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1月, 2007の投稿を表示しています

納骨

 仏事は、長い期間ずっと同じことをやっているように思われがちだけれど、伝統的に見えるものであっても、比較的近年に成立した風習であるということは、よくある。  例えば、納骨。  先日、とあるおうちで「納骨はいつしたらよいか?」ということを聞かれた。  某研究所の仏事に関する電話相談でも、よくある質問のひとつだ。  解答「いつでもいいですよ」「ご家族の都合にあわせて、されればいいですよ」  現実の場面としては、四十九日であったり、一周忌であったり、三回忌であったり、節目でされることが多い。しかし、それとてもかならず、その折に納骨しなければならないというものでもないのだ。  そもそも、納骨の時期を選べるのも、「火葬」して「骨」になっているからだ。  火葬が制度化され、土葬が多かった時期では、亡くなって何日もたたない間に埋葬しなければならなかったのだろう。  大事な人の遺骨であればあるほど、扱いは遺族にゆだねられるべきではないか。  大事な人の骨であるから、大事にすぐさまどこかに納めたいと思われるかもしれない。  大事な人の骨であるから、離れたくなく、家にもっと置いておきたいと思われるかもしれない。  本来、「どうすべきか?」ではなくて、「どうしたいか」を自らで決めるべき問題なのだ。  当然、僧侶として、葬送儀礼に携わるならば、それ其相応の選択肢を提示することも求められるだろうが。

立ち話(聞き側)

昨日の宝塚への道中。阪急電車、途中から乗ってきた女子高生二人の会話。 A「・・・もうすぐ、一周忌なんやねん」 B「なにそれ」 A「おばあちゃんがなくなってから、いろいろあんねん。初七日とか、四十九日とか、百か日とか・・・」 B「なにするん?」 A「お寺行ってな、お経聞いたりするねん。・・・最初のときは悲しかってんけどな、聞いてると結構眠なんねん・・・」 ・・・ 女子高生とはいえ、これはちょっとカルチャーショックだった。 そんな風に思っているのかと。 まぁ、となりでお坊さんがその会話を聞いているとは、夢にも思っていなかっただろうけれど。 眠くなるのはともかく、「お経は聞くもの」だと思っているのかと。 いろいろと、いいたいところはあるけれど、問題としては面白い。 もうちょっと考えてみることにします。

宝塚すみれクラブ 合同稽古

半年に一度の宝塚すみれクラブ(http://www.geocities.jp/aikido_sumire)との合同稽古。 これで5~6回目くらいの参加になる。 初めの頃は指示された技をするだけで精一杯だったけれど、だんだんにクラブによる違いというのに気がつくようになってくる。 四方投げの入り方ひとつとっても、ちがう。 ちがうものにであうことで、はじめて自分のありようも見えてくる。 他者に出会うことで、自己について自覚的になれるのだ。

肩の痛みは、接骨院に行き鍼治療をしてもらうと劇的によくなる。 先週に続いて、一週間ぶりに治療へ。 待ち時間一時間。近くの喫茶店(ドトール)で、本とともに過ごす。 治療時間40分ほど。(院内での待ち時間含む) 回復!! これで、また一週間がんばろう。

本発見

茂木さんの本、見つかりました。 いい加減な片づけをしていたことが原因の模様。 ちゃんと整理しないといけませんね。

自由技

 合気道の稽古。  稽古後、何人かの人に相手をしてもらって、自由技にチャレンジ。  片手取り自由技。  「自由技」という名前の技があるのではなく、例えば「片手取りの自由技」なら、「片手取りの形から自由な技をかける」という意味で自由技。  ただ、同じ技をするのではなく、つぎつぎに、違う技をしかけていかなければいけない。  一級以上の審査の項目になっている。  しかけたい技を決めて、即座に体で実行しないといけないという点が難しい。  「あの技したいんだけど、あれ?どうやるんだっけ」なんて状態になるのは、身に付いてない証拠。  実際にやってみると、自分の技のレパートリーがどんな程度のもんなのかがわかる。  何度も高いけれど、なかなかいい稽古になった。    一つのことを身につけるということは、自分の体にしみこませていく作業。  自由技の稽古は、その確認作業のような稽古か。   体にしみついていないと、とっさにはできない。  

会議

勤めている某研究所で、携わっている事業に関する会議があった。 下っ端の仕事は、事前の資料づくりと、会議中の記録のメモ取り。 いろいろあって紛糾したけれど、出席されている先生方の鋭い指摘に感嘆。 一目しただけで、その裏の事情まで見通す眼力。 問題点を指摘するだけではなく、 組織の体質、運営のあり方を踏まえて、的確な善後策を提示する。 今の自分には、とうていできない視野とアイデア。 子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也、 子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。 『論語』巻第二、里仁第四(岩波文庫『論語』p. 79)

本が見つからない

去年の10月頃に読んだ本が見つからない。 どこにやったのか。 「家の本棚」と、「研究所の本棚」の二元本棚状態だが、これがよくないのかもしれない。本の所蔵スペースがあるというのは、このうえなくありがたい話ではあるが。 探している本は茂木健一郎の『意識とはなにか』。  最近お気に入りのフレーズがあった本なので、もう一度確認したいと思っているのに、どのにあるやら。  仕事に差し障るわけではないけれど、みつからないと落ち着かない。

office2000+α

先日、ネットオークションで落札した「office2000pro.」(アクセス付)が届く。 新品の最新ソフトは高く、どうしようかと思っていたところ、オークションで数バージョン前のものだけれど、比較易く出品されていたので、入札したところ、うまく落札成功。  おまけに、パワーポイントも入っているので、いろいろ試してみることにしよう。

剣を振る

合気道の稽古。今日は武器の稽古。 木剣を振る。型の稽古。  剣を振ると、いくつかの気付きがある。  まずは、「まっすぐ振る」という単純なことが非常にむずかしいということ。それはまるで心を投影しているかのようだ。  まっすぐ振るべく稽古することは、心を磨く作業のようだ。  あと、「しっかりと振る」こと。これは、剣との一体化がいるような感覚か。  ただ振ると、ついつい剣が移動するだけで、鋭い振りにならない。  しっかりと(自分なりに)鋭い振りをするためには、意識を切っ先に置かないといけない。師範は振るのではなく、ふっと、投げるような感覚でといわれる。  切っ先に意識を置いて、投げるような感覚。  意識して振っていると、剣にも神経をいきわたらせるような感覚になる。  そう剣も手の延長で自分の体のような感覚になり、切っ先に意識が置けると(ヘタなりに)いい振りになる。  自分の枠を拡張させるような。    その感覚が、非常に仏教的な感覚であるという気もするのだ。  自我を皮膚の外にも置くかのようなその感覚が、我のとらわれをはなれていく実感とはこのようなことをいうのかもしれないなどと思うのだ。

平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

本の読み方 スロー・リーディングの実践  芥川作家平野啓一郎。スローリーディングを推奨する。  速読、多読を薦める本が多いが、あえてそれらの逆のあり方こそ本当の読書の姿であるという。  個人的には非常に共感できる点が多い。  ただ、さすが芥川賞作家。文章の読み込みが非常に深く鋭い!  眠っている作家の真意や深い意図を掘り起こしていく作業の奥深さを教えられる。  個人的には、斉藤孝の『読書力』のとなりに並べたい一冊。

知について(下)

��上)に書いたことは、書いている内に展開して出てきたことで、当初思っていたものとは、ちょっと違った方向に進んでしまった。  で、もともと考えていたことはというと。  何かを知ったとき(特に先の後者の知)、二種類の感動が併存している。  一つには、自分の世界が広がり、知識が増えたことに対する喜び。一つ階段を上った気分。  もう一つは、世界が広がったことによる、それまでの、自分の世界の狭さを知った感動。それは、かならずしも喜びなどという肯定的なものには限らない。むしろ、「ああ、こんなことも知らなかったなんて・・・」という己の小ささに対する知覚。一つ階段を登りはしたが、その階段は自分の想像よりもさらに上まで続いていたことに対する驚き、果てしなさに対する恐れ。  前者は、知の獲得による賢者への道。  後者は、知の獲得による愚者の自覚への道。  それらは、自分の中で併存している。   故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、   たしかにうけたまはり候ひしうへに  や、「無知の知」といわれることが、知覚ではなく、実感をもっておそってくる。そして、これはまだ、入り口でしかなく、将来、それはどんどんと強くなってくるにちがいない。

知について (上)

 「知らないことを知る」  それは、二つの意味がある。  一つは、よく知らないから学ぼうとする態度、つまりそれを「知りたい」と思って知った場合。もう一つは、まったく視野に入っていなかったことが向こうから飛び込んで来て、そのような世界があるとさえ知らなかったことを知った場合。    後者の方が感動が大きいのではないだろうか。そして、その出遇いはまったくの偶然の産物としかいいようがない。存在すら知りようのないものは、求めようがないのだから。  しかし、その出遇いには、準備がいる。感動とともに新たな世界と出会うためには、必要なものがある。それは、それまで歩んできたその人の歩みだ。思考の歩み・知識の積み重ねの歩み、人生そのものの歩み。  それらがあって、はじめてその新しい世界に踏み出すことができる。  書物との出遇いによる世界もそう、人との出遇いによるめぐりあいもそう、僕にとっては、仏法との出遇いもそう。  そして、それらは固定した不動のものではなく、常に動き、拡張しつつある。  出遇いといっても、それは「自分の世界のひろがり」ともいえるかもしれない。  

回向

今日の勉強会の中で聴いた話。 大乗の思想は、目的とそれにむかう行とが必ずしも一致しない。 たとえば、「お茶断ちをすることによって、ある試験に合格することが可能」という思想を受け入れることができる。 そこには、「お茶断ち」と「試験に合格」することになんら因果関係も、脈絡もない。  お茶断ちをしたことによる功徳を「回向」を媒介にすることによって、試験に合格するためのものに転嫁することができるのだ。  日ごろ当たり前のようにされていることも、実は仏教的な思想に支えられているということか。当たり前の中には「至極当たり前になりすぎた」高度な思想が含まれている。  

単語帳

中国語の勉強を充実させるべく、単語帳を導入。 リングに止められたカードをくるくるとまわす、アレです。 講義の間、これはおぼえようという単語と、構文を書き込む。 ��NHKカルチャーセンターで中国語を受講中)  書くという作業のおかげか、あっさりと今日の部分は記憶できる。  効果はバツグン?

最後の講義

今年最後の講義を終えた。 いろいろあったけれど、好評の感想をよせてくれた学生が多くそれはすなおにうれしかった。真宗・仏教に講義を通して興味を盛ってくれた人もいるようでそれもうれしい。 ただ、ところどころ調子に乗って、勢いで正しくない情報もだしてしまったことがある点を反省。来年以降はもっと気をつけるようにしたい。  

赤ん坊

朝のちょっと混雑した電車の中、かわいらしい赤ん坊を抱いたお母さんが一人。 赤ちゃんは、常に笑ったまま愛嬌を振りまく。 まわりのおばあさん、女の子、お兄さんは赤ちゃんの顔を覗き込む。 その赤ちゃんが、その周りの視線を独占して、ただ笑っているだけでその場の中心になっている。 「魅力」、ひとをひきつける力そのものが、そこにある感じがする。

南直哉『老師と少年』

 「この世にはしなければならないことがたくさんある。しなければならないと人が思うのは、しなくてもいいことだからだ。生きなくてもいい。だから生きなければならない。犬のように水を飲んでもかまわない。しかし水を器に入れて飲むことにする。尊さはそこにある」(100頁)  念仏をしなくてもかまわない。仏さまをたたえなければならないと言うことはない。しかし、仏の前に手を合わせ、念仏し、なんともいえない感慨を懐く。そのことが尊いと感じるようになっている。  そう。しなくてもよいけれども、する。「尊さはそこにある。」

山科本願寺・寺内町研究会『―掘る・読む・あるく―本願寺と山科二千年』

  山科本願寺・寺内町研究会『本願寺と山科二千年―掘る・読む・あるく』   国道などの都市開発によってなくされつつある、山科本願寺と寺内町の遺跡の保存と活用を求めて市民と研究者とによって立ち上げられた「山科本願寺・寺内町研究会」の著作。  ・山科は奈良街道と東海道が通り、京都の入り口でもある交通の所。  ・旧石器時代からの遺跡があり、旧石器時代から生活の舞台であった。  ・山科本願寺のあった場所は、水田にするのに困難な条件があり、開発の遅れた場所だった。  ・山科七郷総郷を中心にかなり自立度の高い地域だった。  ・住民は、文書に印と花押も用いていた。  ・真宗寺院の本堂は本来、現在のような左右対称ではなかった。  ・山科本願寺のように、全体の形をかいた図面がある中世の遺跡(城郭)は、例外中の例外で、稀有なもの。     などなど、知らないことが多く、勉強になります。  山科本願寺は、単に真宗寺院の本山であった遺跡というだけではなく、さまざまな分野に対して貴重な史料と情報を提供するものだった。

のどいたし

風邪気味の調子は相変わらず。 のどの痛みはそこそこ。右肩の凝りがキツイ。  さて、  最近のニュース、殺人とか人が死んだとか暗いニュースの流れない日はない。  それも、身内同士での殺人とか云々がめにつく今日この頃  仏教経典の中の悪世の記述のような時代がやってきているのかなどと、ふと思う今日この頃。 「父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死して後に神明さらに生ずることを信ぜず。善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、父母兄弟眷属を害せんと欲ふ。六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。かくのごときの世人、心意ともにしかなり。愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を■望し、長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。」(『仏説無量寿経』巻下)

のどが痛い。

去年もこの時期に風邪をひいた。ん?いや、あれはインフルエンザだった。 大学時代も年末、下宿先から家に帰ってきたとたんに熱を出した記憶がある。 この時期は風邪を引きやすいのだろうか? 体がそういうような原因を抱えているのだろうか ともかくのどが痛いのです。 風邪のひきはじめです。とっととねます。

星空をながめて。。。というわけではないけれど。

暦法について調べることがありまして・・・。  おもしろかったことは、月齢を日本や中国では新月から数えるけれどインドでは満月から満月を一ヶ月と数えるという相違。 さて、  天文というものは、中国でも日本でも国家を運営していく上で必要なもののひとつだった。天文を見て暦を作り、祭りなどの行事の日取りを決め、農業などの運営もそれによるところがあっただろう。    近年もまだ、国家の役職として天文官のようなものが設置されている国もあるようだし、インドなどでは(今もどうかはわからないが、すくなくとも近年まで)占星術が大影響力を持っていたらしい。  動物や虫などもやはり天文というか、月の満ち欠けにあわせて行動したりすることがある。  「星」なんていままで自分の行動原理になりえるはずもないものだったけれど、ちがった角度で再検討してみると面白いかもしれない・・・。  注:占星術などの占いなどの類を信じるなどという意味ではありません。あくまでも思想的に考え直してみるということで。 念のため。

理想郷

定方晟『須弥山と極楽』を読んだ。 須弥山と極楽―仏教の宇宙観  仏教の世界観がまとめられていてとても充実した内容。  最後のほうに、極楽の表現について触。  「・・・「受験地獄」や「通勤地獄」は地獄の象徴的解釈の例だが、最近新聞でみた「カネミ地獄」という名称はもはや象徴の域を越えているようである。 これと対比して仏教の極楽も、その真実性を回復してくる。極楽には花が咲き、鳥がうたい、せせらぎがあるという。われわれはこれを単純な考えとして描写した。だがわれわれはそれらを失おうとしているいま、真にそのようなところこそ極楽であることを認識しはじめているのではないだろうか」(192頁)    そうなのだ、極楽は理想郷なのだ。    あらためて理想の風景を考えてみた。  目を閉じると浮かんでくる。  僕は山があって、川の水がきれいで、食べ物がおいしくて・・・  決して生活のために自然を破壊したりするような形ではないはず。  ずいぶん今暮らしている環境と違うものだ。  そして、街がかわっていこうとしている方向とも。  でもその中で暮らしていかねばならないのだ。    

囲碁

初法座の後、お参りされていたIさんと碁を打つことに。 食事後、Iさん宅に押しかける。 親族以外と碁を打つのは初めて。 ��氏もブログに掲載していてくださっている。 そういえば、龍谷教学会議という学会で、富山にいったとき江戸時代の学僧(学問をされていた僧侶)の掟が書かれたものを見せていただいたことがあるが、その中に「朝碁をしてはいけない」というものがあったなぁ。  はまりだすと勉強しなくなるからか。  いけないことをたくさんしている。いまのわたくし・・・。

初法座

西正寺「平成一九年初法座」を勤めました。 雨ということで、出にくい中お参りにきてくださる方々。頭が下がる。  とりあえず、今回は、下の三冊からインスパイアされたことをお話したのです。、もちろん平易に心がけて・・・。 宮田登著『冠婚葬祭』(岩波新書) 釈徹宗・内田樹著『いきなりはじめる浄土真宗』 釈徹宗・内田樹著『はじめたばかりの浄土真宗』 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  宮田登著『冠婚葬祭』(岩波新書)によると、お歳暮もお年玉も祭礼に関わるものであったらしい。  本来生活のいたるところにあった宗教行事が人間のみの世界で完結していくことは、いい面もあるかもしれないが、やはり生活がどこかしらドライな味気ないものになっていく原因ではないかと思う。 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  釈徹宗・内田樹著『いきなりはじめる浄土真宗』の中で、宗教について、一見無関係な二つの事柄をつなげる物語をもつことというような意(記憶をたよりにかいています)で指摘されていたことは、とても示唆的。  気をつけてみると、宗教的な物語は、われわれの身の回りに満ち満ちている。  それは、悪しき迷信である場合もあり、一方では、心の豊かさを担保するものでもあるのだ。 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

口内炎

歴代何位かにはいる痛みをもつ口内炎が発生。 頬の裏にできていたのは、たいしたことないけれど、下唇の裏にできる口内炎は痛いのか・・・? 生活の乱れが原因!? 「ケナログ」という、かな~り前に耳鼻科でもらったクスリを塗って寝たところ少々痛みが軽くなる。 これ→ http://health.yahoo.co.jp/medicine/2/2399707M1030/ ん!? ん!? ステロイドじゃないか!! 忘れてた・・・。よく効くはずだ。気をつけよう。--

『大乗大義章』

 今日は午後からスタバで、勉強。  一度いくと、2~3時間はできるので、家でするより集中してできる。  冬休みの間に『大乗大義章』という文献にもう一度目を通そうとしている。  あらためて読むと、新しい発見があるものだ。  『大乗大義章』が『論註』のバックグラウンドになっているということは、読めばわかる。読んだら、おそらくそうなんだろうということが実感できた。  特に阿羅漢の成仏についての問題が議論されているところでは、『論註』との関連が予想される箇所がちらほら。  明日くらいに中巻を終える。

鐘つき

 サイトを見ていると、時々面白いものがあります。  鐘楼が阪神大震災で倒壊して以来、除夜の鐘がつけず、少々さびしい年越しが続いています。すっかりもう、年も明けてしまいましたが、   「鐘つきサイト」1月31日までです。   http://event.sankei-digital.co.jp/nenmatsu-2006/jyoya/jyoya.html   

ブラインド

 部屋のブラインドはここ数年壊れている。  直そう直そうと思いながら、サイズがない。 結局今日も見つからず・・・。  いつ直るのか・・・。  昼下がり、和食レストラン「さと」にいく。  最近行きつけの「すかいら~く」は、お客さんが多いようで遠慮。  コーヒーとアイスクリームにて2時間ほど滞在。  お正月は、家族で鍋などを食べに来る人の多いこと。多いこと。  お正月は家族そろって外食ということかな。  そんな中に、一人漢文広げて読んでる30歳がひとり。    そんなお正月の過ごし方。  明日は、母の里に行きます。

あけおめ。

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいいたします。 さて、今年のお正月は、いつもくる親戚さんがこなかったこともあって、かなりさびしいお正月。なんにもイベントがない。 というわけで、生まれて初めて、元旦に外出。 伊丹・ダイヤモンドシティに買い物。 通勤用の新しい靴を一足購入。普段用の靴もついでに一足。  昨日今日と文献を読まなかった・・・。 明日は読もう。。。

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