知について(下)
��上)に書いたことは、書いている内に展開して出てきたことで、当初思っていたものとは、ちょっと違った方向に進んでしまった。
で、もともと考えていたことはというと。
何かを知ったとき(特に先の後者の知)、二種類の感動が併存している。
一つには、自分の世界が広がり、知識が増えたことに対する喜び。一つ階段を上った気分。
もう一つは、世界が広がったことによる、それまでの、自分の世界の狭さを知った感動。それは、かならずしも喜びなどという肯定的なものには限らない。むしろ、「ああ、こんなことも知らなかったなんて・・・」という己の小ささに対する知覚。一つ階段を登りはしたが、その階段は自分の想像よりもさらに上まで続いていたことに対する驚き、果てしなさに対する恐れ。
前者は、知の獲得による賢者への道。
後者は、知の獲得による愚者の自覚への道。
それらは、自分の中で併存している。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに
や、「無知の知」といわれることが、知覚ではなく、実感をもっておそってくる。そして、これはまだ、入り口でしかなく、将来、それはどんどんと強くなってくるにちがいない。
で、もともと考えていたことはというと。
何かを知ったとき(特に先の後者の知)、二種類の感動が併存している。
一つには、自分の世界が広がり、知識が増えたことに対する喜び。一つ階段を上った気分。
もう一つは、世界が広がったことによる、それまでの、自分の世界の狭さを知った感動。それは、かならずしも喜びなどという肯定的なものには限らない。むしろ、「ああ、こんなことも知らなかったなんて・・・」という己の小ささに対する知覚。一つ階段を登りはしたが、その階段は自分の想像よりもさらに上まで続いていたことに対する驚き、果てしなさに対する恐れ。
前者は、知の獲得による賢者への道。
後者は、知の獲得による愚者の自覚への道。
それらは、自分の中で併存している。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに
や、「無知の知」といわれることが、知覚ではなく、実感をもっておそってくる。そして、これはまだ、入り口でしかなく、将来、それはどんどんと強くなってくるにちがいない。
コメント
コメントを投稿