羅生門を思い出す

とある番組のとあるシーンを見て連想的に思ったこと。

(公式の会見場で、場違いな、きわめて一俳優の個人的な部分についての質問を、手順も踏まずに俳優に投げかけ、その場にいる人たちを不愉快にしている芸能記者の言動を見たのです)

 ある人たちは、他人のプライベートに踏み込み、あるいはその質問をされた人、追いかけられた人を不愉快にし、また、傷つけることさえもいとわない。
 彼らはもしかすると、その所業を糾弾されたときに、「大衆の興味だ」、「自分は自分の仕事をしているのだ」、「自分はこれで飯をくっているんだ」と反論するのかもしれない。

 彼らの発する自己を正当化する論理を予想してみると、芥川龍之介の『羅生門』を連想してしまった。
 羅生門の上で、老婆に出会い、生きていくためには仕方ないではないかと、悪に踏み込んだあの下人。
 
 彼らは、あの下人と変わらないではないか。



 自分を正当化する論理というものは、どこにいても、どのようにしても、簡単に出してくることができるものだ。その自己正当化の最たるものは、「自分が生きていくためには仕方ないではないか」ということになるだろうか。

 あれ?それを敷衍していくと、自分も下人になってしまうんじゃないか?

 ふと、『羅生門』を思い出したので。 

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