2022年9月19日月曜日

9月14日(水) 大阪教区婦人会連盟(浄土真宗本願寺派)の研修会に出講

 9月14日水曜日、はれ。
 午前9:00~12:00前、いつものように月参り。
 午後からは、津村別院で開催の「大阪教区婦人会連盟研修会 全体研修会」に出講。 
 これまでに、数回打ち合わせを重ねて、主催・企画側の意図として「不安」をテーマに開催したいという意向を受けての講演。
 
 不安にどのように処したらよいのか、というようなことをお題として頂戴したのだが、これがなかなか難しい。

 不安を超克していくのが浄土真宗ではないですよ。不安を抱え、煩悩を抱え、自分の心を整えるどころか、ずっとその心に振り回されながら、思い通りになることができずに生きていく私を引き受けてくださるのが念仏であり、阿弥陀如来なのですよというようなことを柱にして、研修会のお話とさせてもらった。

 ちょっと硬めに書くと下のような感じ。(補足:研修会では例話も入れたりして、もうちょっと柔らかく、まろやかな感じでお話しましたよ)

◎不安は消えない。

 浄土真宗の念仏とは、「不安」を消すもの、「不安」を解消するものではないのだろうとおもっている。そして、どうしようもない「不安」を抱える我々は、思い通りにならない心を抱えている存在であるということは、臨終の瞬間まで変わることはないのだろう。

 「不安を消そう」「不安を消す手段を手に入れよう」と親鸞聖人や浄土真宗の教えに対して問いを立てることは、その問い自体が間違っている可能性を考えなければいけないと思っている。

 例えば「臨終まで、思い通りにならない心を抱えているのだ」といわれているのに、問いが間違っていると「そうか、そう受け止めたら、心が穏やかになるのですね」と、聖教(仏教の書物)が言わんとしていることと、全くずれた受け止めをしてしまうケースが発生する。「穏やかになれない」といわれているのに、「穏やかになれないと受け止めたら、心が穏やかになるのですね」と訳の分からないバイアスをかけてきいてしまっているということがないだろうか?


◎法然上人と明遍僧都の問答

 法然上人のことばを伝える『和語灯録』という書物に、法然上人と、門弟で高野聖でもあった明遍僧都との面白いやりとりがあったので、今回の資料に掲載して紹介した。
 もう、これがすべてではないかと思う。

 誤訳してしまっているところもあるかもしれないが、個人的には以下のように訳を試みてみた。(もしお気づきのところがあれば、優しく教えていただきたい)

【訳】
 明遍僧都が(法然聖人に)質問をして言われました。「末代悪世のわたしたちのような罪・濁りを抱えた凡夫は、どのようにしてこの迷いの生死を離れて行ったらよいのでしょうか?」
それに対して法然聖人が答えておっしゃいました。「南無阿弥陀仏と申して、極楽浄土にうまれていくことを願うことのみが、なすことと存じます」
明遍僧都がいわれました「それは、往生の方法としてそのようになすべきかと考えております。それによって、間違いなく往生がさだまるように(念仏)を申しております。しかし、念仏を申してはおりますが、心が散乱して散り乱れてしまうのを、どのようにしたらいいでしょうか」
法然聖人が答えていわれました。「それは私・源空もちからおよばないことです」
明遍僧都が言われました。「さて、それをいったい、どのようにしたらいいのでしょうか」
法然聖人が言われました。「心が散り乱れても、名(南無阿弥陀仏)を称すれば、仏さまの本願力に乗じて往生するのであると心得ております。ただ、要となるところは、おおらかにお念仏を申すのが第一のことなのであります」
明遍僧都がいわれました。「そのとおりです。そのとおりです。これをうけたまわりにやってまいりました」こののちに、少しのことばもなく、明遍僧都は退出していきました)

法然聖人は、明遍僧都が退出した後、その場にいたひじりたちに言われました。「欲界散地に生まれたものは、みな散り乱れた心を持っている。たとえば、それは人として生まれれば、目や鼻が備わっているようなものである。(そのような者たちに対して)散漫な心を捨てて往生しなさいというようなことは、その道理としてよいわけがない。(無理である)」。散漫な心を持ちながら念仏する者が往生するというのが、すばらしい・めでたき本願なのである。この明遍僧都の言われる「念仏を申していても心が散り乱れてしまうのをどのようにしたらよいだろうか」という不審におもわれたことは、いわれていないことです(問題にされていないことです)。

ダイジェストはここの部分だろう。
念仏を申してはおりますが、心が散乱して散り乱れてしまうのを、どのようにしたらいいでしょうか」
法然聖人が答えていわれました。「それは私・源空もちからおよばないことです」
明遍僧都が言われました。「さて、それをいったい、どのようにしたらいいのでしょうか」
法然聖人が言われました。「心が散り乱れても、名(南無阿弥陀仏)を称すれば、仏さまの本願力に乗じて往生するのであると心得ております。ただ、要となるところは、おおらかにお念仏を申すのが第一のことなのであります」
明遍僧都がいわれました。「そのとおりです。そのとおりです。これをうけたまわりにやってまいりました」

 散乱した心、散り乱れた心をなんとかするのではなく、それを問題にしない救いがあるということ。そういうところに、真宗、そして浄土教の 自らの心との向き合いがあるように思われる。

 もうすこし言葉を重ねて言えば、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか、「平然と生きる」とか、「泰然自若」、あるいは「不動心」といった、確固として不安を超克した心を修行によって成就していく、不安を超克していくのではない。不安や、あるいはむさぼり・いかり・はらだち・妬みといった、どうにもならない自己の心情を抱えていることを、(普段、自身では見ないように、あるいはそのようなものなど持ち合わせていないように思っているそれらを)念仏の中で、仏教との向き合いのなかで知らされていく、「照らされていく」そういった仏教なのだろう。



 研修会を終えて、お寺に戻る。
 御門徒さんのお通夜のお勤めに。急なご往生でもあり、ご家族の悲しみにふれるお通夜でもあった。現職の方でもあったので、職場の同僚方も参列され、涙される声が左右から聞こえるお式だった。
  


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