あっという間の一年だったように思います。
正直、まだ一年が終わるという感覚、今が「年末」という感覚さえもありません。
しかし、一年が終わろうとしています。振り返ると、今年もいろいろな事があった一年でした。また、いろいろな方にお世話になり、共に時間を過ごした一年でした。
振り返る中に、感謝や、お詫びや、さまざまな気持ちと一緒にここにいます
来年、元号が変わるということもあって、今年の後半は、特に「平成最後の」ということがよく言われました。そういう意味では、平成最後の年越しになります。
その「平成最後」ということに関して、実は先日西正寺、ちょっと変わった相談が持ち込まれました。それは、「平成の葬儀」つまり、平成のお葬式をやってくれないか?という話でした。
なんだそれは?と思われたかも知れません。
その話をもってきてくれたのは、北海道の曹洞宗のお坊さんでした。彼は、芸術家でもありこのたび出展した作品が、岡本太郎現代芸術賞という賞に入選したというのです。それが、平成の終わりということで、平成の葬儀を提示するというものでした。
当日会場で、その葬儀の様子も動画で流すのに、西正寺で一度葬儀をしてくれないか?という話でした。
最終的に、「アート」として平成の終わりをそのような形で表現するのもアリなのかなということもあって、お引き受けしました。けれども、最初それを聞いたときに感じたのは、違和感でした。
時代の終わりの表現が「葬儀」「葬式」でいいのだろうか?ということでした。そして、そういうことで葬儀を行ってもいいのだろうか、という違和感もありました。
しばらく、その彼とお話をしたのですが、話しているうちに、いくつかの気づきもありました。
私たちは、「時代の葬儀」ということをしないけれど、いろいろな時代や、時間やあるいは状況に、いろいろな仕方で区切りを付けたり、それを見えるように行ったりしているなぁということです。
態勢の終わりに、壁を壊したり、像を壊したり。
あるいは、入学式や卒業式というのも、一つの区切りだったりします。
この除夜会や、鐘を撞き、ゴーンという響きをきくことで、一年の終わりを感じたりする。
あるいは、一日の終わりを、お風呂に入ること、シンクをきれいに磨き上げること、寝酒にウイスキーを飲まないと一日がおわらない、という人もいるかもしれません。
一つ一つの行為は、体の行いでありながら、それを行うことで、「心」を納得させ、あるいは「心」を落ち着かせ、「心」に区切りをつけさせ、そして次の1歩へと進む、そんな風に、あまり意識を向けていない中でも、区切りをつけながら、私たちは生きているのかもしれない、そんなことを思いました。
いま、この除夜会でも、お経をお勤めし、お念仏し、手を合わせるなかで、みなさんそれぞれの心持ちがあったかとおもいます。この除夜会も、お念仏も、私たちにとっては、そういう心の区切りとなってくださっているのかもしれません。
「心」というと、次のような言葉を思い出します。
定水を凝らすといえども、識浪しきりにうごき、
心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。
これは、比叡山での修行に挫折された親鸞聖人の心情を、子孫の存覚上人という方が表現されたものです。心を波一つ立たないような静かな状況にしようとしても、自分の心は常に波立つ。また、心に満月を観じようとしても、妄想の雲がまた動いてその月を覆い隠してしまう。理想の心の状態になれない、という心を表したものです。
いま、心の区切りといいましたが、私たちの心を見つめてみると、心というものは、自分ものでありながら、なかなか自分の思い通りにならないものでもあります。むしろ、心(欲求や憤り等)に、自分の方が振り回されてしまっているような時さえある。いや、私たちはずっと実は、自分の心の方に振り回されながら生きているということさえできるのかもしれません。
こういうお勤めや、除夜の鐘を聞く中で、自分のこころを沈めたり、落ち着けたり、あるいは見つめ直すことが、すこしできるようになるのかもしれません。
一年の最後、区切りの時間、お念仏で過ごしていただきました。
除夜の鐘はありませんが、また、この大きな鐘(大キン)の音にまた耳を傾けながら、この一年のこと、次の一年のこと、そして自身の心に目を向けていただく時間にして頂けたらと思います。
本年はありがとうございました。また明年もよろしくおねがいいたします。
2018年12月31日月曜日
2018年12月25日火曜日
「お寺を掃除したい!」
今年あったうれしいことの一つ。
地域での活動のなかからつながった若い友人から、「お寺を掃除させてもらえませんか?」という打診をもらったこと。
非常に近所の、元門徒さんのおうちだったところが、若いNPOワーカー等数人で暮らすシェアハウスになった。そこに住んでいるお一人(20代女性)からの提案。
彼女は、小学校の頃の同級生に「お寺のお嬢さん」がいて、彼女の家でもある「お寺」を掃除したあとに、そこでカレーをごちそうになる、というのが経験としてあったそうだ。それで、その思い出もあって、「お寺を掃除したいんです、させてもらえませんか?」という相談をもらった。
こちらとしては、「え?掃除をしてくれるの、そんなこといいの!?」という感じの、願ったり叶ったりの提案。1も2もなく、お引き受け(?)をした。
当日までは、フェイスブックでイベントページ(「おてらのそうじ」https://www.facebook.com/events/257019921633567/)も立てて、彼女とは別に以前からお寺の掃除を望んで下さっていた人も加えて、主催者チームを結成した。
果たして当日、12月23日(日)。寝坊してはいかんと緊張しながら朝を迎えた。
大まかなタイムスケジュールは以下の通り。
6:00 準備開始
炊飯用意、開門、本堂点灯等
7:00 集合 (主催含めて参加者7名)
勤行(重誓偈)
体操・柔軟
自己紹介
7:30 掃除開始
1)トイレ (トイレ掃除)
2)側溝 (どぶさらい)
3)本堂外陣 (掃除機・ぞうきんがけ)
8:30 朝食用意・朝食
9:45頃 解散
6:00。作務衣に着替え、開門、本堂に明かりをつける。まだ外は暗い。凛とした空気で、一人ご本尊の前で勤行(お経)。
炊飯器や朝食のための用意、掃除をして頂く場所などの想定をしておく。
7:00集合時間。主催者も含めて7名(も)集まってくださった。
集合したあと、勤行(重誓偈)、柔軟体操、自己紹介。
7:30掃除開始(この時点で30分経っていた。笑)
掃除して欲しい場所として、
・トイレ
・側溝
・本堂の畳
を上げておいた。 まずは、境内の屋外のトイレと、側溝の掃除を手分けして行う。
トイレは日常的に掃除をしなければいけないが、
側溝のドロさらいは、年末の大掃除の一つで、結構な時間を掛けて行うのが、この機会に人手を借りて30分で終わった。これは、本当に助かった。
溝の掃除をしている間に、お墓参りにくる門徒さんも。
若い人達が朝からお寺の掃除をしている姿に驚かれるも大変感謝された。
8:00~8:30 本堂の畳の掃除。
外陣の畳を、掃除機をかけたあと、水拭きとから拭きを雑巾で拭く。
全員参加で30分。拭き掃除をした雑巾をみれば、大変汚れが落ちた手応えがある。
8:30頃 掃除終了。それぞれに片付け・手洗いをして、朝食の用意。
炊きあがっているご飯で、それぞれがもちよった具でおにぎりを。
主催のYさんが、もってきてくれたお味噌汁とで、立派な朝食会に。
9:00すぎに、お参りのために、中座するも、参加者のみなさんは、10時ごろまで、ご飯をたべながらのんびりとすごしてくださった様子。
定期的に開催したい、という声もあり、月一程度で続けていく予定です。
「掃除したい」「やってみたい」という人、「ご飯食べたい」という方のご参加もお待ちしてます。(日程は、その都度フェイスブックでのアップになります。)
2018年12月21日金曜日
また変わった話がやってきた~終わりについて考えを及ぼす。
日記のように振り返る。
昨日(2018年12月21日(水))午後に、ジャーマン・スープレックス・エアライン(http://germansuplexairline.com/)のMさんから連絡。電話に気がつかずに折り返しに連絡すると、Mさんの知人が相談したいことがあるから、今からお寺に行ってよいか?と。
ちょうど、のんびりと過ごしていた時間帯。
ほどなく、Mさんとその知人Kさんのお二人がいらっしゃる。
まあ、Mさんがもってくるということで、普通の相談ではないなと思ってはいた。(
笑)。それで、Kさんの相談の内容は以下のようなことだった。
・Kさんは、北海道の曹洞宗の僧侶であり、現代アートのアーチスト。
・来年1月に開催される「岡本太郎 現代芸術賞」TARO賞に入選して、それに出展する。(http://www.taro-okamoto.or.jp/info/taroaward.html)
・出展するのは、「平成の葬儀」。「平成」のお葬式をするそうだ。
終わりを迎える「平成」の終わりを、「葬儀」という形で表現するという。
その展示でながす動画を撮りたい。
ついては、西正寺で「平成の葬儀をしないか?」というご相談。
聞いた第一印象は、僕には、「平成」の終わりにお葬式をする、ということがいまひとつ正直しっくりこない。平成がおわるから「葬儀」で、果たしていいのだろうか?
たしかに人の人生の終わり、そして終わった命と向き合いを、われわれは葬儀という儀式で行ってきた。でも、時間や、体制、さまざまな終わりもいろいろな「儀式」的な関わりや締めくくりをしてきている。
たとえば、一年の終わりに「除夜の鐘」をつくこと。
あるいは、政治の体制の終わりに「壁をこわす」「権力者の像を引き倒し壊す」ことも。
「お風呂に入る」ことや、「台所のシンクを徹底的に磨く」ことで、一日の終わりとする人もいるかもしれない。あるいは、寝所で本を読んでサイドスタンドの電気をパチンとけす、ということ、あるいは寝る前の一杯のウイスキーということもあるかもしれない。
それなりに、「時」についての区切りをいろんな形でしているという中で、果たして時代や時間の区切りを「葬儀」という形で行うことが適当だろうか?
もしかすると、ある一区切りをつける作業、終わりや、結びを意味づける行為や、儀礼について、面白いテーマ・視座になるのではないか。
そんな話をしながらも、さまざまな作品が並ぶ展覧会で、「平成」の終わりを葬儀という儀式のビジュアルをみせることで表現することは、一つのアートとしてアリなのかもしれない。僕自身が僧侶としてするべきかどうかという問い(上に提示したような疑問)は、ひとまず横においておいて、 Kさんのプロジェクトにできる形で協力をさせてもらうことにした。
というわけで、1月18日金曜の夜19:00から、西正寺でかわったことが行われます。
きまっていることは、
・「平成」という年号・時代の葬儀をやってみるということ
・「終わり」「結び」、「区切りを付ける」という行為や、セレモニー、イニシエーション的なことがら、振る舞いについて、参加者のみなさんと考えてみようということ。
もちこまれた企画に協力しつつ、非日常にも、日常にも、意識的にも、無意識にも行っている、私たちの終わり方や結び方、ものごとのとじ方、そういったあれこれに考えを及ぼす時間をもってみたいと思います。
詳細は、続報をおまちください。
昨日(2018年12月21日(水))午後に、ジャーマン・スープレックス・エアライン(http://germansuplexairline.com/)のMさんから連絡。電話に気がつかずに折り返しに連絡すると、Mさんの知人が相談したいことがあるから、今からお寺に行ってよいか?と。
ちょうど、のんびりと過ごしていた時間帯。
ほどなく、Mさんとその知人Kさんのお二人がいらっしゃる。
まあ、Mさんがもってくるということで、普通の相談ではないなと思ってはいた。(
笑)。それで、Kさんの相談の内容は以下のようなことだった。
・Kさんは、北海道の曹洞宗の僧侶であり、現代アートのアーチスト。
・来年1月に開催される「岡本太郎 現代芸術賞」TARO賞に入選して、それに出展する。(http://www.taro-okamoto.or.jp/info/taroaward.html)
・出展するのは、「平成の葬儀」。「平成」のお葬式をするそうだ。
終わりを迎える「平成」の終わりを、「葬儀」という形で表現するという。
その展示でながす動画を撮りたい。
ついては、西正寺で「平成の葬儀をしないか?」というご相談。
聞いた第一印象は、僕には、「平成」の終わりにお葬式をする、ということがいまひとつ正直しっくりこない。平成がおわるから「葬儀」で、果たしていいのだろうか?
たしかに人の人生の終わり、そして終わった命と向き合いを、われわれは葬儀という儀式で行ってきた。でも、時間や、体制、さまざまな終わりもいろいろな「儀式」的な関わりや締めくくりをしてきている。
たとえば、一年の終わりに「除夜の鐘」をつくこと。
あるいは、政治の体制の終わりに「壁をこわす」「権力者の像を引き倒し壊す」ことも。
「お風呂に入る」ことや、「台所のシンクを徹底的に磨く」ことで、一日の終わりとする人もいるかもしれない。あるいは、寝所で本を読んでサイドスタンドの電気をパチンとけす、ということ、あるいは寝る前の一杯のウイスキーということもあるかもしれない。
それなりに、「時」についての区切りをいろんな形でしているという中で、果たして時代や時間の区切りを「葬儀」という形で行うことが適当だろうか?
もしかすると、ある一区切りをつける作業、終わりや、結びを意味づける行為や、儀礼について、面白いテーマ・視座になるのではないか。
そんな話をしながらも、さまざまな作品が並ぶ展覧会で、「平成」の終わりを葬儀という儀式のビジュアルをみせることで表現することは、一つのアートとしてアリなのかもしれない。僕自身が僧侶としてするべきかどうかという問い(上に提示したような疑問)は、ひとまず横においておいて、 Kさんのプロジェクトにできる形で協力をさせてもらうことにした。
というわけで、1月18日金曜の夜19:00から、西正寺でかわったことが行われます。
きまっていることは、
・「平成」という年号・時代の葬儀をやってみるということ
・「終わり」「結び」、「区切りを付ける」という行為や、セレモニー、イニシエーション的なことがら、振る舞いについて、参加者のみなさんと考えてみようということ。
もちこまれた企画に協力しつつ、非日常にも、日常にも、意識的にも、無意識にも行っている、私たちの終わり方や結び方、ものごとのとじ方、そういったあれこれに考えを及ぼす時間をもってみたいと思います。
詳細は、続報をおまちください。
2018年11月6日火曜日
いい会議だった。(ミーツ・ザ・福祉
2018年11月10日土曜日、尼崎で開催される「ミーツ・ザ・福祉」というイベント。
もともとは、「市民福祉のつどい」という名前で開催されていたイベント。昨年から実行委員会として関わり、運営に関わらせてもらっている。
週末の開催を控え、ずっとつづけてきた準備も大詰め。昨夜(11/5)も中心的なメンバーが集まっての会議があった。準備物の確認や、準備の行動の確認等あれこれ相談をおこなった。いつも真剣に、しかし楽しい会議になるのだが、昨夜のそれはまたきわだって面白い時間がすごせたように思う。
それは会議の最後の議題、「アンケート」について。予定の時間がきてしまったので、一端クローズして、可能なメンバーだけ残って、延長戦的にそれについて話し合いをした。結局、アンケートの質問項目を考えるというだけで、1時間以上話し合いに費やした。しかし、後に残った感覚は「疲弊」より、楽しさと気づきを得られた充実感だった。
準備してきたこのイベントが参加者になにをもたらしたのか。僕たちがしたことはなんだったのか、アンケートの項目を考えながら、イベントや運営の姿勢があらためて問われる様な時間だった。同時に、その場にいるメンバーの価値観や、イベント、メンバー、参加者に向き合う姿勢も表現され、共有されていっていった時間だったようにも思う。
会議といえば、準備して疲弊して、というような「労働」とか「負担」という内容のものを多く経験してきたが、思えば最近はそうではない会議を経験することが多くできるようになってきた。
綱引きや駆け引きではなく、協働と共感。政治的ではなく、対話を重ねていくような。終わった後は疲労感ではなく、学びや気づき、あるいはその場を経験することで何かを確かに得られたような。payではなくgainのような時間。
会議を構成する要因はいろいろあるけれど、このイベントの会議に関しては、なによりその場のあり方と、そこ時間をともに過ごすメンバーによるものが大きいのだろうとおもっていて、そういう関係性のなかで実行委員会ができていることに恵まれてるなぁと感じた夜でもあった。
繰り返しになりますが、ミーツ・ザ・福祉は11/10です。
みなさんのお越しをお待ちしています!!
黒木テック工業株式会社 黒木社長(地域のひと_01)
2018年11月5日(月)よく晴れた午後、
黒木テック工業株式会社さんを訪れました。
http://www.kurokitec.com/
先日の伊丹の「まちなかバル」で、こちらの黒木社長を共通の知人にご紹介いただき、あとから合流された息子さんも一緒に3人で、二軒ほどお店をご一緒させていただきました。その際のお話がとてもたのしく、素敵な会社の雰囲気がとてもつたわってきました。「ぜひ一度、会社にも遊びに来てください」とおっしゃっていただいたお言葉にあまえて、訪問させていただくことに。
こちらでは、
遊園地の観覧車や、乗り物などの遊具をはじめ、さまざまなものを「鉄工所」として
制作されているそうです。
この日は、社長とこちらで働いていらっしゃるお二人の息子さんの3人が
お話とご案内をしてくださいました。
敷地をはいるとすぐに、こんな汽車や、
作業場のなかには、遊園地の観覧車のゴンドラが。
こちらのゴンドラは、40年前に納品されたものが帰ってきたものだそう。
見本のように展示されていました。(写真にうつっているのが黒木社長)
社長さんとお話ししていると
「なんかおもろいことしたいわー」とか、
「たのしいことせんと、おもしろないでしょ」という、
常に枠にとらわれない前向きな言葉をたくさんおっしゃるのが印象的でした。
会社のなかには、その言葉にたがわない、おもしろスペースや、
楽しみがたくさん。
すてきな、倉庫のような、秘密基地のような、ミーティングスペースのような場所や、
ずらっと集められた10台のモンキー。
このうちの1台で、日本一周の旅を計画されているらしい。
(以前にも達成されて2回目の日本一周旅行らしい)
よくみると、どこかでみたようなステッカーも
息子さんお二人のお人柄もとても素敵で、
こんな方たちと、なにかご一緒できたらなぁと思う時間でした。
楽しい会社訪問をさせていただきました。
ありがとうございました!
2018年10月7日日曜日
18/10/06 尼ぱ。
10月6日 その2
レインボーフェスタに立ち寄ったあと、尼崎で行われている「尼ぱ」関連のイベントがあるポイントを数カ所めぐる。
ホームセンターで塗料を入れる缶(3リットル)を調達し、まずは、武庫之荘のハワイアンカフェ・パイナワーフへ。
「尼ぱ」メンバーで調合した青色、「尼ぱブルー」を入手。
パイナワーフでは、ある芸術家の作品の展示とレゲエの演奏が行われていた。
パイナワーフを後にして、次は「尼崎傾奇者集落」へ。
集落の人たちとゆるりとおしゃべりをして過ごす。
この「尼ぱ」は、半年ほど前から、なかなか個性的なメンバーが、たくらみをすすめて準備をしてきたイベント。
しかし、なかなか「説明」することも、ましてや「理解」してもらうことも難しい枠組みと、仕掛けで今回は実施されている。
どこかで、なにかが起こるのではなく、
尼崎のあちこちで、「文化」や「合い言葉」をつくることを目的としているような感じで取り組みがすすんでいるともいえるだろうか。
その一つが、この「尼ぱブルー」。
尼崎の誕生日(市制記念日)を市民として勝手に祝おう、その象徴として、自分たちの「色」を作ろう。そんな気概が込められた「青」。
知っている人しか知らないし、知らない人には、もしかすると理解や、共感すら得られないのかもしれない。しかし、その「理解しがたいこと」「共感しがたいこと」を十分に理解した上で、あえてそのハードルを越えていくことを目標としているような気概がこのたくらみにはあるような気もしている。
とりあえず、いまこの段階(10/7の夜)で、 6日・7日と両日各所で行われた「尼ぱ」は、一段落したのだろうけれど、なかなかおもしろい企みの一歩目が行われたのではないかと思っている。
もちろんいろいろと課題やあれこれはあるけれど。
18/10/06 レインボーフェスタに立ち寄る
2018年10月6日(土)
午前中のお参りを終えた後、午後の予定を確認していると、ちょうどレインボーフェスタ当日であったことを知る。
レインボーフェスタ(http://www.rainbowfesta.org/)とは、「性の多様性を訴えるイベント」あるいは「セクシュアル・マイノリティの存在や権利を訴えるイベント」ともいえるでしょうか。
毎年この時期に開催されるのですが、ほとんど出講や、他の行事、お寺のお仕事と重なっていて、参加できずにいたのだが、今年はなんとかはせ参じる事ができた。
会場に到着すると、さっそく目にはいったのが、龍谷大学のブース。
龍大では、今年は、レインボーフェスタにブース出店して、
学内のアンケートの結果や、作成した冊子の紹介等を行っていました。
中心になっていたのは、宗教部のA課長と、にじりゅうの学生さんたち。
となりのブースには、大阪大学さんがブースをだしていて、
久しぶりにH先生にお目にかかってご挨拶ができる。
会場内をうろうろとしていると、何人かの友人・知人と顔を合わせ挨拶をする。
意外と知人と出くわすことが多い。
帰りがけに
R大学のM先生が学生さんたちと一緒にいらっしゃるところに出くわし、ご挨拶すると、
思っても見ないほど光栄なご紹介をいただけた。「M先生とR大の学生さんの活動やとりくみをエンパワーしている」云々という。本人にその自覚はないが、結果としてそのようなことになっていたとするのならば、とてもうれしい。
初めてレインボーフェスタに参加したわけだけれど、実際に足を運んで気がつくこと、感じることはやはりあるものだった。
一つは、「フェス」が、当事者や、テーマに関心のある人に足を運ばせ、コミュニティやネットワークを作る大きな力となっていること。実際に、これまでの緩やかなつながりが、再会や紹介を通じてまたひとつ強められたような気がした。
もう一つは、イベント一般がもつテーマ。
今回参加して、フェス全体がある種の「内輪感」というものに、まとわれているようにも感じられた。ある意味イベントの性質上、それは当然のことかもしれない。「去年もいましたよね?」「今年は・・・」という会話をよく耳にしたが、それはそれだけ継続的に関わり、その中で関係性が作り続けられているということでもあるだろう。ある意味で自分たちの場を、自分たちの力で作り担保しているからこそ、そのような場や、関係性が作り上げられてくるのだろうと思われた。
しかし、一方で、そうであるからこそ参加者が「異質な他者」に出あう機会は、もしかすると、そう多くはなかったのかもしれない。そういう、異質な他者が多くくる必要があるのかどうかは、会の主催者や、作り手の思いに委ねられるものであるとおもう。一参加者がどうこういうスジの話ではない。
しかし、自分のテーマと関連させながら、「ここにいない人たちとどうつながるか、ここにいないにもこの場に関わってもらうためにはどうしたらいいのだろうか」という行事自体を拡がるためには?というイメージを膨らませながら、しかし、それと同時にもう一方で「そもそもそれ(外部とつながること)が必ずしも必要なことなのだろうか?」(もしかしたら内輪で完結すること自体に意味があるし、それでもいいのではないか)等、あれこれ考えながら帰途についた。
自分としては、「イベント自体がある種の関係者の内輪感をもって行われる意味」を考えてみないといけないのではないかと思った。
午前中のお参りを終えた後、午後の予定を確認していると、ちょうどレインボーフェスタ当日であったことを知る。
レインボーフェスタ(http://www.rainbowfesta.org/)とは、「性の多様性を訴えるイベント」あるいは「セクシュアル・マイノリティの存在や権利を訴えるイベント」ともいえるでしょうか。
毎年この時期に開催されるのですが、ほとんど出講や、他の行事、お寺のお仕事と重なっていて、参加できずにいたのだが、今年はなんとかはせ参じる事ができた。
会場に到着すると、さっそく目にはいったのが、龍谷大学のブース。
龍大では、今年は、レインボーフェスタにブース出店して、
学内のアンケートの結果や、作成した冊子の紹介等を行っていました。
中心になっていたのは、宗教部のA課長と、にじりゅうの学生さんたち。
久しぶりにH先生にお目にかかってご挨拶ができる。
会場内をうろうろとしていると、何人かの友人・知人と顔を合わせ挨拶をする。
意外と知人と出くわすことが多い。
帰りがけに
R大学のM先生が学生さんたちと一緒にいらっしゃるところに出くわし、ご挨拶すると、
思っても見ないほど光栄なご紹介をいただけた。「M先生とR大の学生さんの活動やとりくみをエンパワーしている」云々という。本人にその自覚はないが、結果としてそのようなことになっていたとするのならば、とてもうれしい。
初めてレインボーフェスタに参加したわけだけれど、実際に足を運んで気がつくこと、感じることはやはりあるものだった。
一つは、「フェス」が、当事者や、テーマに関心のある人に足を運ばせ、コミュニティやネットワークを作る大きな力となっていること。実際に、これまでの緩やかなつながりが、再会や紹介を通じてまたひとつ強められたような気がした。
もう一つは、イベント一般がもつテーマ。
今回参加して、フェス全体がある種の「内輪感」というものに、まとわれているようにも感じられた。ある意味イベントの性質上、それは当然のことかもしれない。「去年もいましたよね?」「今年は・・・」という会話をよく耳にしたが、それはそれだけ継続的に関わり、その中で関係性が作り続けられているということでもあるだろう。ある意味で自分たちの場を、自分たちの力で作り担保しているからこそ、そのような場や、関係性が作り上げられてくるのだろうと思われた。
しかし、一方で、そうであるからこそ参加者が「異質な他者」に出あう機会は、もしかすると、そう多くはなかったのかもしれない。そういう、異質な他者が多くくる必要があるのかどうかは、会の主催者や、作り手の思いに委ねられるものであるとおもう。一参加者がどうこういうスジの話ではない。
しかし、自分のテーマと関連させながら、「ここにいない人たちとどうつながるか、ここにいないにもこの場に関わってもらうためにはどうしたらいいのだろうか」という行事自体を拡がるためには?というイメージを膨らませながら、しかし、それと同時にもう一方で「そもそもそれ(外部とつながること)が必ずしも必要なことなのだろうか?」(もしかしたら内輪で完結すること自体に意味があるし、それでもいいのではないか)等、あれこれ考えながら帰途についた。
自分としては、「イベント自体がある種の関係者の内輪感をもって行われる意味」を考えてみないといけないのではないかと思った。
2018年9月30日日曜日
「SDGs―持続可能な開発目標―から考える、今とこれから」(『築地新報』2018年9月号)
ご依頼を頂きまして、力不足も重々承知しながら、
「SDGs―持続可能な開発目標―から考える、今とこれから」(『築地新報』2018年9月号)
という原稿を書かせて頂きました。
上記のように、築地本願寺の刊行物『築地新報』の2018年9月号の特集として掲載されています。しかしながら、そういった専門誌でもないので、とてもとても基本的なところと、西正寺でのテラハの取り組みについて書かせて頂いたようなことです。
ご協力いただいたみなさまには、この場をかりて厚く御礼申しあげます。また、こちらへの掲載については、執筆時に編集部からご許可を頂きました。ありがとうございます。
この原稿のなかでは、100年後、1000年後に想像を及ぼしてみましょうというようなことを書きました。しかし、つねづね「想像力の外側に対する想像力」というようなことを口にしていますので、本音では、どこまで想像を広げながらも、常にその想像の及ばないことがら(人・もの・できごと)があるということも大事だと思っています。
今回の原稿では、そこまで言及していないのですが、そのようなことも考えていまして、それもふくめて、ご意見・ご指摘・ご教示をいただけたらうれしいなぁとおもっております。
「SDGs―持続可能な開発目標―から考える、今とこれから」(『築地新報』2018年9月号)
という原稿を書かせて頂きました。
上記のように、築地本願寺の刊行物『築地新報』の2018年9月号の特集として掲載されています。しかしながら、そういった専門誌でもないので、とてもとても基本的なところと、西正寺でのテラハの取り組みについて書かせて頂いたようなことです。
ご協力いただいたみなさまには、この場をかりて厚く御礼申しあげます。また、こちらへの掲載については、執筆時に編集部からご許可を頂きました。ありがとうございます。
この原稿のなかでは、100年後、1000年後に想像を及ぼしてみましょうというようなことを書きました。しかし、つねづね「想像力の外側に対する想像力」というようなことを口にしていますので、本音では、どこまで想像を広げながらも、常にその想像の及ばないことがら(人・もの・できごと)があるということも大事だと思っています。
今回の原稿では、そこまで言及していないのですが、そのようなことも考えていまして、それもふくめて、ご意見・ご指摘・ご教示をいただけたらうれしいなぁとおもっております。
2018年9月26日水曜日
『茉莉花』113号、2018秋号(法話・わろてら)
『茉莉花』113号、2018秋号 に「法話」ということで、原稿を書かせて頂きました。
NHK文化センターの受講生の方に聞かせていただいたお話から、
私としては大変感銘をうけたことを取り上げさせて頂きました。
あと、まったくの奇遇なのですが、
同号には「わろてら」さんの記事も特集されていました。
こちらも、「テラハ。」でのつながりをきっかけにはじまったということで、
大変うれしくおもっています。
2018年9月25日火曜日
【梵音具】出雲市 妙壽寺さま(浄土真宗本願寺派) (1)梵鐘
出雲市平田妙寿寺様 (2018年9月21日見学)
・梵鐘(昭和二十二年十月、鋳物師 高松藤塚町 多田文之助)
門を入ると、すぐに目に入る所に鐘楼がある。
しっかりとした梵鐘。またじっくり見ると、とても丁寧に作り込まれている印象を受ける。池の間には一区から四区まで、陰刻で寄進者名が彫り込まれている。丁寧に文字がきざまれていて、その人の多さとともに、鐘に込められた想いが現れているようだ。(四区と一区の間の縦帯にも寄進者名がある)
印象深いのは、「乳の間と池の間」の間、また「池の間と草の間」の間に、渦巻き模様の装飾があること。繊細な線で、これもまた丁寧に作り込まれた印象を醸し出しているようにおもう。
草の間には、「龍」。これも莊嚴な印象。
【記録】
竜頭:獣頭 (撞き座と平行)
乳:宝珠 108(25×4、+8)
池の間:1~4区に寄進者名多数
4区末尾に、年記・鋳物師
陽鋳:
昭和二十二年十月
鋳造
鋳物師 高松藤塚町
多田文之助
縦帯: 4-1区 陰刻:寄進者名
1-2区 陽鋳:「南无阿弥陀佛(蓮台)」
2-3区 陰刻: 慈光普照 無量佛土
正覚大音 響流十方
3-4区 陽鋳: 雲州平田
無量山 妙壽寺 什寶(蓮台)
・梵鐘(昭和二十二年十月、鋳物師 高松藤塚町 多田文之助)
門を入ると、すぐに目に入る所に鐘楼がある。
しっかりとした梵鐘。またじっくり見ると、とても丁寧に作り込まれている印象を受ける。池の間には一区から四区まで、陰刻で寄進者名が彫り込まれている。丁寧に文字がきざまれていて、その人の多さとともに、鐘に込められた想いが現れているようだ。(四区と一区の間の縦帯にも寄進者名がある)
印象深いのは、「乳の間と池の間」の間、また「池の間と草の間」の間に、渦巻き模様の装飾があること。繊細な線で、これもまた丁寧に作り込まれた印象を醸し出しているようにおもう。
草の間には、「龍」。これも莊嚴な印象。
【記録】
竜頭:獣頭 (撞き座と平行)
乳:宝珠 108(25×4、+8)
池の間:1~4区に寄進者名多数
4区末尾に、年記・鋳物師
陽鋳:
昭和二十二年十月
鋳造
鋳物師 高松藤塚町
多田文之助
縦帯: 4-1区 陰刻:寄進者名
1-2区 陽鋳:「南无阿弥陀佛(蓮台)」
2-3区 陰刻: 慈光普照 無量佛土
正覚大音 響流十方
3-4区 陽鋳: 雲州平田
無量山 妙壽寺 什寶(蓮台)
【梵音具】出雲市 妙壽寺さま(浄土真宗本願寺派) (2)喚鐘
2018年9月14日金曜日
180912 普通を語ろう(仮) 2回目
9月4日に開催予定だったこの会。「普通を語ろう」(仮)の2回目ですが、ちょうど台風21号の直撃と重なって、1週間ほど延期し、この日 9月12日の開催となった。
1週間前にリスケジュールとなったにも関わらず、当日は前回を超える14名(主催者2名を含む)の「われこそは普通」という思いや、そうではない思いを抱える参加者があつまった。
年齢や性別、地域、そして信仰もある程度の多様性を含んだメンバーになっていたのが面白かった。
予定していたより多くの人があつまったため、4人組×3グループになって、それぞれで「普通」について思うところを語り合う。
・時代や文化のコンテクストで揺れ動く「普通」
・子どもに期待する「普通」
・過去の「普通」の水準が、今では異なる水準へと変化している例
・ちょうど先週の台風という災害によって、「普通」にあったものが、「当たり前ではない」という事実に気づかされたこと
・「普通だよね」という批判、「もっと普通にして」という要求。
今回も様々な角度から、話題が提示され、それぞれの思いや感情が乗せられた経験も含めて語りが出てきているようだった。
グループでの話題をシェアしたあとは、(すこし休憩をはさんだ)全体での話し合いの時間。
・抑圧や、威圧、ある種の暴力性を持った「普通」と、それにどう対峙するか?(あらがうか、自覚的になるか)という問題
・異なる「普通」(これは価値とか、文化とか、個性とも癒えるかも知れない)の対立や、摩擦が生じる際に、どのように向き合うか、という問題。
(これは、すりあわせや、交流の問題といえるかもしれない)
両者は、ある面では、よく似ているように思う。前者は、この会でもよく取り上げられ問題になる点で、抵抗を感じるが、時としてそれが「文化」や「歴史」によって培われた「マナー」や、「価値観」の伝達の場面でも起こりうるのではないかというような指摘でもあったように思う。
とするならば、「普通」として語られ、提示される価値の中には、「普通のこと」「普通の感覚(常識)」として、伝達され、受け継がれるものもあるのではないか?
しかし、一方でそれとて絶対的なことではなく、歴史的に変化したり、時代が変わる中で通用しなくなり、捨てられるべきこと(維持できなくなること)もありえるかもしれない。
なにが抵抗すべき事で、なにが受け継がれるべき事なのだろう。
そのなかで、今回の話し合いでは、「時間をかけたコミュニケーション」に、解決や方法を求める案が一定程度支持を得ていたように思う。
異なる価値(普通)は、一方から、抑圧的に押しつけられるものではなく、時間をかけた、丁寧なコミュニケーションによって「納得」や、「理解」をともなって、標準化されていくものではないか。「他者の普通」は断絶の向こうにあり、否応なくやってくるものではなく、異なる普通のすりあわせという事態も生じるのではないか?
そんな「コミュニケーション」の可能性に、今回の話は、希望を見いだしていたように思えた。
そんな風に勝手に、それっぽいまとめと、個人的な納得に到達することができたけれど、実際の会は、さまざまに語り合って、時間が来たので、感想を述べ合って終わり、というありがちな「普通」の結び方であったこともちゃんと記しておこうと思う。
さて、最後に、主催の一人としての所感だけれど、今回は、会の終わりには、心の中に「反省」と「戸惑い」があった。
反省は、話題の方向性や共通の関心がなかなか見出せず、議論を「方向付け」できずに、ただただ眺めてしまっていたということ。「前回(1回目)」の経験があるため、同じように「普通」の用例分析をして、明確化をめざしても、それがパターン化してしまうなぁと、実は思っていたりもした。
(以下が戸惑いでもあるのだが)
ただ、一方でそれがある面では、場に出た関心を「切り捨てる」ということは少なく、「普通」の多様性が立ちあがってきていたようにも思う。参加者の反応は、悪くなかったというところもまた、僕としては戸惑いを感じてもいる。
なにが正解なのか、なにがゴールなのか、見いださないままただただ、普通について語ったというのはなかなか得がたい時間ではあったと思うが、同時に「再現」も「評価」 も困難といったものであることが、感じられもした会だった。
2018年9月7日金曜日
台風21号と被害
9月4日。台風21号。
いまだかつて経験したことのない台風がやってきた。
14時頃におそらく風の強さのピークがきたのだろう。
(後で原因が瓦だったと分かったのだが)強風が本堂の瓦を吹き飛ばし、玄関のガラスと二階の木製の雨戸とガラスを突き破って入ってきた。
いまだかつて経験したことのない台風がやってきた。
14時頃におそらく風の強さのピークがきたのだろう。
(後で原因が瓦だったと分かったのだが)強風が本堂の瓦を吹き飛ばし、玄関のガラスと二階の木製の雨戸とガラスを突き破って入ってきた。
ちょうど同じくらいに停電も発生。
電気はそこから22時間ほど、ほぼ丸1日、止まった状態になった。ちょうどその日の朝から、いつも持ち歩いているノートPCレッツノートが故障し、うんともすんとも言わない状態に。普段ならば、バッテリーからスマホに充電することもできるところが、それもかなわない。当たり前に来ている電気がなくなったとき、どれほど不便になるのかということを改めて感じる。
台風は夕刻には去り、一段落したが停電のため、ろうそくであかりをとりながら、何とかすごす。することもないので、通電を寝ながらまったが、結局あさまで、電気は来なかった。「災害」「被災」の状況を認めたくないような、しかしすでにそこに置かれているような気持ちで、夜を過ごした。
2018年9月2日日曜日
「お寺のために使われる」(カリー寺 オープニングトークから)
もう一月以上たってしまったカリー寺。
カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。
カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。
そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。
(そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しばしば、次のようにいわれる。
「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。
しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)
もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。
お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。
現に、今のお寺も、お寺の行事に「参加せねば」と関わって下さったり、本堂や、お墓の掃除に協力的に参加して下さる門徒(檀家)さんたちによって維持されている。
そう考えると、住職をはじめとする僧侶も、「お寺をどう使おうか」という「お寺の使い方」ではなく、「本来的なお寺のあり方にするために、自分がなにをすべきか」という、自らの「使われ方」、あるいは自分自身の「使い方」を考えるべきではないかとおもう。使う主体と使われる主体が逆転するようなあり方が、ある種の信仰の場であるお寺と自身の関係性として、あるいは自身と対象のあり方として立ちあがってくるのではないかと思われた。
そこには、自分の願いや希望をいかにして(金銭等を用いた)等価交換によって得ていくかという経済や、消費、サービスのあり方とは一線を画す考え方を提示する場もたちあがってくるようにおもわれる。
自分たちの願いを基準にしてものとむきあうのではなく、逆にその「場」やそこにあるものを成り立たせている(込められた)願いや思いをいかに読み解いていくか、そのうえで自身にもとめられる振る舞いを考えていく、というアプローチが求められているようにも思うのであるが、どうだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ もちろん、上記の考えにもまた問題が含まれることもあるとおもっている。
宗教的なことがらに対して、「自身を使うべき」という文脈になると、そこには主体性の剥奪や、盲目的な信仰、ネガティブな意味での宗教が孕んでいる問題も充分に考えなければいけないことがらのように思っている。
そのあたりを含めて、またじっくりと考えてみたい問題でもある。
カリー寺では、本堂でトークやパフォーマンスをプログラムしているのだが、オープニングトークとして、企画・主催の二人でカリー寺について話しをした。
カリー寺が始まった経緯や、地域やお寺に対する思いや考え、あるいはお寺と地域の関係、お寺の可能性について話が及んだ。
そのなか、「お寺の使い方」や「お寺のもつ可能性」について話題にあがったときに、ふっと自分の意見を以下のように述べていた。漠然と考えていたことを、かなり明確にできたような思いがしているので、あらためて記しておきたいと思う。
(そのとき発した言葉とは、異なっていると思うが、内容はおおむね以下のようなことを述べたつもりである)
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しばしば、次のようにいわれる。
「お寺の使い方」、「お寺はもっと社会に役立つことができるはずである」「お寺の使い方の可能性はもっとあるはずである」と。たしかに、お寺がもつ社会的責任や、社会的な役割、社会的な意味を考えたときに、寺院はもっといろいろな可能性があり、もっといろいろな使われ方、開かれ方があってよいはずである。
しかし、一方で「お寺を使う」という言葉の中に含まれてしまいがちなニュアンスの中にあるものに、なにか注意すべきものがあるように思うのである。違和感を覚えるのである。(もちろん、その言葉自体がすべて否定されるべきとはおもってはいない。)
もうすこし踏み込んで言えば、(僧侶を含めた、誰か個人の思いや願いを叶えるために)「お寺を使う」ということであれば、(あるいは、そのような意味が含まれていることに)違和感を感じるのである。
お寺はどのように維持され、ここにあるのだろうか。そう考えたときに、お寺を支えてきてくださった檀家さんの思い、あるいはこれまでお寺を支えてきたであろう人たちの思いがあって今のお寺があるのではないだろうか。お寺は、ある面で「お寺のために」という思いで、人が関わり、人が力を合わせて維持され、運営されてきたという一面もあるのではなかろうか。「お寺を使う」のではなく、お寺を支えるために「自分たちの力を使う」人たちの力や思いによって支えられてきたという見方がたちあがってくるようにおもう。
現に、今のお寺も、お寺の行事に「参加せねば」と関わって下さったり、本堂や、お墓の掃除に協力的に参加して下さる門徒(檀家)さんたちによって維持されている。
そう考えると、住職をはじめとする僧侶も、「お寺をどう使おうか」という「お寺の使い方」ではなく、「本来的なお寺のあり方にするために、自分がなにをすべきか」という、自らの「使われ方」、あるいは自分自身の「使い方」を考えるべきではないかとおもう。使う主体と使われる主体が逆転するようなあり方が、ある種の信仰の場であるお寺と自身の関係性として、あるいは自身と対象のあり方として立ちあがってくるのではないかと思われた。
そこには、自分の願いや希望をいかにして(金銭等を用いた)等価交換によって得ていくかという経済や、消費、サービスのあり方とは一線を画す考え方を提示する場もたちあがってくるようにおもわれる。
自分たちの願いを基準にしてものとむきあうのではなく、逆にその「場」やそこにあるものを成り立たせている(込められた)願いや思いをいかに読み解いていくか、そのうえで自身にもとめられる振る舞いを考えていく、というアプローチが求められているようにも思うのであるが、どうだろうか。
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※ もちろん、上記の考えにもまた問題が含まれることもあるとおもっている。
宗教的なことがらに対して、「自身を使うべき」という文脈になると、そこには主体性の剥奪や、盲目的な信仰、ネガティブな意味での宗教が孕んでいる問題も充分に考えなければいけないことがらのように思っている。
そのあたりを含めて、またじっくりと考えてみたい問題でもある。
2018年8月9日木曜日
カリー寺 2018年 (開催御礼)
2018年7月29日、西正寺で第3回目のカリー寺を開催しました。
当日は、異例の進路を辿った台風12号の影響が心配され、朝まで開催可否の判断ができなける状況の中でした。おかげさまで夜半に台風は過ぎ去り、朝には晴れ間がのぞく天候となり、予定通りの時刻に開催することができました。
当日は、約600名の方にお越しいただきました。
カレーは盛況で、14時頃には完売しました。売り切れで食べていただけなかった方には、もうしわけありません。また、行き届かないところもあったかとおもいます。しかし、みなさんのご配慮や助け合いをいただき、大きな事故などなく無事に楽しい一日をすごさせていただけました。ありがとうございました。
例年に引き続き、境内ではカレーを楽しみながら、本堂でのトーク、パフォーマンスで異文化・文化に触れる機会を持ちました。また、今年は、第二会場を設けたことに加えて、地域の商店・施設との協働してイベントを実施しました。カリー寺をきっかけに、地域に足を運んで、魅力に触れていただけるきっかけになったのではないかとも思います。
今年のカリー寺は、これまで2回の開催を踏まえて、いくつか大きな展開がありました。
1)地域への展開。
・地域のお店、施設とのコラボイベントの展開
・第2会場の設置。
・地域へののぼりの設置
2)カリー寺の企画、準備態勢
・ボランティアの募集と、4月から打ち合わせを数回行い、スタッフ独自の企画や、準備を例年以上に行いました。
3)全国各地への展開
・カリー寺のネットワークと、各地の寺院による「カリー寺」の開催。
カリー寺は特別な雰囲気を西正寺にもたらしてくれます。
さまざまな人の手を借りイベントが成り立つことはもちろん、門をくぐってくださった方同士が不思議な連帯感や、思いやりをもってイベントに関わって下さっている感じがします。
カリー寺は、「友だちの家のカレーパーティに来たような雰囲気で楽しんでください。」と言っています。
友人の家のパーティなので、参加者も純粋な「お客さん」ではなく、一緒にその場を作る役割を担う一人としての関わりがそこにあるように思います。
スタッフは開催までの準備をし、さまざまな責任を負ってそこにいますが、同時に一参加者として、楽しむこと、楽しみを見いだすこともこの「パーティ」の魅力になっていると感じています。
そういったそれぞれが責任をもちながら、その立場が固定のものではなくあいまいに解け合って、支え合い、つながりあい、一緒に物事や、場や、空気や、関係性さえも作られるような時間が、あの一日にはおこっていたように思います。
ひとまず、無事に開催させていただけたことに感謝しています。ご参加いただいたみなさん、関わって下さったみなさん、ありがとうございました。
このつながりがまた次のなにかにつながっていくような予感もしています。これからの展開、関わりにもまた関心をむけていただけたら幸いです。
また、当日の様子や状況について、すこしずつアップしていけたらとおもっています。
よろしくおねがいします。
当日は、異例の進路を辿った台風12号の影響が心配され、朝まで開催可否の判断ができなける状況の中でした。おかげさまで夜半に台風は過ぎ去り、朝には晴れ間がのぞく天候となり、予定通りの時刻に開催することができました。
当日は、約600名の方にお越しいただきました。
カレーは盛況で、14時頃には完売しました。売り切れで食べていただけなかった方には、もうしわけありません。また、行き届かないところもあったかとおもいます。しかし、みなさんのご配慮や助け合いをいただき、大きな事故などなく無事に楽しい一日をすごさせていただけました。ありがとうございました。
例年に引き続き、境内ではカレーを楽しみながら、本堂でのトーク、パフォーマンスで異文化・文化に触れる機会を持ちました。また、今年は、第二会場を設けたことに加えて、地域の商店・施設との協働してイベントを実施しました。カリー寺をきっかけに、地域に足を運んで、魅力に触れていただけるきっかけになったのではないかとも思います。
今年のカリー寺は、これまで2回の開催を踏まえて、いくつか大きな展開がありました。
1)地域への展開。
・地域のお店、施設とのコラボイベントの展開
・第2会場の設置。
・地域へののぼりの設置
2)カリー寺の企画、準備態勢
・ボランティアの募集と、4月から打ち合わせを数回行い、スタッフ独自の企画や、準備を例年以上に行いました。
3)全国各地への展開
・カリー寺のネットワークと、各地の寺院による「カリー寺」の開催。
カリー寺は特別な雰囲気を西正寺にもたらしてくれます。
さまざまな人の手を借りイベントが成り立つことはもちろん、門をくぐってくださった方同士が不思議な連帯感や、思いやりをもってイベントに関わって下さっている感じがします。
カリー寺は、「友だちの家のカレーパーティに来たような雰囲気で楽しんでください。」と言っています。
友人の家のパーティなので、参加者も純粋な「お客さん」ではなく、一緒にその場を作る役割を担う一人としての関わりがそこにあるように思います。
スタッフは開催までの準備をし、さまざまな責任を負ってそこにいますが、同時に一参加者として、楽しむこと、楽しみを見いだすこともこの「パーティ」の魅力になっていると感じています。
そういったそれぞれが責任をもちながら、その立場が固定のものではなくあいまいに解け合って、支え合い、つながりあい、一緒に物事や、場や、空気や、関係性さえも作られるような時間が、あの一日にはおこっていたように思います。
ひとまず、無事に開催させていただけたことに感謝しています。ご参加いただいたみなさん、関わって下さったみなさん、ありがとうございました。
このつながりがまた次のなにかにつながっていくような予感もしています。これからの展開、関わりにもまた関心をむけていただけたら幸いです。
また、当日の様子や状況について、すこしずつアップしていけたらとおもっています。
よろしくおねがいします。
2018年8月3日金曜日
(掲載)浄土宗総合研究所編『それぞれのかがやき:LGBTを知る―極楽の蓮と六色の虹』(総研叢書第10集)
先日刊行された、浄土宗総合研究所編『それぞれのかがやき:LGBTを知る―極楽の蓮と六色の虹』(総研叢書第10集)に、大正大学の林田康順先生、浄土宗総合研究所の工藤量導先生と、私・中平が対談させていただいた「仏教・浄土教とLGBT」が掲載されています。
この企画は、浄土宗総合研究所さまが、隔年で刊行されている『総研叢書』の企画として、LGBTをテーマにし、仏教徒としての(あるいは僧侶・仏教徒にも当事者がいるはずとの立場にたって)のLGBTの向き合いやアプローチ、仏教、寺院が抱えている課題に取り組まれたものです。企画段階でお声を書けていただき、2016年6月に開催した「テラからはじまるこれからのハナシ。」の取り組み、それから龍谷大学行われている大学としての取り組み、LGBTに関連する諸課題について、至らないながらもお話をさせていただきました。
テラハ。に参加くださった方の中から、妹尾陽さん、虹色ダイバーシティの橋本竜二さんにもコラムを寄稿いただきました。改めて、テラハでの出来事を思い出すようなこともでありました。ありがとうございました。
折しも、国会議員による「LGBTには生産性がない」「支援が過剰」云々という発言があり、LGBTに限らず、人の価値や、存在の意味自体に向けられた問いが喚起されているような状況でもあります。ちょうどそのような時期の刊行になったこと、仏教者からのしかも、伝統教団の公式な機関からの発信・メッセージとして大変意味深いものだと感じています。
本誌の中では、LGBTの当事者や抱えている困難、それを踏まえて、葬送・仏事の場面、寺院でどのような対応がなされるべきか、LGBT当事者の僧侶がどのようにすればその修行生活をおくることができるのか、それらについて現実的な課題や、可能性を模索されています。率直にいえば、現実的には「これから対応すべき形、できる形」を模索されているのであって、「すでにこう対応されている」という事象は多くはないように感じています。しかし、それでも僧侶が経験した当事者との邂逅や、課題の共有から、今後あるべき姿を模索しようとする姿勢や、(伝統という看板で変革が容易でない態勢や価値観を)変革を求めようとする姿勢、気概は感じていただけるのではないかと思います。
ぜひ、関心のある方(特に僧侶の方には、宗派に関わらず)、手にとっていただけたらと願う一冊です。
浄土真宗の僧侶でありながら、宗派を超えて、浄土宗様のこういった先端的な取り組みにお声を掛けていただき、関わらせていただいたことは、言葉に余る程に大変うれしく光栄なことでした。対談をご一緒させていただいた林田先生、企画運営、さまざまなご準備をいただいた浄土宗総合研究所の工藤量導さん、石田一裕さんには、話し合いや企画の中でさまざまなご教示をいただきました。ご一緒させていただけたこと、大変うれしくおもっています。ありがとうございました。
特に工藤さんとは、研究分野が共に中国浄土教であったことから、20代の頃から学会の部会や懇親会でご一緒させていただくことがありました。そのような関わりから、今回もまたこういう形でご一緒できたことにあらためて感慨深く感じています。
折しも、龍谷大学でも「大学生のためのLGBTQサバイバルブックvol.1 先輩たちのライフストーリーズ」という冊子が刊行されました。
性の多様性、生き方の多様性ということにあらためて関心がむけられ、考え直しがすすんでいます。こちらの冊子もぜひ手にとっていただけたらと思います。
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