2022年10月27日木曜日

とある公共施設の整備に関する質疑で感じたこと 

 「この施設の設計にあたって、特にダイバーシティやインクルーシブ、人権配慮はどのように行われましたか?」 

 このような質問をしました。ある日の教育委員会定例会で審議された、市内のとある施設整備に関する議案についての一コマです。こんなに簡潔に言っていなかったかもしれません。一言一句正確ではないけれど、上記のような質問をしました。  

 誤解のないように、この投稿で言いたいことを先に述べておくと、予算の扱いや、設計・施工等の手続きに瑕疵があるとか、当該の施設に問題があるとかといったことを指摘したいわけではありません。むしろ、「問題がない」というところにこそ存在している「課題」を共有したいという思いをもって、この記事を書いています。 (議案としてかけられた提案案件については、問題なく承認されました。)  

◎質問の意図 

 質問をした意図は以下のようなものです。  

 事務局からの説明資料の中に、当該施設の設計図面がありました。それを見ると、シャワーや更衣室、トイレ等の設備が表示されていましたが、図面を見る限り、トランスジェンダーをはじめとした”男/女に割り振られた設備の利用に抵抗を覚える利用者”が十分に想定されていないのではないか、ひいてはソフト面においても、そのような場合にとるべき対応等が必ずしも十分に検討されていないのではないかと疑問を持ちました。ここで一度、確認しておくべきだと思われ、冒頭の質問を発言するに至った次第です。(十分な想定や検討は行われていないのではないか、という疑問が生じたことによる)。  

 尼崎市は、ダイバーシティ推進課を設置し、性の多様性に関する理解について取り組みを進めているものの、現実にはいまだ課題が残り、新聞や報道にのぼるような問題が生じたこともありました。そのような中で、施設の整備がどのような配慮をもって行われようとしているのか、確認しておく必要もあるだろうと思った次第です。  

 ただし、当該の建築物は、すでに設計図面の作成は完了(納品)されており、かなり工程として進んだ段階にありました。手続き的にここでストップするというのは現実的な対応ではないという状況ではありました。しかし、設計段階では想定されていなかったとしても、運用・対応といったソフト面で対応をとることができることも多いはずです。そういった事柄にどのような対応や配慮が可能かを検討すること、また今後の施設建設などで当然のように考慮や検討に含まれることも期待してこの問いを投げかけたという面もありました。   

 ◎事務局による応答・回答 

  まず、説明担当の事務局職員さんの応答をみると、おそらく「想定外」の質問だったのだろうと思われます。それはそうでしょう。そもそもが、本筋は、設計や内容に関するところとは別の案件なのですから。(しかし、この質問をすることがまったく的外れでもないと思われるような審議内容でもありました。)  

 やり取りの中で、当初の質問からより具体的に「例えば”トランスジェンダー当事者”の利用は想定して設計や対応を取られたのか?」と問いたずねてみたところ、施設設計のところで「それがあった」という回答はありませんでした。ただ、投げかけた指摘や課題感は、前向きに受け止められ、その課題感を共有いただけるような返答であったので、決して後ろ向きな姿勢ではなかったことも付言しておきます。  

 また、質疑の中で、担当職員の上職の方から、補足として説明されたものは、設計にあたっては、福祉的な配慮等については、県の条例で制定されたものがあり、それに則って仕様を作成し、発注・設計を進めるというのが手続きが行われたという説明でした。  

 兵庫県の場合、おそらく該当するものは、この条例であろうと思われます。(現在確認しています)  

◎兵庫県 福祉のまちづくり条例

https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks18/kendo-toshiseisaku/hukumachi/201209_renewal/jourei2.html

◎兵庫県 福祉のまちづくり条例逐条解説 ―特定施設整備編― - 兵庫県

https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks18/kendo-toshiseisaku/hukumachi/201209_renewal/documents/chikujyokaisetsu2204.pdf

 現状、留意すべきこと、満たすべき条件や仕様についてはこのように詳細に制度化され、それに則った施設の整備が行われているということ、今回の施設整備もそれに外れてものではないという「まっとうな回答」であったと思います。


◎個人的所感と問題の所在 

 さて、ここまで経緯とあらましを述べてきて、何を問題としたいのかということをまとめておきたいと思います。 

1、自分の思いと希望 

 私自身の思いとしては、行政組織には可能な限りダイバーシティに配慮した、インクルーシブな施策や対応をとってもらいたいと願っています。今回の件においては、施設建設において、(将来的であっても)それが達成されるように望んでいます。 

 より具体的には、セクシュアル・マイノリティ(今回のケースでは、トランスジェンダーをはじめとした、性自認に基づいた対応を求められる人、身体的にも性別を移行しようとしている人、あるいは移行した上でそれを望む人)を想定して施設設計が行われたか、あるいは運用上配慮しやすい形はどのようなものかということを検討した設計したり、議論が行われたかということ。今回、それがなかったとしても、今後はそれが行われるように、願っています。当該の場での質問や今回の投稿もそれを願うものでもあります。もちろん、性の多様性だけではなく、日本以外に出自や文化的ルーツを有する「多文化共生」という面からも考えていくことがらはたくさんあることも無視してはいけません。 

 ダイバーシティ推進課を設置し、多様性とインクルージョンをうたっている本市では可能な限り、それが行われるべきだろうと考えています。 

 2、現状と課題 

 行政職員として、事務局はじめ市職員・教職員のみなさんは「制度」にのっとり、なすべきことを実直にされています。実際に、新規の建築物を設計し建築する際、あるいは建て替えや改築等施設整備する際に準拠すべき県の条例(上述)があり、それに基づいて、仕様書を作成し、(現状の)基準から外れないちゃんとした施設整備が行われようとしているわけです。 

 しかし、逆の言い方をすれば、現状の制度の上では、その基準にあった及第点の設備が建設・設計されていたとしても、まだ制度が追いついていない課題については、担当職員や最終確認する決定権者の意識が及ばなければ、一つ手前の施策が行われていく、という一歩遅れた対応になってしまうのではないか?という課題であるわけです。 

 先進的な、次のステップのダイバーシティ、インクルージョンが想定された施策や、設計が行われるためには、そういった制度や条例で制定されていることよりも進んだメンタリティや知識、あるいは制度・条例から抜け落ちている人や課題を救いとるような感覚・アンテナを有する必要があるということでもあります。(しかし、それをすべての「職員」が有することをもとめるのは、現状から酷であり、それは「ステップ」ではなく、むしろゴールとして設定される状況であろうと認識しています)  

 つまり、現行の基準に則るだけではなく、常にその枠組みから漏れている事柄はないか、排除されている人はいないかという不断の見直しが行われなければならないし、そこに対する配慮や認識を更新し続ける営みが必要なのではないかということなのです。

3、これを次のステップに進めるためには、どうするか? 

 現実的には、(1)担当職員の意識や理解の高さという属人的な部分に頼りつつ、(2)現状抜け落ちている課題を社会的に共有し、制度自体を次のスタンダードに進める、ということがステップが想定できるのではないかと考えています。 

(繰り返しますが、これは行政と行政職員に対して、怠惰だとか無理解だと批判するものではありません。現状のスタンダードを、どのように次のステップに進めるのかという課題や、対応を共有したく思ってこれを書いています。 )

 私の課題に思っていること、理解していることは上に書いた通りです。言葉足らずや伝わりにくいところもあるかもしれません。行われるべきことは、知識をもって、意識を向ける人を増やすということではないかと思っています。 

 ダイバーシティ、インクルージョンをより進めるためには、次のことをここでお願いしたいと思っています。 

(1)一緒になって考えてほしい。 

  → みなさんの考えや、アイデアを聞かせてほしい。 この投稿についての感想も聞かせていただきたい。 

 立場ある人だけ、直接的な責任のある人だけの責任にするのではなく、そういった人も含めてやはり社会的な意識や理解、ニーズの共有が必要になるだろうと思っている。教育委員や議員といった立場をいただいている者だけがしているという形にはやはり限界があり、賛否も含めて、多様な大勢のみなさんの声をいただきたいと思った次第です。 


(2)会議や議会で、「質問」をする人が増えてほしい。 

 とはいえ、やはり「公式」な場で、何が問われ、何が意識させられるかということほど重要なことはないとも思っています。条例や制度の設定にいたるまでは、「その未だ制度化されていない課題がすでに多くの人が求めていることである」とか、「当然配慮されるべきこと」として、意識される必要があるだろうと思います。こういった行政の予算審議や、建築物を設定するといったハード、施策や対応等のソフト面で当然留意すること、対応することといった意識をもってあたられる必要があるでしょう。 同様の課題感は、多くの場で確認いただくことで、関わる人の意識がそこに向かうようになり、それから条例や制度に進んでいくのではないかと思っています。 

ひとまず、先日の会議でのやりとりと、思ったこと、共有したいと思ったことをつれづれに書き出してみました。

 

2022年10月15日土曜日

10月3日(月) 遅ればせながらバースディドネーションを届けてきました。

 

7月にバースディドネーション企画を行っていました。
https://ryogo1977.blogspot.com/2022/07/45.html)寄せていただいた募金を、ぐれいぷハウスさん(http://hitofusa.com/?page_id=26)にお届けに行ってきました。

 

 再三の日程調整になったり、わたしがのんびりしてしまったりということもあり、お届けまで時間がかかってしまいました。

 代表のAさんから、活動のお話をうかがっていると何人かの生徒さんがやってきたりもして、実際に居場所としてすでに機能されていることにも触れさせていただくことができました。

 この居場所、ほとんどご自身でリノベをすすめられているそうなのですが、折からの材料費の高騰で、予想以上にお金がかかってしまっていて思うように進められていないという現状もうかがいました。

 継続してなにかご協力できることがあれば、していきたいと思います。






2022年9月30日金曜日

9月21日(水)~9月25日(日)までの記録

 バタバタと過ごす中で、気が付けば10日経過した。数日分まとめ書き。

9月21日水曜日
 午前中はお参り。午後から家族と写真の撮影に。

9月22日木曜日。
 午前中お参り。午後事務作業、銀行の手続き等。16:40から相愛大学へ出講「真宗伝道演習」。この日は「宗教」について、考えるワークと講義。学生さんの反響は、ワークが好評。今学期はいつも以上に双方向性を意識して講義をしようと思う。
 帰宅後、家の鍵が見当たらず慌てる。
 (後日談:カギは翌週に発見されました)

9月23日金曜日。
 日中は雨降り。予定されていたキャナルフライデ―の中止が決まり、少々残念。
 午前中はお参り。午後は講義の準備に時間を費やし、NHK文化センター梅田教室に出講。歎異抄第十四条がテーマ。講義前に、余談で受講生のみなさんとおしゃべりしていると、話の流れから、「世俗主義」の概念についての説明に。現代社会がどのように宗教と距離をとっているか、関係を持っているのかという点は、興味をもって聞いてもらえたようだ。

9月24日土曜日。
 とても忙しかった日。
 8:30に一件目のお家にお参りに行き、そのまま、中陰のお勤め、法事(11:00)、法事(12:30)、法事(14:00)と移動しつつおつとめ。ひとつひとつが、大事なご家族をしのぶ機会でもあり、丁寧にということは心がけながらおつとめするものの、やはりゆったりとおつとめできるスケジューリングも大事。 大事に、丁寧におつとめすることで、かえって「疲れ」も少ない。その意味では、「作業」にするのではなく、一つ一つを「おつとめ」としておつとめできたとは思っている。

 15:00過ぎから、建築関係の打ち合わせ。オンラインでつないで行う。30分程のもの。懸案だったことが、一つ進んだようで、よかった。

 スケジュール的にたくさんあったので体力的にやり通せるか?ということが不安だったけれど、無事に一日が過ごせた、という日。

9月25日日曜日。
 午前中お参り。午後夕刻から27日からの永代経法要の準備。
 お荘厳を整え、もろもろの準備をする。

 



2022年9月22日木曜日

9月20日(火)「宗教実践特殊研究」(龍谷大学 実践真宗学研究科)と衣の相談。

9月20日火曜日。

◎台風14号のこと

台風14号は、夜のうちに通過。朝のニュースではすでに、宮城県沖に抜けていた。
19日には、時速20キロ~30キロ程度のゆったりとした移動だったものが、時速75キロとかなり速度もあがっていた。暴風域もなくなり、この後の災害の危険度も下がった模様。ひとまず、安心。
用意していた資材・物品も役に立つことはなかったが、それはそれでよかったと思うべきなのだろう。

◎龍大の講義のこと

午前中、事務作業を少々。12時に移動。京都へ。
13:30~ 講義「宗教実践特殊研究」(龍谷大学 実践真宗学研究科)
 昨年同様、以下の二つの書籍をテキストに、受講生のみなさんとディスカッションをする形式の予定。

 ・『現代日本の宗教事情〈国内編I〉』 (いま宗教に向きあう 第1巻) 
 ・『隠される宗教,顕れる宗教 〈国内編II〉』 (いま宗教に向きあう 第2巻) 


    

 この講義の受講生は3名。それに加えて昨年から引き続いて参加したいという大学院生が1名。合計4名のみなさんと講義を行っていくことになる見込み。
 第一回は、オリエンテーションと自己紹介と少しのレクチャー。
 この書籍を読んでいくにあたって基本的な概念になる「世俗主義」について、説明をする。


◎法衣店での相談のこと

 講義後、当日のアポになったが電話で担当の方が在店されていることを確認して法衣店さんへ。 継職奉告法要で、御門徒皆さんからのお祝いの記念品として「色衣(しきえ)」を誂えさせていただくことになったので、その相談に。
 カタログと、実際の織物を拝見しながら、あーでもない、こーでもないと相談しているとあっというまに90分。
 カタログと実際の現物の色合いがちがっていることもあり、また自分がつけさせていただいているお袈裟(主に五条袈裟)との色合いも考えながら、「これだとこうなりますよね。これと、これは合いませんよね」等と。
  
 使い勝手の良さとか、もろもろの諸条件を勘案しつつ、候補を絞って退店。最終決定と注文は後日。ただ、かなり候補が絞られてよかった。
 
 電車にて帰宅。一日でできることは限られている。大事に大事に。
 

2022年9月21日水曜日

9月19日(月)台風がやってくる

9月19日日月曜日。大型の台風がせまっている。
台風14号が接近している。夜から朝にかけて近畿に接近する模様。
昨夜の段階から九州に接近していて、今朝には上陸しすでに被害が出ている様子。暴風域が九州全部を覆うようなくらい非常に大きなもの。
2018年の台風21号の時には、停電をはじめ、大きな被害があったがそれ以上の規模の台風ということで災害の恐れを十分に感じていた。

祝日でもあり、法事の予定もあって、お参りをどうしようかと思っていたが、朝はまだ台風が未達で、雨も降っていない状況。月参り、法事のお勤めをすることができた。
お参りの先々では台風の話題。「心配ですね。気をつけましょう。備えましょう」と。

午後は、災害対策をしながら、いくつか事務仕事。
スマホなどの充電ができるように、ポータブルの充電器、ランタンなどの明かり、食料と水などを買い足す。

JRも計画運休を発表。出講予定であった中央仏教学院の講義は、すでに休講となることがきまった。

台風情報をみながら更けていく夜。


2022年9月20日火曜日

9月18日(日)お参りとミーティングと昔の写真と

 おてらのそうじ(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/09/918.html)のあとは、月参り。

 午後からは、すこしだけ台風対策の作業。14時からオンラインにて、インクルーシブ教育に関する会のMTG。(内容はまだナイショ)

 夕刻、住職継職奉告法要(11月予定)に際して、お寺の歴史を記念誌にまとめたり、アーカイブしたいと思っていて、それに関する作業を進める。

 手始めに、35年ほどまえに行われた本堂の屋根の葺き替え・修復工事の際の写真をデータ化した。(一部を下に転載しておく)

 整理・アーカイブして、まとめて公開できるようになったらいいなぁ。








9月18日(日)おてらのそうじ 

9月18日日曜日。台風が近づいてきている。

◎おてらのそうじ

 朝7時15分から、月に一度の「おてらのそうじ」の実施日。
 この日は、ひさしぶりに「いいだしっぺ」(おてらのそうじをやろうと言い出した人)のYさんが、福島から帰ってきており、久しぶりの再会。 


 おてらのそうじのメニューは、
 ・短いおつとめ(読経)
 ・体操、ストレッチしながら自己紹介
 ・おそうじ
 ・かんたんなごはん(この日は、感染に気を付けながらおにぎりをつくって食べました)
 ・適宜解散、退出
といったところ。

 台風前で天候が心配されていたこともあって、「そんなに参加者もいないかなー」と思っていたところ、13名くらいになってしまった。ご飯は6合しか炊いてなかったので、急遽追加で4合炊いた。汗
 
 「台風がくるから、ギンナン(イチョウの実)を拾ってもらうだけでいいですよ」、といっていたのだけれど、小学生のM君が、ほうきで落ち葉を集めてくれて、結局しっかり掃き掃除もしてくれた。ありがたいやら、もうしわけないやら。
 

 ちょうど 涼しい風も 通っていて、本堂のわきの座敷がとてもきもちよい。
 「ずっとすわってのんびりしていたい」という声もあるのもよくわかる。
  


9:00頃に解散。中平も後ろ髪をひかれながら、お参りへ。



9月17日(土)神戸別院「兵庫教区仏教婦人会連盟 若婦人のつどい」に出講するなど

9月17日土曜日。

午前中は月参り。
12時準備を整えて移動。13時前に神戸別院へ。
オンラインで行われる「兵庫教区仏教婦人会連盟 若婦人のつどい」という研修会に出講。
コロナ対応のために、兵庫教区独自の取り組みとして、事前に研修動画を撮影し、その動画を利用したオンライン研修するという企画。

企画と打ち合わせは、昨年から継続的に行ってきた。数回の打ち合わせ、会議を経て、1月に動画を撮影。私の他に2名、合計3名の先生が2本ずつテーマを担当して、質問に答える形でお話する動画を撮影した。

中平の担当は、
 ・「浄土真宗で、「バチがあたる」とはいわないのか?」と、
 ・「法事は何回忌までおつとめするものですか?」という質問に答えるお話。

13:30~15:30までの研修。開会式のあと、アイスブレイク、動画視聴、感想共有、講師からのコメントや質疑応答。 それを2セット、動画2本分行うという形。

 特筆すべきは、司会進行をされていた教務所(神戸別院)の担当の職員さん(女性)の進行や話しかけ方がとてもよかったように思う。堅苦しい感じになりがちな研修会を、なごやかに、フレンドリーに楽しく進行されていたこと。なかなか、そういうことが難しい組織の中にあって、これはなかなかできることではない。
こういう感じで組織づくりや、メンバーシップを高めていってもらえたらうれしいなぁと思えるような運営をされていた。近くで触れられてよかった。

どうしても裏方仕事になってしまうものだけれども、実務や実際は事務局が支えて運営されているということが多い中で、やはり事務局次第で、組織の雰囲気やモチベーションというものは変わっていってしまう。事務局の仕事ぶりの大切さというものを改めて感じる。

 こういう積み重ねがあったからか、会自体もオンラインながら和やかに、2時間という長丁場を楽しさや和やかさを感じる雰囲気で過ごされていたように思う。(私の勘違いでなければうれしい)

(こんな感じで、とてもがっちりとした配信体制を構築されていました。)

オンラインで、友だちに語りかけるようにフレンドリーな職員さん

 終了後、帰宅。
 神戸別院までの移動はJRを利用して往復したが、徒歩の移動も楽しい。
 面白そうな商店街や、小さいながらとてもおいしそうなお店も、移動中に見つけた。
 また、足を運んでみたいと思う。

 

9月16日(金)お参りとデスクワーク

9月16日金曜日。
午前中月参り。午後はデスクワーク。
コロナ対策など諸々の対応があり、早めに切り上げて家事をする。

以上


2022年9月19日月曜日

9月15日(木)後期の大学講義がはじまりはじめる

 9月15日(木)。

 午前、月参り。お昼過ぎから、ご葬儀のお勤め。
 葬儀から戻ると、仏壇屋さんのHさんが、継職法要に際して注文した「幕」の校正をもって訪問。打ち合わせを行い、移動。
 

 16:40~相愛大学で講義。「真宗伝道演習」。2020年から担当し、3年目の講義。
 設定自体は、本願寺派の僧侶資格に関する講義として設定されているが、これまでの実績としては、留学生や他専攻の学生さんが多く、基礎的・基本的な内容を扱う形でやってきた。特徴的なところは、「講義」ではなく、演習の名に添えるように「対話型」で進めることを基本にしてきたところ。

 今年度はどうか。5名が登録し、5名全員出席してくれていた。第一回目は、自己紹介とオリエンテーションがメイン。受講生のみなさんの話を聞いてみると、お寺出身で、僧侶という進路を志望している学生さんは1名。それ以外の4名は、日本文学やサブカルチャー専攻の学生さんで、1~2年時の必修の講義で中平の講義をうけて選択してくれたという学生さんも。(これは講義担当者としてはうれしい話)

 受講生の構成や関心―いわゆる座組もわかったので、また来週以降どういうふうに講義を進めていくか考えよう。(それも楽しみ)。

 講義終了後、相愛大学のS先生にご挨拶。ご著書もいただいており、おくればせながら、そのお礼を申し上げる。

 そのあと、伝道院に移動。木曜夜に実施される「夜座」(https://sites.google.com/view/dendoin-yoruza)にお参り。この日20名以上のお参り。ちゃんとした法座であり、かつ伝道院生のみなさんの濃密な実習時間にもなっているというのがありがたい。

 法座なので、この夜は「お供え」を持参した。
 「ほとけさまにお供えされたものを頂戴する」ことを改めて思いを向けてみたいと思った。(僧侶に向けられたものではなく、仏法に、仏さまに向けられたものを頂戴しているというところに、変えがたいありがたさがあるようにあらためておもった)

 夜座の後、帰宅。
 あれこれあった一日が終わる。インプットがあまりできずに、目の前の予定を何とかこなす日が続く。これはなんとかしたい。


 

9月14日(水) 大阪教区婦人会連盟(浄土真宗本願寺派)の研修会に出講

 9月14日水曜日、はれ。
 午前9:00~12:00前、いつものように月参り。
 午後からは、津村別院で開催の「大阪教区婦人会連盟研修会 全体研修会」に出講。 
 これまでに、数回打ち合わせを重ねて、主催・企画側の意図として「不安」をテーマに開催したいという意向を受けての講演。
 
 不安にどのように処したらよいのか、というようなことをお題として頂戴したのだが、これがなかなか難しい。

 不安を超克していくのが浄土真宗ではないですよ。不安を抱え、煩悩を抱え、自分の心を整えるどころか、ずっとその心に振り回されながら、思い通りになることができずに生きていく私を引き受けてくださるのが念仏であり、阿弥陀如来なのですよというようなことを柱にして、研修会のお話とさせてもらった。

 ちょっと硬めに書くと下のような感じ。(補足:研修会では例話も入れたりして、もうちょっと柔らかく、まろやかな感じでお話しましたよ)

◎不安は消えない。

 浄土真宗の念仏とは、「不安」を消すもの、「不安」を解消するものではないのだろうとおもっている。そして、どうしようもない「不安」を抱える我々は、思い通りにならない心を抱えている存在であるということは、臨終の瞬間まで変わることはないのだろう。

 「不安を消そう」「不安を消す手段を手に入れよう」と親鸞聖人や浄土真宗の教えに対して問いを立てることは、その問い自体が間違っている可能性を考えなければいけないと思っている。

 例えば「臨終まで、思い通りにならない心を抱えているのだ」といわれているのに、問いが間違っていると「そうか、そう受け止めたら、心が穏やかになるのですね」と、聖教(仏教の書物)が言わんとしていることと、全くずれた受け止めをしてしまうケースが発生する。「穏やかになれない」といわれているのに、「穏やかになれないと受け止めたら、心が穏やかになるのですね」と訳の分からないバイアスをかけてきいてしまっているということがないだろうか?


◎法然上人と明遍僧都の問答

 法然上人のことばを伝える『和語灯録』という書物に、法然上人と、門弟で高野聖でもあった明遍僧都との面白いやりとりがあったので、今回の資料に掲載して紹介した。
 もう、これがすべてではないかと思う。

 誤訳してしまっているところもあるかもしれないが、個人的には以下のように訳を試みてみた。(もしお気づきのところがあれば、優しく教えていただきたい)

【訳】
 明遍僧都が(法然聖人に)質問をして言われました。「末代悪世のわたしたちのような罪・濁りを抱えた凡夫は、どのようにしてこの迷いの生死を離れて行ったらよいのでしょうか?」
それに対して法然聖人が答えておっしゃいました。「南無阿弥陀仏と申して、極楽浄土にうまれていくことを願うことのみが、なすことと存じます」
明遍僧都がいわれました「それは、往生の方法としてそのようになすべきかと考えております。それによって、間違いなく往生がさだまるように(念仏)を申しております。しかし、念仏を申してはおりますが、心が散乱して散り乱れてしまうのを、どのようにしたらいいでしょうか」
法然聖人が答えていわれました。「それは私・源空もちからおよばないことです」
明遍僧都が言われました。「さて、それをいったい、どのようにしたらいいのでしょうか」
法然聖人が言われました。「心が散り乱れても、名(南無阿弥陀仏)を称すれば、仏さまの本願力に乗じて往生するのであると心得ております。ただ、要となるところは、おおらかにお念仏を申すのが第一のことなのであります」
明遍僧都がいわれました。「そのとおりです。そのとおりです。これをうけたまわりにやってまいりました」こののちに、少しのことばもなく、明遍僧都は退出していきました)

法然聖人は、明遍僧都が退出した後、その場にいたひじりたちに言われました。「欲界散地に生まれたものは、みな散り乱れた心を持っている。たとえば、それは人として生まれれば、目や鼻が備わっているようなものである。(そのような者たちに対して)散漫な心を捨てて往生しなさいというようなことは、その道理としてよいわけがない。(無理である)」。散漫な心を持ちながら念仏する者が往生するというのが、すばらしい・めでたき本願なのである。この明遍僧都の言われる「念仏を申していても心が散り乱れてしまうのをどのようにしたらよいだろうか」という不審におもわれたことは、いわれていないことです(問題にされていないことです)。

ダイジェストはここの部分だろう。
念仏を申してはおりますが、心が散乱して散り乱れてしまうのを、どのようにしたらいいでしょうか」
法然聖人が答えていわれました。「それは私・源空もちからおよばないことです」
明遍僧都が言われました。「さて、それをいったい、どのようにしたらいいのでしょうか」
法然聖人が言われました。「心が散り乱れても、名(南無阿弥陀仏)を称すれば、仏さまの本願力に乗じて往生するのであると心得ております。ただ、要となるところは、おおらかにお念仏を申すのが第一のことなのであります」
明遍僧都がいわれました。「そのとおりです。そのとおりです。これをうけたまわりにやってまいりました」

 散乱した心、散り乱れた心をなんとかするのではなく、それを問題にしない救いがあるということ。そういうところに、真宗、そして浄土教の 自らの心との向き合いがあるように思われる。

 もうすこし言葉を重ねて言えば、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか、「平然と生きる」とか、「泰然自若」、あるいは「不動心」といった、確固として不安を超克した心を修行によって成就していく、不安を超克していくのではない。不安や、あるいはむさぼり・いかり・はらだち・妬みといった、どうにもならない自己の心情を抱えていることを、(普段、自身では見ないように、あるいはそのようなものなど持ち合わせていないように思っているそれらを)念仏の中で、仏教との向き合いのなかで知らされていく、「照らされていく」そういった仏教なのだろう。



 研修会を終えて、お寺に戻る。
 御門徒さんのお通夜のお勤めに。急なご往生でもあり、ご家族の悲しみにふれるお通夜でもあった。現職の方でもあったので、職場の同僚方も参列され、涙される声が左右から聞こえるお式だった。
  


2022年9月18日日曜日

「そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう」 いただいた感想

「9月13日(火)そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう を開催」に投稿した、イベントにいただいた感想と、ご協力いただいた寄付金について、記載しています。

登壇してくださった池邊さんのnote


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Rさん

中平さん、今日は良い時間をありがとうございます

葬儀について、あまり経験がない身ながら「慣習だから通夜と葬式を決まった形で執り行わないといけない」「お布施は高いのが当たり前(深く考えず思考停止して)支払うもの」「喪主は仕方なくなるもの、受け身で辛そうだ」という印象があり疑問を持っていましたがそもそも葬儀のあれこれは故人に思いを馳せたり、残された人がゆっくり死と向き合うためのプロセスで、読経も祭壇も、これまで人類(日本人?)が弔うために必要だとして大切にしてきたものだ、と感じられたことがとても大きいなと..

また、ゆっくり今日のお話を咀嚼してみようと思います

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Oさん

先日「そろそそ、これからの「葬儀」についての話をしよう」に参加させていただきました、Oです。とってもおもしろいイベントでした!

葬儀について、いろんなお話を伺えたこともためになりましたが、なにより、葬儀を通して、死や、宗教について、みなさんと熱~く語り合えたことが、なによりの成果でした。

なかなかこんな話をする機会も、できる場もないけれど、やっぱりみんなとても関心があって、しかもいろいろ考察してらっしゃるんだと知れたことがうれしかったです♪

すばらしい機会をありがとうございました!(^-^)

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【報告】当日ご寄付・協賛いただきました。これらは、このイベントの運営費に充当させていただきます。

 総額:15,600円

  ・当日受付のお布施・寄付・募金 8,600円
  ・ピーティックス経由の寄付  7,000円

 ご協力誠にありがとうございました。

 また、以下の口座にご寄付いただきましたお金は、西正寺の社会活動(イベントや寄付、その他地域・社会に関わる活動経費)に充させていだきます。

ゆうちょ銀行 記号14320 番号96919481 名義 西正寺(サイショウジ)
(他金融機関からの場合は、ゆうちょ銀行  四三八支店 口座9691948)




9月13日(火)そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう を開催

9月13日火曜日、快晴。

午前、月参り4軒ほど。1軒のおうちから、いわゆる「墓じまい」の相談。
戦死された「兵隊さんのお墓」が家のお墓のとなりにあり、それを近々に閉じるご相談をしたいという。お子さんが結婚され、苗字が変わった娘さんお二人ということもあり、おうちのお墓に先行して、「兵隊さんのお墓」の墓じまいをしたいというご希望。

 その場で、お世話になっている石材店を紹介して、まずは相談からという形でおつなぎする。お墓のご相談は、肌感覚として、やはり多くなってきていることを感じる。

 お参りを終えたあと、午前中は諸連絡、デスクワーク。午後も引き続き、事務作業と、建築物に関する某NPO関係者と面会・相談、翌日の講演準備。

 19:00から、「そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう」を開催。 


先日投稿していた紹介記事 https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/913.html

18:00前から会場(本堂)の設営。池邊さんも到着。18:30ごろから、お越しくださった参加者のみなさんとゆるゆるとおしゃべりをしながら開会時間を待つ。開始前からよい時間。

19:00開会。参加者は11名。
参加者のみなさんに、葬儀についての経験や思いをグループで話してもらい、それを共有してから、池邊さんからのお話。
テーマである、喪主・遺族としての葬儀ということで、喪主はいったいどんな状況に置かれているのか、何を決めなければいけないのか、どんな準備をしておけばいいのかといったことから、アンケート結果から喪主が「知っておけばよかったこと」「後悔していること」等実用的なお話を通しながら、葬儀の本質や、遺族としての思い、気持ちに生じていくことにも迫っていくようなレクチャーをしてもらった。

 休憩をはさんで、参加者のみなさんのコメントや質問を受けてのトークセッション。


 葬儀の本質とはなんなのだろうか。一言ではいけないこと、一様ではないことが葬儀では起こっている。価格や形式といった実務的なことから、デス・エデュケーションという面、グリーフケアという面からも、問いを投げかけるような時間が続いた。 

 葬儀が健康保険やさまざまな諸制度の中で「保障」されていることからすれば、自身の最後や、家族をちゃんとした形で送っていくこと、すなわち葬儀をすることは、社会保障の一部として組み込まれているものであるということ、すなわちある種の「権利」であり、また「福祉」的なものであるという側面があることもあらためて考えさせられた。


 単に形式的なもので、高いお金がかかって、やる必要があるのかどうかわからない、というような疑問が呈されるということは、葬儀がちゃんとした葬儀として行われていないということの反映なのだろうとも思う。

 

 会は一応21時になったところで、いったんのクロージングをして、延長でお話したい人だけ残るという形式をとったのだが、ほとんど人が延長の予定時間を超えて22:00を過ぎてもまだ話が尽きないという感じだった。



 この葬儀というテーマは、話始めてみると気づく事、思いいたることが次から次に出てきて、予想以上に論点や視点が広がっていく感覚が生じるのだろう。 参加者のみなさんからも「いままでちゃんと考えてこなかったけれど、大事なことだとおもった」という感想もいただいた。

 話が尽きなかったので、またこの会は開催したいと思う。

 終了後、個人的に何人かの方が感想・フィードバックを送ってくださった。せっかくなので、ここに紹介させていただく了承をもらった。

   感想はこちら ⇒ 「そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう」 いただいた感想
   https://ryogo1977.blogspot.com/2022/09/blog-post.html



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【報告】当日ご寄付・協賛いただきました。これらは、このイベントの運営費に充当させていただきます。

 総額:15,600円

  ・当日受付のお布施・寄付・募金 8,600円
  ・ピーティックス経由の寄付  7,000円

 ご協力誠にありがとうございました。

 また、以下の口座にご寄付いただきましたお金は、西正寺の社会活動(イベントや寄付、その他地域・社会に関わる活動経費)に充させていだきます。

ゆうちょ銀行 記号14320 番号96919481 名義 西正寺(サイショウジ)
(他金融機関からの場合は、ゆうちょ銀行  四三八支店 口座9691948)



 

2022年9月12日月曜日

9月12日(月)島下組(しましもそ)仏教婦人会連盟研修会に。

 9月12日月曜日。快晴。

 午後から、大阪教区島下組仏教婦人会連盟研修会に出講させていただく。
 この研修会は、津村別院経由でいただいたお話で、もともとは2月に予定されていたものが、コロナの都合で延期になり、本日の開催。コロナの影響で、午前・午後の二部制になり、参加人数も調整されての開催。

 午前は、デスクワークと内容の確認等。
 12時過ぎ、荷物を車に積んで移動。(プロジェクターとスクリーンも持参するケース)
 会場は、吹田市の西福寺さま。中央仏教学院のK先生がご住職をお務めのご寺院。
 13時前。会場着。プロジェクターなどの設営を行い、待機。その間に、喚鐘を拝見。
 

 江戸期(延享年間)の喚鐘で、尼僧の供養のために、何人かの方たちによって寄進されたもののよう。銘文(陰刻)で独特のものがあり、拝見して楽しい。堪能した。
 (滋賀県の梵音具調査に携わったことがあり、喚鐘・梵鐘の類を拝見するのを趣味にしてる)


 14時開始。15時30分までの研修。SDGsがテーマ。
 とはいえ、1時間で、SDGsについて、網羅的に話すことは難しいので、概略をお話したあと、皆さんで考えたり、想像してもらう時間(ワーク)も取りながら過ごさせてもらった。


 身近に実践できるようなことを考えたいという要望もあったので、一杯のお茶碗のごはん
から、普段考えていることはどのようなことか、環境も含めて考えてみるとどうなるか?というような問いかけをさせてもらうような時間をもって過ごしてみた。
 
 やはり、普段お米を買うときは(私もそうなのだが)「いくらかな?」「おいしいかな?」「銘柄はなにがいいかな?」というようなことばかりを考えてしまう。 ところが「環境に配慮するには?」と考えてみると、炊き方、研ぎ方、お米の作られ方、運ばれ方…様々なところで、環境や他者と結びついているものが見えてくるようになる。
 そのほか、トウモロコシやバナナ、手のなかにあるスマホも、それを通して世界の状況や、さまざまな課題と結びついているというようなことを一緒に考えさせてもらうような時間を持った。
 「考えさせられる時間でした」というフィードバックをいただけて、一定お役目を果たせたのではないかと思う。 あとは、ちょっと調子にのって、いただいた時間一杯一杯を使ってしまった。(この辺りはごめんなさい)

 夕刻にお寺に戻り、デスクワークや、明後日の出講の準備など。

 明日、13日は、夜に「そろそろこれからの「葬儀」の話をしよう」を開催予定。


 ・(西正寺ホームページ)http://saishoji.net/archives/767
 ・(ぶつぶついうねん) https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/913.html
   ※開催の経緯や、池邊さんとのつながりについても言及。

こちらもどうぞよろしくお願いします。


【追記】
 夕刻、お寺にもどると、ご門徒のご葬儀の連絡が入っていた。急なご往生のお知らせで驚く。ご家族のお気持ちを思うと、言葉をなくしてしまう。



2022年9月10日土曜日

9月6日(火)ご葬儀のおつとめと出講の準備など

 9月6日(火)はれ、夕刻から雨。

 午前はいつもどおりお参り。12時からご葬儀のおつとめ。(昨夕はお通夜であった)
 すこし遠方にお住まいだったけれど、車でよくお寺・お墓にお参りに来てくださった故人。配偶者・お子様はいらっしゃらず、ご兄弟がお送りのご葬儀。
 喪主である弟さん、ご兄弟をお互いに送りあうという思いについてお話くださる。


 最近はつとにさまざまな形のご葬儀、お送りに合わせていただく。同時にさまざまな悩みや心配のお話をうかがう。 葬儀を担ってくださる親族がいないというケース。墓じまいやお仏壇の始末を考えなければいけないというお悩み。 お寺としてなんとかお応えしていきたいというような思いもありつつ、無責任に請け負うこともできないところもあり、いい形を考えねばと思いつつ、「思い」から次のステップに動けずにすぎてしまっているところ。うむむ。

 合間の時間に。事務作業や出講の準備などをする。夕刻、葬儀後の還骨・初七日のおつとめに向かう。


 


2022年9月6日火曜日

9月5日(月)NPO法人ReBitの中島さんが来訪

 9月5日月曜日。晴れ。
 午前中はお参り。月参りの他、お別れのおつとめ。
 先日電話をいただいて、初めてお参りするおうち。 亡くなられたあと、検査でコロナ陽性が判明したため、ご葬儀ができずにいて、本日おつとめさせていただくことになった。
 ご自宅で、お骨が安置された祭壇を前に、ご葬儀に近い形でおつとめさせていただいた。

 おつとめのあと、白骨の御文章を拝読し、すこし御法話。その後、おうちの方とお話をする。コロナで本来すべきはずとおもっていたご葬儀ができなかったことの思いや、こうやって改めておつとめできたことの安心感、それから故人に対する思いやみとりのことなどをお伺いする。
 
 いろいろなお気持ちをうかがえたこと。ご葬儀に大きな意味を見出してくださったおかげで、ご家族にも納得いただける、いい形のおつとめをご一緒にさせていただけたのではないかと思えるような時間だった。

◎中島さんの来訪

 午後、面会の約束をしていた NPO法人ReBit(https://rebitlgbt.org/)の中島潤さんが西正寺に来訪。
 
 

 以前より、親しくさせていただいている尼崎出身で、東京のH大学で教員をされているI.Nさんの紹介で、関西出張に来られるタイミングでお目にかかることに。

 ReBitさんの活動は、以前からお耳にしていたし、教材も買わせて頂いたりしたこともあった。改めて今回最近の活動や課題についてお話や、いろいろな雑談をさせていただいた。

 西正寺でしばらくお話した後、市内某所へご案内する。



 ReBitさんでは、現在無料でオンラインの「LGBTQ+キャリア相談」を一対一で受けられる機会を設定されているという。
 詳細は以下のサイトで。

 お話をさせていただいていると、感じることはビジネスやサービスとして、こういうコンテンツを出しているというよりも、相談や支援の活動中で感じたスキマやこぼれ落ちてしまっている人はいないかと、目配りしたさきに、あるいは相談を受け付ける中で聞こえた声に丁寧に向き合っていく中で、必要なこと、不足していることを手当てしていくうえで、広がってきている活動のように思われた。
 
 お土産にいただいたものが、このSHIBUYAクッキー。


 包装の裏に書いてあるのだが、用いられているフォントは障がいのある方が作ったもので、それを用いて収入になるような仕組みを作られているという。 まさかフォントにそういう可能性があるとは!という驚きとともに、いい仕組みだなぁと感心した次第。



渋谷のハチ公のクッキーが8個入り(大き目)ということで洒落が効いている。







9月3日(土)と4日(日)こと

 9月3日土曜日。はれ。

 午前、いつも通り、月参り。写真は、お参り先のマンションの廊下から六甲山の方向を望んだもの。とても気持ちよいお天気。

 午後、事務仕事、デスクワーク。

9月4日日曜日、はれ。

7:00、毎週日曜日の朝のおつとめ。2名の方と一緒に「正信念仏偈」のおつとめ。(西正寺のFacebookページでライブ配信しています。)

午前中は、いつもどおり月参り。(この日は法事などはなく、穏やかな日曜日)
午後から、オンラインのセミナーに参加。話題の某教団のカルト性や、社会的な問題についてがテーマの会。

3日、4日とインド学仏教学会の学会大会があったが、オンライン参加申し込みをしそびれて、参加できずに過ごす。残念。


 

 

9月2日(金)お墓のおつとめ・サマセミのアンケート入力作業

(西正寺にある合同墓のようす)

9月2日(金)晴れ。
 午前中のお参りに、お墓でのおつとめがあった。お墓を撤去されるので、その工事の前にお墓の改築に際しておつとめ。
 西正寺境内にある、とあるお墓。ご両親が亡くなられ、娘さんは結婚され別の名字になっていらっしゃる。またお孫さんたちは結婚され、また別のお名前にというように、あとを継がれる方がいらっしゃらなくなるような状況で、いわゆる「墓じまい」をなさるわけである。収められていたお骨は、西正寺の「合同墓」(上の写真)にあらためて納骨される。

 西正寺では、2018年に合同墓を建立し、ご縁の方の納骨をしていただけるようにしている。 
(2018年11月30日 西正寺合同墓 建碑記念法要のようす)

  この日のおつとめのあと、おうちの方とお話している中で伺ったこと。
「お寺で合同墓をつくってもらえて、本当によかった。」「墓じまいをする踏ん切りがつけられた。」「お寺でこうやってお参りしてもらえるから安心」等。
 このようなお声がいただけるのはありがたいこと。お寺のとりくみが、いろいろな安心につながっていると聞かせてもらえるのは本当にうれしい。
 
 実際にここ数年、いわゆる「墓じまい」の相談やおつとめは多い。
 石のお墓を持つということが、多くの人には難しい社会・暮らしになっているのだろう。
ずっと代々一か所に定住する形が主な形ではなくなってきたこと。これから人口が減っていくとともに、いわゆる「家」や、家名を存続していくことが難しくなるおうちも増えてくるのは必然となっている。お墓のかたちも、葬送の形もかわっていくことは、同じく必然なのだろう。
 すべてに対応することは難しいけれども、ちゃんと丁寧に向き合える準備をしていきたい。
 (お寺の境内にある柿の木。実が少しづつ色づき始めている)

◎みんなのサマーセミナー実行委員会 ・ サマセミアンケートの入力
 18:00。みんなのサマーセミナー実行委員会の活動。 立花南生涯学習プラザに集合して、サマセミのアンケート入力と、感謝祭開催の準備作業。みんなそれぞれ仕事終わりなどに、順次集まってきて、わいわいといいながら、アンケートの入力など作業を行う。

 雑談や、世間話もしながら(というか、それが大半)、あーだ、こーだいいながら作業。
 3時間くらいかかるかもーと言っていた作業が、人手が多かったこともあって1時間ほどで終了。
 
 面倒な作業もみんなで集まってやると楽しい。
 サマセミの実行委員会では、そういう一般的には面倒で人手がいる作業を「祭り」と称して、わいわいいいながらやってしまう空気がある。これもまた楽しい。


(子どものように、紙飛行機を飛ばして喜んでいる人がいる。笑)



2022年9月3日土曜日

9月1日(木)伝道院の夜座を開催する イベントから「営み」へ というテーマ

 この記事は、こちら投稿の続きです。
 (https://ryogo1977.blogspot.com/2022/09/91.html) 

 上に書いた講義を終えた後は、伝道院のお夕事(ゆうがたのおつとめ)に参加し、オンラインでの打ち合わせを1本。そのあと19時から、先週に引き続いて、伝道院の「夜座」(よるざ)が開催された。

 夜座については、これまで以下の投稿で触れてきた通り。

 ・8月23日(火)「法座を開く」というカリキュラムについて

 ・8月25日(木)布教使はお聴聞の方に育てられている…のだと思っている

 前回(8/25)は、プレオープン的な形になってしまい、正式には今夜(9/1)が一回目。
 伝道院の正面玄関を開け、外部からお越しいただける方をお出迎え。伝道院内に入ることができるというだけでも、実は貴重な機会でもある。
 

 この日は、14名ほど(目算)の方がお越しいただけた。前回から引き続きお越しくださった方、情報を見て足を運んでくださった方、龍谷大学の学生さんらしき方、布教使関係の方もいらっしゃった。個人的にお久しぶりの方にもお会いできたといううれしいこともあった。

 先週同様、受講生の法話は、やはり緊張を感じながらだけれども、伝わる言葉で丁寧にお話されていたという印象。回数が浅い回だけあって、新奇性や物珍しさが参加者の中にも感じられる。

 

 終わった後、受講生のみなさんと共有させてもらった課題感は、これをイベント事からどのように「営み」へと進めていくかということを考えているという視点。

 基本的に「個人的所感」ではあるけれども、やはり新奇性やものめずらしさで、最初のうちは足を運んでもらいやすいのだろうとおもう。しかし、何があるかということがわかると、主催者側は(こうやっておけばいいのだという)「安心」が積みあがってくるがそれは、参加者側からすると(なにがおこるかだいたいわかっているからという)足離れにつながってくるのかもしれない。

 定期的な法座にお参りをする、仏さまにお参りをするというのは、イベントというより「営み(いとなみ)」といった方がいいのではないかと思っている。同じことが同じように行われる法座に足を運ぶ営みの場へと進んで行くという選択肢もあるようにおもう。個人的にはそちらのほうが、この場としては望ましいように思っている。

 それはある意味で、新奇性のあるイベントから、日々のあるいは定期的なあたりまえの営みへの「昇華」ともいえるのではないかとも思っている。


 ともかく、この回も「法座」であり、いい時間を参加者のみなさんと過ごさせてもらった。ありがとうございます。

 

 京都から車で帰宅。22:00に名神高速道路が工事で通行止めになったのにぶちあたってしまって、とろとろと下道(国道171経由)で帰宅。 折からの大雨にも見舞われつつ帰宅。



9月1日(木)伝道院で陸奥賢(むつ・さとし)さんの講義を開催する

 9月1日(木)。晴れのち にわか雨 のち豪雨に出くわす日。


 人間ドックの翌日。朝起きた直後から、受診後に口頭で受けた結果が頭のなかに意識されている。「身や内臓についた脂肪を減らせるように生活しよう」とか「来年はいい結果を出そう」とか思ってしまっている。レコーディングダイエット等が効果的なように、健康診断が健康に対する意識を向上させている。(後日、当日はまだ結果が出ていなかった受診結果も含めた詳細な報告書が送られてくる予定)

 とりあえず、背筋を伸ばして、姿勢よくすることを心掛けるところからはじめよう。

 さて、9月1日。上のように思ったのは、8月が終わり、9月という新しい1か月が始まったということに由来するかもしれない。

 午前中は、月参り。午後~夜まで伝道院に出講というスケジュール。

◎陸奥賢(むつ・さとし)さんという人

 この日の伝道院の午後の講座は、「鬼才」と評せられもする陸奥賢(むつ・さとし)さんhttp://mutsu-satoshi.com/profile/をお迎えしてお話を伺う日。中平は聞き手・コーディネート的に参加。

 陸奥さんは、大阪・浄土宗の応典院https://www.outenin.com/さんとの関係が深く、私も応典院に足を運ばせていただく中で面識・知遇を得た。陸奥さんが応典院ではじめて実施され、もっとも有名になっているコンテンツが「まわしよみ新聞http://www.mawashiyomishinbun.info/だろう。全国の各地の自治体・学校、さまざまなイベントで実施されている。(読売教育賞 NIE部門最優秀賞受賞。三省堂高校国語教科書『明解国語総合』(平成29年度版)採択。という成果も得られている)。

 詳細は上記の陸奥さんのホームページなどで見てほしい。このほか、「直観讀みブックマーカー」や当事者研究スゴロク」、歌垣風呂」「大阪七墓巡り復活プロジェクトなどさまざまな興味深い取り組みを主宰されている。

 肩書は、「観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者」…。正直、何一つとして、明確にわかるものがない…何者!?(笑)

 しかし、今回本願寺派が陸奥さんをお招きするということで、感嘆の声が他派さんの僧侶方一部から上がったという声を聞いた。(笑)



◎伝道院での講義とは?

 陸奥さんとの講義、今回は3時間という枠を、3コマに区切るようなイメージで構成していただいた。
 1:講義の概要と、陸奥イベントの体験(直観読みブックマーカー)
 2:陸奥さんの実施されるイベントのあれこれと面白さ
 3:陸奥さんの宗教的なバックグラウンドとは?
というような構成。

 今回陸奥さんに担当いただいたテーマは「法座をひらこう」という、お寺での新しい法座・企画を創発していこうというプログラムに関するもの。人のつながりや、イベントを実施する際の実例として陸奥さんの知見をお話していただいた。

 陸奥さんからお話をいただくなかで、キーワードであったものが「出遇う」「偶然性」。意図せざる出あいや、他者性との出あいというものだろうか。場のなかに、コントロールできない偶然性が織り込まれ、もたらされるようなデザインともいえるかもしれない。

 法座やイベントを実施すると、ついつい主宰する側が望む結末や、参加者の変化ということを求めてしまいがちなところがある。しかし、陸奥さんのデザインするコンテンツは、そういうものからいかに距離をとるか、というところに腐心されているかのように思われる。

 目を閉じて、本に祈り、適当に開いて指さしたところにかかれている言葉に答えを求める(直観読みブックマーカー)とか。そもそもの著者・本の意図さえも無視した文脈に、人も書物も置きなおし、その場限りの読み方・言葉を立ち上がらせる。何が起こるか、やっていみないとわからないこと、この上ない。

 婚活的なイベント「歌垣風呂」は、個人的にはこの上ない最高の仕掛けがそなわった婚活イベントだと思っている。男女のお風呂を隔てる壁によって、視覚による情報(見てくれ)を排除して、「短歌を詠む」という声と言葉選びのセンスのみをたよりにマッチングするということによって、普段は「対象外」の出あうはずのない人とマッチングさせられる。
 また、主催者もその場にいかないとわかりえない、言葉や視座、出会いの偶然性に身をさらすことになる。

 自分自身もそういう限界と反省を抱えながらという上でいえば、講義や講座、法座という取り組みをする中で、そういった主宰者性(場を手のなかに収めたいという欲求)をもって、場や参加者、イベントの結果を当初設定のゴールに持ち込むことをよしとするようなありかたをしてしまっている場を反省している。それが望まれ、そのように行わざるを得ない状況もあるけれども、そういった場の息苦しさや限界も時に感じてしまっている。

 場にゆだねること、偶然性に身をさらすことで、主宰者、講師と位置づけられる側の人間もその場によって変化させられ、学び・気づかされるという成果を手にできるような気がしている。

 イベントや行事ごとといえば、参加者や売り上げといった数値的な、すぐにわかりやすいところで成否が語られ、注目があつまるところがあるが、本質的にはそこで何が起こっているのか、どんなことがおこったのかということを見ていく必要があると思っている。それはある意味で、見る目を持った人にしか見えないものであるかもしれないが、そういった視座をどこに置くのかということを考えさせられる投げかけをしていただけたように思う。

 最後の時間は、陸奥さんの宗教的バックグラウンドをうかがう。表層として立ち上がっている陸奥さんの企画の奥底には、陸奥さん自身の宗教に関する経験や、経歴と無関係ではないものがあり、必然としてそういう人格的な部分と取り組みが結びついているようなところをうかがった。非常にディープな、陸奥さんならではの経験と知見をお話いただいた。

  (ここまで書いて、もっと僕もこの講座に対して「偶然性」に身をさらしておけばよかった、さらすべきであったということ、そしてもうちょっと僕にコーディネート・聞き手としての力量があれば、と反省が生じている)


 

 講義の終了後、まわしよみ新聞が10周年を迎えた記念行事が行われるそうなのだが(祝!!!まわしよみ新聞創刊10周年記念イベント~それは應典院コモンズフェスタから産まれた!~)こちらに、ゲストでお招きいただくことになった。これは楽しみ。


 「夜座」へと続く(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/09/9.html



2022年9月2日金曜日

8月31日(水)初めての人間ドックにいってきた。

 8月31日(水)お天気は晴れ。
 31日は月参りもなく、かねて予定していた「人間ドック」を受けに朝から、尼崎の新都心病院へ。

 研究所や大学で勤務していた時にはその所属先が定期の健康診断を受診していた。けれども、非常勤になり、またコロナで京都に足を運ばなくなると結局、健康診断をうけられないままに時が経ってしまった。3年ぶりの健康診断になるだろうか。40代も半ばを超えたこともあり、どこかおかしなところが出てきても不思議ではないということもあり、一度やってみたいと思っていた人間ドックをガッツリと申し込んでみた。

 お寺で加入している「協会けんぽ」の健康保険を用いた差額ドックが受診できることもあって、すこしお安く利用することができる。

 8:15から11:30頃まで、今まで受けたことのない検診も含めてがっつりと調べてもらった。エコーを使った検診、「胃カメラ」による検診も受けた。 

 胃カメラ、これがなかなかキツかった。予想したよりしんどかった。
 カメラが入ってくるタイミングで、のどに触ってえづきがあったり、鼻からカメラをいれたのだが、鼻の穴が大きくなかったこともあって、すこし鼻血を出したり。カメラできれいな胃が見えたということはあったが、身体的にはちょっときつさがあった。苦笑

 人間ドックを終えた後、杭瀬の市場へ。
 ハオチー食堂で昼食。ここにはコミュニティナースのしゃくさんがいる。人間ドックを受けた後、コミナスに話を聞いてもらうというのもオツなもの。

 昼食のあと、古書店・二号店の軒先で開かれていたスナックに、建築会社の社長さんといすを並べる。スナック菓子を片手に、おじさんの昔話を女子高生に聞いてもらう。わけわからん構図。  



 市場でおかず(お豆腐・唐揚げ等)を買い込んで、いったん帰宅。
 その後、事務仕事と、おさな子をこれまた健康診断に連れていくミッション(運転手)。

 

 



2022年9月1日木曜日

8月30日(火)カードゲームをする予定の講義だったのに、カードゲームを忘れて講義に行くという失態。

 8月30日火曜日、晴れ。
 午前中は月参り。いつもどおり、父の前住職と分担しておつとめ。

 午後から伝道院(布教使課程)に出講。この日は「法座をひらこう」(実例に学ぶ)という枠。先日の教義的なものではなく、実践的な内容。
 13:30~16:30の3時間。休憩をはさみながら3コマのイメージで、
 1:現代社会と宗教の関係(理論的・概念的側面として、世俗主義について講義する)
 2:現代の諸課題や解決の手がかり、それからお寺の活動のヒント・手がかりを学ぶワークショップとして、ATTF2というカードゲームをする
 3:中平がやってきた実例として、西正寺の活動を紹介する

という3本組のイメージ。

◎ATTF2


 2コマ目のカードゲーム、ATTF2とは、Amagasaki to the FutureⅡ(アマガサキ・トゥ・ザ・フューチャー2)のこと。尼崎市が、市制百周年の記念の一つとして制作した、まちをしり、まちの課題を考えるカードゲームで、行政だけでなく多くの市民と一緒に制作したもの。私もお声がけしてもらい、制作のワークショップなどに参加して、関わらせてもらった。

 詳しくは紹介記事などを見てもらおう。
 → みんなの尼崎大学 ATTF https://www.amanokuni.jp/ucma/attf/

 →(ATTF1)https://www.amanokuni.jp/ucma/attf/entry-461.html

 → 尼崎市公式ホームぺージ https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/shisei/si_mirai/kyodo_sikumi/1016069.html

このATTF、いろいろなところでプレイしてもらっているが、とても汎用性が高くて、尼崎を知るだけではなく、お寺のとりくみや、地域一般・社会課題とどう向き合っていくのかとう手がかりを得ることもできるゲームだと思っている。
 実際に、担当している中央仏教学院(社会伝道論)や、園田学園女子大学の講義(つながりプロジェクト)でも活用し、学生さんたちにプレイしてもらっているが、いつも好感触。

◎ATTFを忘れてくる

 さて、そんなATTFをするぞと、思いながら、調子よく伝道院まで移動し、荷下ろしをしているところで気が付いた。ATTFのカードゲーム(4セット)を車に積んでいない!(汗)

 取りに帰る時間はない。2~3度見返すが、クルマにはやはり積んでいない…。比較的頭の中は冷静に「あー忘れたな」と。忘れ物やうっかりが多いことは自覚しているが、ふっと確認を漏らしたタイミングで、こういうことになる。つくづく自分がいやところだが、もう長年付き合っているので、「あー、やってしまったな」と自分に対するあきらめも処方出来ている。


 さて、どうするか。実際にプレイしてもらう楽しさは、また別の機会にカードゲームを持ってきてやるとして、イメージしてきた講義を組みなおさないといけない。
 ちょうど昨年、同様にATTFを講義でする予定だったところが、オンラインの講義になってしまって、オンラインでも疑似的にATTFが体験できるように、カードの画像を取り込んでプリント資料にしていたものがあった。それを、急遽資料として配布してもらい、カードとは少し違う体験になるが、そちらで 町のおたからや、町の人の声にふれてもらい、ゲームのエッセンスを感じてもらった。

 そういうオルタナティブな方法でも、グループごとに盛り上がってあれこれと解決策を出してくれていて、ATTFの面白さを改めて感じることだった。ATTFスゴイ!!(改めて、カード忘れてごめんなさい。ずっと反省しています)

 一方で、「ATTF忘れたどうする!?」という、問題にきっちり手持ちの材料から代替案が作成できたというのはこれこそATTFの精神ではないかと、ひとり振り返ったりもした。


 伝道院の講義終了後、伝道院のお夕事勤行にお参りして、帰宅。
 帰宅後確認すると、きっちりとイスの上に、紙袋に入ったATTFのセットが忘れられた状態で置かれていた。。。。涙
 荷造りをして、カバンから荷物を出し入れした最後にきっちりと、イスに一時おいたまま、クルマへと向かってしまっていたのだ。今回の失敗は忘れない。(またするかもしれないけれど、反省材料)

  



 翌日は人間ドックに行くため、所定の時間までに食事を終えて、就寝。



 



2022年8月29日月曜日

8月29日(月)断固たる休日

 8月29日(月)。今日は、お参りの予定もなく、出講も会議の予定もなく、休日。
業者さんやもろもろの予定が入りそうになったが、休日にすることを想定して、別日に調整をしていた。急なおつとめも、所要も入らなかった。まごうことなき休日。

 昨日の公開講演会がおわったところから、「終わった!休みだ!」感を堪能した。
 

 今朝は、目覚めてから、昨夜力尽きて残していたお皿やお鍋などを洗い、幾つかの家事をしてブログを書いた。昼前からは買い物に。来月から保育園に通う子どものために、必要なものを買い出しに。買い物は半日がかり。

 夕刻、いろいろとお世話になっている伊丹のクロスロードカフェが 20週年を迎えるということで、お花を買ってお祝いに。たくさんの人のお祝いのお花が届けられていた。滞在中も、いくつかお花が持ち込まれていた。



 クロスロードカフェに足を運び、交流させてもらったのは、ここ5~6年のことだけれど、毎回新しいつながりをもらったり、刺激的な情報に接したりさせてもらっている。
 大きなイベント事より、地域の人たちとつくられている日常がここにある感じがしている。こんな場所が、もっといろんなところにあったらいいなぁ。

 帰宅後、クロスロードカフェでテイクアウトした夕食を食べる。
 明日からまた、積みあがっているお仕事をやっていこう。



8月28日(日) 「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(2)

 8月28日 こちら(「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(1))の続き

 8月28日の午後は、公開講演会「戒律とはなにか?」。こちらは、先月に第一回(第一回の記録はこちら)を開催したものの2回目。前回は、そもそもの「戒律とはなにか」についてお話いただいたが、今回は、仏教における「自死」の問題。

 講師の大谷由香先生は、「不殺生と自死」という論文で、中外日報社の第18回「涙骨賞」という賞を受賞されている。受賞論文は全文こちら(https://www.chugainippoh.co.jp/info/ruikotu/ruikotu018-01-001.html)から閲覧できる。

 本堂には約30人の参加者。西正寺の門徒さんや、恒例の勉強会(はすの会)に参加してくださっている人の他、大谷先生や講演内容に関心を持ってきてくださった方、園田学園の担当している講義の実習として参加してくれた学生さんなど、多様な顔ぶれ。


 講演内容を大谷先生のお話は、要約すると以下のようなことなどをお話いただけたと理解している。

 ・(前回のおさらい)戒律とはなんだったか
 ・ 殺戒(不殺生戒)の成立とはどんな経緯があったのか。
   → 不浄観を修行した比丘たちの希死念慮と、大量殺戮事件(恐ろし)。
 ・ 自死は殺戒に抵触するのか?
 ・ 自死に対してお釈迦さまはどのように接せられたのか?
 ・ なぜ「自死」は罪であるというような観念が生じてきたのか?
   → 近代以降に発生した比較的新しい観念。芥川龍之介の遺書等を引きつつ、近代以前は「自死」は忌避されるものと考えられていなかったのではないか?というお話も紹介された。

 休憩をはさんでクロストークでは、

・釈尊以来、仏教は自死ということに向き合ってきた歴史がある。

・その中で、自死を推奨していくのでも、また自死を断罪するのでもなく、非常にあいまいな態度をとっている。しかし、その「あいまいさ」「許容する姿勢」が希死念慮を抱く人にも、居場所を作ることになっていたのではなかったか。


・修行者、比丘が、生きていくことに苦しみを抱えて、希死念慮を抱くということは、「苦しみを離れる」ということをテーマにしている仏教でどのように理解すべきか?
 → 仏教が「苦しみ」を問題としていく中には、、泰然自若とした、苦しみを超克した境地を揺るがない境地を獲得していくということもあるが、より現実的には、苦しみを抱え続けて生きるということをそのままに引き受けていくという姿もあるようにおもう。 その意味で、比丘が「自死したいほどの苦しみ」を抱えていることは、彼(比丘)が仏道修行に失敗していた姿ではなく、彼が仏道そのものを歩んでいる姿であったと見ることもできるのでないだろうか。
 事実、史料には、おしゃかさまは、その自死した仏弟子を批判するのではなく、彼は悟ったのだと、たたえていることもそのような見方も支持されうることを示しているように思う。


 会場からも、自身の研究テーマが自死という学生さん、上座部や他の戒律との関連から質問をされる方等、多岐にわたった。16:00過ぎに終了した後も、ゆるゆると延長のエクストラタイムを持たせていただくなど、総じて楽しく、前向きに大谷先生のお話くださったテーマ問題と向き合う時間を持たせて頂けた。



 改めて、今回ご多用の中に、時間を割いて準備し、尼崎まで足を運んでご登壇くださった大谷先生にはお礼を申し上げたい。(ありがとうございました)
 そして、ご参加くださったみなさん、関心を持って見守ってくださったみなさんにも、ありがとうございました。
 

 ◎今回の講演会企画について
 人文学の知見は、多様な価値観(さまざまな社会の価値観や、歴史的に変遷をたどって形成された価値観等)にふれ、今・ここにいる自分を相対化するまなざし、絶対的だと思っていたものがそうではないと気づかされる視点を得させてくれるものであると思う。
 また、仏教・浄土真宗の知見にふれることで、人生の問いや苦しみに処していくうえでのヒント・手がかり(答えではなく)のようなものが得られることがある。そういった学問的空気、(健全な)宗教的空気が当たり前のようにある地域は、きっと物質的ではない豊かさがあるのだろうと思っている。

 大学という専門機関ではなく、地域にあるお寺でこのような講演会を開催することは、そういった地域を精神的に豊かにしていくことにつながっていくのではないかと思っている。また、それは、すこし人よりながく人文学と呼ばれる領域で学問をさせてもらった自分にとって、今までのキャリアから得たものを、お寺に、地域にお返しできるものの一つであるように思っている。

 今後も継続して、いろいろなお話を聞いたり、話したりする機会を設けたいと思っている。関心に合うものがあれば、どうぞよろしくお願いします。









8月28日(日) 「おてらのそうじ(34)」と公開講演会「戒律とはなにか?」(1)

 8月28日日曜日。
 7時15分から、おてらのそうじ、34回目。
 月に一度、お寺に集まってそうじして、朝ごはんをたべる会。

 今月はひさしぶりに、ご飯を炊いておにぎりを、それぞれで握ろうという予定だったので、集合前に6合ほどお米を研いでしかけておく。

 7:15開始。開始時には6名くらい。勤行をし、ストレッチをしながら自己紹介と近況報告、そして順次おそうじへと進んでいくと、10名弱に。


 それぞれ、本堂の外陣の掃除機かけ、縁側の雑巾がけ、お墓の掃き掃除などをしてくださる。僕は、内陣のほこり取りや、午後の講演会のために什物の移動等。



 8:00過ぎ、おそうじを終えて、朝食。それぞれがもちよってくれた具をつかいながら「おにぎり」を作って食べる。飛沫・感染に気をつけながらワイワイと。

 終わった後、コーヒーやお茶を飲みながら、時間の許す限りゆるゆると。

 少し雲がかかったお天気で、気持ちよい風がとおる涼しさがあった。ゆるゆる、のんびりとした気分。気の置けない人たちとのおしゃべりも楽しく、いつまで、ゆるゆる、のんびりておきたい気分。

 9:30すぎ、お参りへ。午後からは「公開講演会」が予定されている。








2022年8月27日土曜日

8月27日(土)3年ぶりに盆踊りが開催されていた

 


8月27日(土)。はれ。

 朝、移動中にJR塚口駅前の公園に、やぐらが組まれているのを見かける。青年会のみなさんががんばって、準備をしてくれていた。それを見て、「おお!盆踊りあるのか!」と気が付く。
 コロナで3年ぶり。
 

 お昼過ぎまで月参り、法事のお参り。
 午後はデスクワーク。
 夕刻は、盆踊りに参加。幼子は、はじめての盆踊りで大きな音に驚いていた。



8月24日(水) 住職継職奉告法要の会議をするなど

 8月24日水曜日 晴れ。
 月参りとお葬儀のおつとめ。
 故人は、古くからお寺とお付き合いの深かった御門徒のおうちの方。いろいろな思い出とともにお送りをする。

 午後、資料作りやもろもろの調整の作業をし、15:00から「住職継職奉告法要実行委員会」。11月3日に、住職継職奉告法要を予定している。2020年5月に予定し、延期・再延期を経て、3度目の正直のような、開催を目指して準備しているところ。
 16名ほどの御門徒が実行委員として会議に参加してくださっている。今回は、前回からの進捗、記念品や発注内容の確認、現在の参加の返信数の報告、そして、当日のタイムスケジュール(大枠)の報告等を行った。
 大きな議題もなく、時間を割いて集まっていただくことに恐縮な思いもあるが、マイルストーン的にこういう会議を持たせてもらうことで、自分自身の準備作業の動因にもなり、進捗確認にもなるので、非常にありがたい。(本当に、進捗確認になり、ありがたい。大事なことなので、2度言う。)

 細かな疑問や、調整が必要な指摘もあり、やはり投げかけて相談すること、一人では見えない視点をもらうことは大事だとも感じる会議だった。西正寺の御門徒のみなさん、本当にサポーティブなかかわりをしてくださっている。ありがとうございます。


(これは、先月(7月)に案内状の発送作業をしてくださっているときの様子)

 会議後、会場の片づけ等をして、通夜のおつとめに。
 お参り→葬儀→会議→通夜というスケジュール。当初予定以上に詰まってしまったが、務めをひとつひとつ務めとして行っていきたい。
 
 故人は、父の同級生で幼馴染のような方。小さいときにはよく一緒に遊び、中学校は毎日一緒に登校していたという。ご家族とのあいさつのときにも、そのお話を共有させていただいた。お通夜のおつとめをしながら、故人のこと、ご家族・参列の方のことを思うとともに、翌日の葬儀で導師を務める前住職(父)は、どのような思いで故人と向き合うのだろうか、などとも思う。 とはいえ、あらためて直接聞くようなことはしないが、そんなふうな問いが頭に浮かぶ。

 通夜を終えて、お寺に戻った後、葬儀の準備。それから翌・25日にある布教使課程での講義の準備。これはひとえに自分の怠慢であるが、資料の準備があまり進められていなかったために、12時を過ぎるまで、どうしようか、こうしようかと、作業をし続けることになった。 汗。




2022年8月26日金曜日

8月26日(金)NHK文化センターの講義で 梅田にでる。

 (遡っています。)


 8月26日(金)

午後からNHK文化センター(梅田教室)の講座へと出講。


 電車で大阪へ出る。久しぶりに電車に乗っている人、都会を行きかう大勢の人を見る。
 あらためて、人を”見る”だけで刺激があるものだと感じる。
 これだけの人にそれぞれの生活があり、いろいろなものがあるのだという想像が、リアルな人をみることによって、おのずと立ち上がってくるのだろう。うまく言語化できない「刺激」がたしかにあった。

 講座は、『歎異抄』の第十三条。先月に引き続いての箇所。
 「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」。縁次第でどのようなことをするかわからないのが、われわれ人間というものである。むしろ、縁によって、自らのありようやふるまいがきまっていってしまう、それしかないというところに、凡夫の凡夫たる根拠があるようにも考えている。真実なるもの、たしかに握りしめられるものがあれば、「縁」によって左右されることはない。それを握りしめ、うしなわなければいいのだ。しかし、そういったものが、わずかばかりもないのだと、看破するところに、浄土教思想がつないできた人間観がある。

 講座は、ついつい難しい方へ流れてしまいがちになるが、ずっと受講してくださっている受講生のみなさんには感謝である。

 

2022年8月25日木曜日

8月25日(木)布教使はお聴聞の方に育てられている…のだと思っている。

 (※現在8月29日、さかのぼって記述している)

 8月25日(木)。晴れ。

◎法務
 午前中はお参り。前日に記載していたように葬儀のおつとめもあったが、父に導師をつとめてもらい、私の方は通常の月参りを中心にまわる。


◎伝道院に出講

 午後からは、京都に移動し、伝道院にて布教使課程の講義に。7回シリーズの七祖の講義、5回目で善導大師。
 前日の夜中1時ぐらいまで、どうまとめたものかと、試行錯誤していた。
 13:30~16:30までの3時間。古今楷定のポイントをテキスト記載の事項を中心にまとめてお話する。

16:45の夕事勤行では、法話を担当。力なきものの力、無力なものの力、ということを、こちらに、以前書いていたことを例に出しながらお話した。


◎夜座(伝道院)

すこし待機時間を経て、19:00からは、夜座をおつとめ。
夜座については過日ブログに書いたこちらの記事「「法座を開く」というカリキュラムについて」(https://ryogo1977.blogspot.com/2022/08/823.html)を参照されたい。

 19:00からの夜座は、布教使課程の研修生が中心になって運営してくれた。
 外部からの参加者も数名あり、いつもとは違う緊張感もありながら、「仏教の法味・よろこび」を同じくする人が集う場ならではの、雰囲気もあったように思う。

 開会のあいさつ、説明のあと、勤行、研修生2名からそれぞれ15分ずつの法話、その後、休憩はさんで意見交換会、散会というスケジュール。

 正直いうと、想像以上によかったという印象。
 受講生の皆さんは、非常に丁寧に真摯に、運営・進行をされていた。拙さを感じる部分はあったが、それもふくめて丁寧さ・真摯さとして伝わるものがあったように思う。
 やはりお聴聞の人がいらっしゃると、緊張感は増すようで、いつも以上に法話する受講生が緊張していたのが伝わってきた。また、普段ならしないと思われるようなところで、お話することが飛んでしまうという部分も。しかし、それでも場がしらけたりすることはなく、むしろあたたかな雰囲気で、話し手を見守ってもらえているようであった。

 細やかなところはともかくとして、このような「法座」を経験できたということは、研修の上で、その意味は小さくないように思っている。他所に出ることなく、伝道院の中でこのような実際の法座を開催し、実習できる場を得たということ。そして、その場で得られるものは、自身の技術を磨くということだけはないように思う。

 住職・僧侶がよく言う言葉に「門信徒に育てられる」という言葉がある。布教を行う布教使もお聴聞してくださるみなさんに育てられるのだろう。講師ともよばれ、話し手である布教使の方が、聴衆(お聴聞のみなさん)に育てられるのだ。
 そのような意味で、なによりの研修・教育の場がこの「夜座」ではないかとさえ思える。

 今回は法話する上で「失敗」があったが、あたたかく見守られる空気があった。そういう経験を研修生さんができたこともよかったと思っている。

 人前で話す立場になって思うことだが、話し手側の自信やスキルなどは、時として非常に脆く崩れ落とされてしまうことがある。自分の側に積み上げる自信よりも、その身を置いている場、目の前にいる人に対する信頼の方が自分のなかでは、より大きなものではないかと思っている。失敗したときも、あたたかく見守ってもらえたという経験、場合によっては助け舟が前から出してもらえるかもしれない、投げかけに応じてもらえることもそうかもしれない。法話や講演の現場は、目の前にいる人が「敵」や「評価者」ではなく、その場を楽しみ、期待して足を運んでくれた人であるということ、一緒にこの場(今回は「法座」)を作ってくださる仲間となりうる人であると信頼したうえで場に臨むことで、まったく異なる地平が開かれてくるのではないだろうか。

 今回研修生のみなさんに伝えられてよかったと思っていることは、そういう「場」、目の前にいる人に対する信頼を持ってその場に立つということができるのだということだったように思っている。これは、研修機関ではおよそできない、リアルな現場・法座だからこそ立ち上がってくる空気間ではないだろうか。

 この「夜座」これからうまくいくこともあれば、うまくいかないこともあるだろう。お聴聞の人が今日のようにいらっしゃらないこともあるだろう(きっとあるはず)。そういう「人がこなかった」ということも含めて、場を作っていく上で、(法座を開設するというこの枠組みの設定からすると本来的な意味で)生々しいリアルな経験を積み上げていくことができたらよいと思っている。


 
 



 

8月23日(火) 「法座を開く」というカリキュラムについて

2日ほど記録がつけらずにすぎてしまった。(現在8月25日)

 8月23日火曜日、晴れ。
 午前は月参り、午後は京都へ伝道院(布教使課程)へ出講。夕刻、尼崎戻り、通夜のおつとめというスケジュール。
 月参り3件。すこし余裕もあったので、自転車で移動。 バイクや車だと、ただ「移動」で終わってしまうところが、自転車くらいのスピードだと、ゆったり風景を眺めたり、すこし頭のなかで考えを巡らしたりしながら移動できるような気がする。精神的に少し落ち着けることもある。(自転車にのりながら、それができないときももちろんあるが)

 午後、車で京都へ移動。伝道院(布教使課程)の講座で、山口の荻先生、北九州の松崎先生と、オープンな法座(夜座と命名)の企画を担当。研修生のみなさんと、広報や、法座の内容などを詰めていく企画会議。
 25日木曜日を第一回に予定し、準備をすすめてきていた。この講義中に話をまとめ、広報を始めた矢先に、諸事情から「25日はクローズドで」開催することになってしまった。 非常に残念。 

 来週以降は、公開できるようにしたいとおもっているので、関心をもってもらえたら足を運んでいただけたらうれしい。



◎「法座」ってなにか。

 おつとめ(読経)をし、ご法話(お説教)をお聴聞する機会を「法座」と呼んでいます。
 浄土真宗の場合は、教えにであう機会、教えを聞き、味わう機会を「法座」と呼んでいます。 布教使課程という、布教使を養成する課程で、「法座を開設する」、つまりお説教をする場を自ら開くというカリキュラムが設定されています。
 これは、私個人は大変意味深いものだと思っています。これまで、浄土真宗本願寺派の「伝道」といえば、主に「法話・お説教をすること」つまり、「話し、伝えること」を習得することに多くの時間を費やしていました。(このほか、教えや聖典を学ぶことはもちろんですが、それはいずれもインプットに当たります。つまり、アウトプットのほとんどは、「話すこと」に全振りだったといってもよいかと)

 実際に布教使となれば、全国の別院やお寺、そして本山で布教する機会を得ていくことになります。しかし、いま起こりつつあることは、既存の法座がどんどんと規模が縮小していること、あるいはそもそも成り立たなくなっていることです。従来型の法座・法要は、寺院のコミュニティの変化、門信徒との関係性のうつろいから、右肩下がりであることは否めません。 場が成り立たなくなりつつある中「伝道する」ということは、既存の場に安住するのではなく、新しい「法座」を作り、新しい関係性を切り結んでいくことこそが必要なことだと思っています。

 今回、布教使課程でチャレンジされている「法座をひらこう」という名のもとで行われる一連の研修には、そういった今の社会の変化の中で必要な資質や能力を磨こうというチャレンジ精神があると理解しています。 

◎ 「法座」の補足

 ただ、そういった「新しい法座をひらく」というと、どれだけ新規性のある人が来たか(要は人数や規模)といった外形的に「わかりやすい」評価軸を求めがちになりますが、担当している講師の一人として、僕はそういった「わかりやすい」ものではないものを、どれだけ大事にできるかも問いたいと思っています。

 法座は、お参りに来てくださった方、そして初めて参加される方をおいてけぼりにしたり、「わけがわかんない」となってしまってはいけませんが、一方で単なる参加者へのサービスや楽しませというものになってもいけないと考えています。
 参加者の評価やわかりやすい成果が求められる本質ではないのだろうと思います。

 法座の本質は、主催者である僧侶(住職)自身が、法座をひらくことにあるよろこび(お経をおつとめすることのよろこびや、教えを聞くことのありがたさ、うれしさ、よろこび)を一番に感じて、そのよろこび味わいが、同心円状にひろがっていくようなものなのではないかと思っています。 あるいは、参加者の門信徒の方の方が、より大きなよろこびを感じ、それを発露させることが、僧侶(住職)へと伝わり、さらにそれが法座をひらくモチベーションになることもあるかもしれません(つまり、参加者の方から同心円状にひろがっていくという形)。

 いずれにせよ、法座の本質とはなにか、なにが一番大事かと考えたときに、だれかが誰かのためにサービスをしてよろこばせることや、そのための義務や負担を背負うことではなく、その法座の営み自体が、教えに触れるよろこびの発露であるようなところが本質的なことではないかと思っています。

 この伝道院で行われる「夜座」(オープンにされている機会)は、伝道院の研修生が中心になっておこなわれています。それは、その研修生のみなさんが、普段されている営みとしてのおつとめ・教えが、あじわいあるものとして、よろこびあるものとして勤められているかが問われ、そこにある思いが伝わっていく機会でもあるのだろうと思っています。

◎そして、夜

 伝道院の研修を終えて、帰途。帰坊後、すこし休憩してお通夜のおつとめに。
 代々にお寺、地域と深くかかわってくださった門徒さんのおうちのご葬儀。
 当たり前に、お寺に関わってくださっていた方、地域で働いてくださっていた方がいらっしゃらなくなっていく。ひとつひとつの別れの中に、自分の幼少期には当たり前だった地域の様子が、変化していくことを強く感じていく別れでもあった。




「宗教」・「カルト」を扱う講義をするので

今日の龍谷大学文学部で担当している「伝道学特殊講義」(学部3・4回生対象)は、講義で指定しているテキスト 『基礎ゼミ宗教学(第2版)』 。今回は、第9章の「カルト問題」にどう向き合うか?―カルト、偽装勧誘、マインド・コントロール」を扱う予定。  数年前に大阪大学が、大学としてのカ...