個別的な事例だな」と思うことの境界があいまいだったりする。 共感するしかないということも、一般化して語る事を許さずに「ルポ」的に、こういう手法で語っていくしかないのかな、といつも思う。

 寺院や宗教が果たすべき役割、求められること、というのも同様で、地域や立場によってそれぞれ考えていることが違うので、これまた一般化できない。
 これはもう、コミュニケーション能力でその場、その地域で発掘していくしかないのではないかと思っている。

 時間を掛けずにざっくりと書くので乱暴になるけれど、こういう個別的な事例を、無理矢理に一般化するのではなくて(する場合は慎重にしつつ)、
読み人個人の課題や思いとすりあわせながら、自分のなかに落とし込んでいくまで、というのがこういう性格の書の向き合い方かな~等と思った次第。十把一絡げにしてはいけない。
 

関連記事
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/matome/15/326116/060400010/?ST=business&P=1

http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/240960.html

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2015061700005.html


2015年8月5日水曜日

小林正弥監修、藤丸智雄編 『本願寺白熱教室』

2015/8/5(水)
小林正弥監修、藤丸智雄編
『本願寺白熱教室』

いまさらながらに、読みました。遅くなりまして、ごめんなさい。
前職の研究所が、法蔵館から出した一冊。

身内を褒める、手前味噌のような感じになるのもアレですが、
それを差し引いても、伝統教団の中ではかなり進んだ議論が公開の場で行われたのではないかと思う。あらためて見直しても刺激的な議論。

僧侶同士であっても、意見の割れる問題が設定される。そこでの意見や判断から、どういう価値がわれわれの中にあるのか、何を優先して行動しようとしているのか、が自覚的になってくる。

頭の中で結論を出すのではなくて、現実の具体的な問題のなかに身を置く。その場で身を引き裂かれるような判断が迫られる中で、「えいっ」と決断をする。そんな中でしか、社会的な実践なんてできようのないのだろう。そんな中でしかちゃんと社会的に意味ある行動なんてできないのだろう。そんな風に思うのだが、どうだろうか。

 現実の社会の中で向き合おうとするならば、かならず突き当たる「ジレンマ」をちゃんと正面から見据えていること。
 「本願寺」という宗教教団(団体・お寺)の名称を冠しながらも、「宗教」と「宗教教団」が抱える「長所」と「短所」(問題)を忌憚なく、遠慮なく書いている。
けっして「布教」(ましてや一般が思われる「洗脳」とか)目的の内容ではなく、ちゃんと「宗教」とはなにか、「公共」とはなにか、「公共の場で宗教がある、ということにどんな意味があるのか、ということについて考えられる内容になっている。




2015年4月13日月曜日

はすの会 案内

自坊・西正寺で開催しています「はすの会」。

次回は今週末・ 4/18土曜日、13:30からです。

テーマは、お釈迦様の苦悩~出家とその理由 です。

関心を持って下さる方がいらっしゃったのと、以前の案内には、時間が書いてなかったので
こちらにも記載しました。

詳細は、こちらにも。
http://seikouzan.blogspot.jp/2015/02/27.html


2015年4月3日金曜日

研修

就任二日目は、終日研修。
新規採用者研修会

朝から、夕刻までぎっしり。

午前
・建学の精神と大学の歴史 / ・ハラスメント問題について / ・教職員組合について
午後
・健康管理センターの取り組み / ・福利厚生 / ・大学の教育方針、計画 / ・研究活動について
夕刻は友人たちとの食事会。

2015年4月2日木曜日

4月1日 大学入学式

4月1日。新しい職場に移りました。
母校でもある、龍谷大学です。

8:45から、辞令交付式。
11:30から、大学の入学式、その後、オリエンテーション。
夕刻まで、研究室で引き継ぎと、新年度初日らしい、ぎっしりの一日でした。


19:00から箕面でバスケットして、いい汗をかいて帰宅。



辞令交付式・大学の入学式で、学歌を歌ったときに、
「あぁ、ここは大学なんだ」と思いました。


儀式(儀礼)によって、所属を意識づけられるというか…。
全体的には、前の職場とおなじ「仏式」によって、式典をしているわけですが、
そこで感じるもの、印象の大きな違いに、少々驚いたわけです。

式に参加して、身体をともなった、意識の変革が起こったというようなことかな?


入学式は、教員用の席もあったのですが、
なんか「助手」っていうポストは、壇上の「先生」よりも、
学生と同じ目線でものごとをみていったほうがいいのかな、というような思いと、
もっというと、「先生扱い」されることの、不慣れな感から、
学生席にすわって参加しました。


入学式は、博士課程以来なので、かれこれ13年ぶり?
多くが10代のこれから学生生活をはじめるという、若い学生の初々しさが、
同じ空間にいながら、遠いもののようにも思えたのは、年を取ったということでしょうか。





2015年3月31日火曜日

最後の出勤

3月31日。
毎年この日は「年度末」ということもあって、少々特別な感じで過ごすのですが、
今年は特に意味ある日なりました。


明日4月1日からは、職場が変わることになりました。
自分にとっては、職員として最後の出勤日なのです。
今の研究所には10年勤めさせてもらいました。思い返せば、いろいろありましたが、本当にいろんなことを勉強させてもらった10年間でした。


まずは、人に感謝。
上司、同僚。先輩、後輩。
入って何も知らない、分からない中で、仕事の仕方を教えてもらいました。
本当に苦しいときには、いつも助けてもらいました。
仕事によっては、頼りない自分の差配、指示についてきてくれました。

なにより、おなじ「研究」をするものとして、
つねに刺激しあえる人たちが集まっていました。

いろいろありましたが、本当に人に恵まれていた期間だったと思います。



やってきたことを振り返ると、自分の幅が大きく広がった10年でもありました。
大学でやってきた思想研究、仏教についての考えが、社会へと広がった10年でもありました。
ちゃんと自分の成果として、研究を目に見える形で蓄積できなかったのは、
自分の怠惰のせいでもありますが、残念で、なさけないことではありますが、
自分のなかでは、大きな蓄積になりました。

「教団」や「宗教者」を理念的なものではなく、
社会的な存在として考えることができました。
政治思想、社会活動、社会学的な視点も研究所の業務として接点を得ていくことで、
自分のなかの「仏教」が、それまでの「思想研究」としての机上だけのものではなく、
現実の中での立ち位置を模索することができるようになったようにも思います。

平たく言うと、そんな政治のこととか、社会の事って、
職場に来るまで深く自分のこととして考えていなかったよね、という青さを知ることになったわけです。
これは、今後、自分がずっとやっていくだろう僧侶という立場を考えても、
また明日から移る職場でできることを考えても、大きな力になっていくだろうと思っています。


もっといろいろと、思うべきこと、書くべき事があるような気がしてなりませんが・・・。

まだ、いまの職場を離れるのだという実感はなく、
それでも今日、辞令をうけとる(はず)です。

「実感」はついてきませんが、「いよいよ最後か(ちゃんとしなきゃ)」というあきらめに近いものが、
こみあげつつあるので、とりあえず、今日は白いシャツを着ようと顔を洗いながら思いつきました。

というわけで、白シャツで出勤しています。
意識した白シャツです。

2015年2月6日金曜日

種付け料と給料と…。

ステイゴールドの死亡ニュースに接して。
種付け料は、600万円。800万円だったこともあるという。

http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/02/06/kiji/K20150206009758830.html

うん。僕の年収を凌駕している。

とりとめもないことをいくつか考えました。


【というわけで立った問いは】

「僕が一年がんばってする仕事よりも、ステイゴールドの種付け(交尾)の方が、「高価」なことについて」


【問いから考えたこと】

(1)せいぜい僕の仕事など、ステイゴールドの種付け以下。

(2)いやいや、それは、競走馬が誕生し、それらが稼ぐ金額に対する「投資」であって、
「労働」の価値とは、一線を画すべき。

(2-1) 「強い馬」に賞金が掛けられ、大きなお金が動いていくことは、社会的に認められている。
 しかし、「馬」にお金をかけるのと、「ゲームのカード」にお金を掛けるのとは、本質的に違わないのではないか?
 極端な話、子どもが熱中するカードゲームのカードにプレミアが付いて「1000万円」という値付けがされてもいいのかどうか?

(2-2)「馬」はやはり、たくさんお金を持っている富裕層の遊びだ。


(3)僕が生存(生活する)のにかかるお金(年収)と、馬の種付けに係るお金は、「同じ価値」を取引しているものとは思えない。
 → これは以前読んだ、『貨幣の思想史』から、教えられた「貨幣」がもたらす問題点。

まとまらないけれど、アレコレ考えたのでのこしておく。






池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書)

池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書)

ふらっと立ち寄った本屋さんで発見。
 昨今の事件を自分なりにも消化したい思いが、ふっとでてきた買った。
 集中して、1泊2日で読了。

 イスラーム国の成り立ちや、特徴、思想、
 それから中東のこれまでの政治情勢がわかりやすくまとめられていた印象。
 
 新聞やニュースを読んで、なんとなくしか触れていなかった言葉に
(まだ漠然としているけれど)意味と、背景を与えられていった感のある読後感。
 ばらばらと放り込まれていた中東情勢が、なんとなくまとまりと流れをもって
自分のなかにつなぎ合わされていったような感覚も。


 「宗教」と「国家」(政治)との関係、
 それから、現実の状況(政治状況・経済状況・生存状況)に対する不満や鬱屈を
回収する機能としての宗教のあり方など、
考えるべきことは多々。

 もうすこし時間をおいて考えてみたいとも・・・。
 




2015年1月24日土曜日

つねに外側にあるものを考える

フェイスブックで紹介されて拝見した、

池口龍法さんの『南部再生』の文章。
http://www.amaken.jp/nambu/49/14.htm

尼崎で育った自分についてもじっくりと振り返えさせられる文章だった。
インスパイアされて、思ったことを少し書きます。



小学校は、僕が2年生の時に創立5周年を迎える新しい学校だった。
校舎もきれい。
暴力や問題は、(もしかしたらあったのかもしれないが、子どもの僕にはほとんど)
目にすることもなく、安定した、穏やかな小学校時代だったと思う。 
自分の性格にその小学校の6年間は大きく寄与しているように思う。



ところが、進学した中学校は、当時は市内で1・2を争う問題のあった学校で、
「荒れた」と表現されるイメージは一通り、そろっていた。

男子トイレには、鏡はなく(すぐに壊されるからと聞いていた)、
個室の扉は破壊されていた。
タバコの吸い殻は廊下やトイレの至る所にあった。

授業のボイコットする生徒もあたりまえにいたし、
3年間のうちに、
先生が怒って授業を辞めて、泣いて出て行ったことも、
同級生が、国語の時間に先生ととっくみあいのケンカを始めたこともあった。
いまとなっては、いい思い出。

授業中に、学校のまわりの道路を、
同級生がバイクにのって、走り回っていたこともった。

誤解のないように書いておくと、僕は、
半年ほど、病気を理由にほぼ自主的に学校へ行かなかった以外は、
いたってまじめな中学生だったと思う。
一方で、バスケ部だったおかげで、荒れた友人もでき、
トラブルや因縁に巻き込まれることも少なかったし、
それになり、のびのびとやっていたように思う。


そういう中学校時代を思い返すと、
教壇や、人前にたって話すときに、そういう場所で育った経験というのが、
自分のなかに影響を与えているのではないかと気がついた。


そういう荒れた友人たちは、当たり前のようにある「前提」を一通り拒否していたし、

その論理は、同年代の僕たちにも共有されていた。

そもそも
「なぜ授業をまじめにうけなければいけないのか」
「学校にいかなければいけないのか」
「先生のいうことを聞かないといけないのか」

稚拙な反発なようだけれど、
知らない間に設定された前提に、全力で反発して、
「簡単には従わないぞ!」という反抗は、
大きくなった僕に、目の前の人と向き合うときに、
「前提自体を疑う者がいるかもしれないぞ」という思いを抱かせてくれているように思う。


当たり前のようなことを「当たり前じゃないか」と頭ごなしにいうのではなく、
「前提が共有されていないことを前提にして話をすることが大事ではないか」
ということは強く意識するようになった。

「その前提で納得する」のではなく、

「その前提を納得できるように語る」
「その前提を共有できるように語る」
ということが、なにかを語り、伝えようとする側に求められる態度なのではないかなと。


いろいろあった中学校だけれど、
「もしも違うところに行っていたら。。。。」なんて夢想することもなく、
面白い中学校時代だったと、振り返られるのは、
荒れていたも楽しい、なっとくできる場所だったんではないかなと、振り返ることができる。



お弁当と豚肉

先日の夜、
コンビニにいると、店員さんに
豚肉が使われているかどうかを確認しながら
お弁当を手にとって眺める外国人の二人組が。

おそらくムスリムの方なんだろうと思った。

イスラム教の人にかぎらず、
食べ物にタブーがあるという立場の人には、
日本は暮らしにくい。
そういう現場に立ち会って、
彼らが立ち去った後、陳列されているお弁当を眺めながら、
あれこれと考えた夜でした。

「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので

今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。  数年前に大阪大学が、大学としてのカ...