この記事は、こちら投稿の続きです。
(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/09/91.html)
上に書いた講義を終えた後は、伝道院のお夕事(ゆうがたのおつとめ)に参加し、オンラインでの打ち合わせを1本。そのあと19時から、先週に引き続いて、伝道院の「夜座」(よるざ)が開催された。
夜座については、これまで以下の投稿で触れてきた通り。
・8月25日(木)布教使はお聴聞の方に育てられている…のだと思っている
前回(8/25)は、プレオープン的な形になってしまい、正式には今夜(9/1)が一回目。
伝道院の正面玄関を開け、外部からお越しいただける方をお出迎え。伝道院内に入ることができるというだけでも、実は貴重な機会でもある。
この日は、14名ほど(目算)の方がお越しいただけた。前回から引き続きお越しくださった方、情報を見て足を運んでくださった方、龍谷大学の学生さんらしき方、布教使関係の方もいらっしゃった。個人的にお久しぶりの方にもお会いできたといううれしいこともあった。
先週同様、受講生の法話は、やはり緊張を感じながらだけれども、伝わる言葉で丁寧にお話されていたという印象。回数が浅い回だけあって、新奇性や物珍しさが参加者の中にも感じられる。
終わった後、受講生のみなさんと共有させてもらった課題感は、これをイベント事からどのように「営み」へと進めていくかということを考えているという視点。
基本的に「個人的所感」ではあるけれども、やはり新奇性やものめずらしさで、最初のうちは足を運んでもらいやすいのだろうとおもう。しかし、何があるかということがわかると、主催者側は(こうやっておけばいいのだという)「安心」が積みあがってくるがそれは、参加者側からすると(なにがおこるかだいたいわかっているからという)足離れにつながってくるのかもしれない。
定期的な法座にお参りをする、仏さまにお参りをするというのは、イベントというより「営み(いとなみ)」といった方がいいのではないかと思っている。同じことが同じように行われる法座に足を運ぶ営みの場へと進んで行くという選択肢もあるようにおもう。個人的にはそちらのほうが、この場としては望ましいように思っている。
それはある意味で、新奇性のあるイベントから、日々のあるいは定期的なあたりまえの営みへの「昇華」ともいえるのではないかとも思っている。
ともかく、この回も「法座」であり、いい時間を参加者のみなさんと過ごさせてもらった。ありがとうございます。
京都から車で帰宅。22:00に名神高速道路が工事で通行止めになったのにぶちあたってしまって、とろとろと下道(国道171経由)で帰宅。 折からの大雨にも見舞われつつ帰宅。
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