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歳末危機

あっというまに大晦日。 年を重ねるにつれ、年末という実感がなくなってきてしまっているようだ。 やらねばならないことが山積みで、 それなのにも関わらず、掃除の合間に手にした漫画を読みふけり、 さらには、ちょこっと買い物のついでに、古本屋で漫画本を買い足して、 またまた、気持ちの切れ目に読みふけり。。。 年賀状も書かねば為らないのに、まだ手元にあります。 2日以降に届いた方。もうしわけありませぬ。

とっととうちに帰って

野球日本代表の試合を観戦。 さきほど、試合終了。 これぞスポーツといえる刺激を受けた昨日、今日。 勝った。バンザイ。

ならはく

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正倉院展に来ました! 現在地・奈良

体操とお灸

 一日のルーティンを20個。一日の目標として設定してみた。  『日経アソシエ』の記事に紹介されていた方法。ルーティンをこなしていると、一日がメリハリの中ですごせる。  例えば、僕の場合は、「朝、勤行をする」「本堂の掃除をする」「体操をする」「温かいお茶をおいしく入れる」「12時までに寝る」などなど。  できれば、所定のマスに丸をいれ、できなければ、バツをつける。  12時までに寝るの欄は、すべてバツです。泣。  体操のところは、全部○。体操すると、だらだらとしていた筋が延びていく感覚がある。朝体操すると、一日快調にすごせる。  昨日から「お灸」にもチャレンジしてみた。すえるべきところは、印をつけてもらったので、まずは「足三里」から、はじめてみた。  松尾芭蕉が、三里に灸をすえるよりも、松島が見たいといった、あの「足三里」。  昨日は一日、体があったまった感覚のまますごせた。しばらく、続行してみよう。  そんなわけで、ここ数日の体調は、すこぶるよいのです。

報恩講デビュ

 11月3日。伊丹にある玄徳寺さまの報恩講に講師としてお招きいただいた。  報恩講に呼んでいただくことは、僧侶としてもっともありがたいこと。  行ってみると、うちから原付で10数分の距離。  ご住職は、豊中のご寺院が代務でされており、普段は地元の門徒がたが管理されているという。老僧もおっしゃっていたが、雰囲気は、昔の「道場」といった感。  蓮如上人当時の、真宗のもっともひろがった時期の形はこのような雰囲気ではなかったかと思わされる。  参詣のかたがたも、自分たちのお寺という意識が強いためか、積極的に耳を傾けてくださっている上、場の空気もあたたかさをかんじるという願ってもない環境。  40分一席。無事に勤めさせていただいた。  こんなお寺もあるのかと、いろいろと考えさせられるご縁でした。

休日出勤

宗学院の発表の準備のため、現在研究所、参籠中。 午前中に法務を終えて、午後からは京都に来ました。 この研究所は、休日に来ても数人は出てきています。みんな、色々抱えて忙しそうです。 文献を検討中。 普段からちゃんと研究していれば問題ないのに。 なかなか、面白いかもと思える点がちらほら。  日経アソシエの記事で、某葬儀会社の専務さんが取り上げられていた。MBOを取得した人で、葬儀業界の改革に乗り出そうとしている云々という。  そう、お葬式の形も、いまのままで安穏と呼ばれて、お経をあげて帰ってくるだけではいけないと、思うのです。お坊さんも、変わらねば。  そういうことを考える勉強会も必要だと思うのです。

@講師控え室

 龍大の中で無線LANを使えるように設定してもらった。  レッツノートも快適に稼働中。  講義を終えて、現在講師控え室。深草から大宮へ帰るバス(学舎間移動)の時間を待っています。  雨の日は、こころなしか講義に来る学生が減っているような・・・。  講義を終えた後は反省ばかり。  自分が面白いと思うことを、人に面白く伝えるということは、なかなかむずかしい。  なにが重要で、なにが重要でないかということを峻別して伝えることが出来れば、講義の9割はできたようなものだ。(研究になるとそうはいかないけれど)  重要なことを、面白く印象に残る形で伝えることができればよいわけだ。  硬くなりすぎていたかもと反省する。  もっと面白いものを出してもいいのかもしれないと、ひとり竊かにほくそ笑む。 今日の講義の準備の段階で『天正三年記』という実悟の書いた文献を読んでみた。 順如上人が裸踊りを披露した段などは、意外性抜群で面白い。これなんかを、生で講義で見るとおもしろいのかもしれない。 ��10/20若干改訂)

千日回峰行

 今朝の新聞に、星野さん明王堂へ堂入りのニュース。  満行の暁には、不動明王の化身とし信仰の対象となるとの記事も。  一週間前には、この方とお話をすることができたわけだ・・・。そうおもうと不思議な気持ちになる。  記事で見るのと、実際にあったあの方との間にはなんともいえない隔たりがあるように感じる。    無事に満行して出てきていただきたい。  星野さんが命がけの行にいこうとしている、その周りでは手を合わせる信者の人々。  井上靖の『補陀洛渡海記』-フダラク渡海へいかされてしまう上人の内面を描いた小説-を重ねてしまう。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071013-00000030-kyt-l25&kz=l25  ぼくが、枝豆が未熟な大豆であることに驚いていた時には、星野さんは堂の中で第一日目の夜を過ごされていたかと思うと、なんともいえない、なさけないような気分になる。

仕事の能率と睡眠時間の比例

たっぷりの睡眠をとった日は、一日充実してすごせる。 仕事も集中してこなせる。 ただ、最近はたまった仕事と、自転車操業の工事の準備、自分の研究とすべきことが山盛り。 睡眠時間を削らざるを得ない状況もある得るわけで・・・。 もちろん、仕事だけするために生きているわけではないから、息抜きも趣味にも時間は使いたい。 「最も効率よく、集中して仕事ができて、しっかりと余暇の時間もすごせつつ、十分な睡眠をとる一日のすごし方」を探しています。 そう、まだ一番ぴったりくる一日の過ごし方が、見つかっていないのです。

比叡山

 土曜日、比叡山に行ってきた。  仏教学のM先生とのろたんと、Oさんの引率で、龍大の学生さんと一緒に。  京都駅からバスに乗り、比叡山のバスセンターへ、そこから無動寺谷、東塔、西塔、横川と歩いて移動し見学。  のろたんさんに、法華大会を見学に行くので云々とお誘いいただいて、参加。  比叡山に行くのはこれで、都合4~5回目くらいか。行く度に、ちょっとづつ新しいことを覚えられるので、よい。  それでなくとも、山の空気を吸いながら歩くのはとても楽しい。  一番貴重だったと思われることは、偶然、現在回峰行中の行者さんのお話をうかがうことができたこと。無動寺のご住職をされているそうで、13日から堂入りをされるらしい。  堂入りとは、回峰行の中でもっとも困難な行で、9日間、一切の飲食を絶ち、不眠不休で堂にこもる行のこと。行者さん(ホシノさんと仰った)も、生きて帰ってこれるかどうかわからないと仰っていた。  印象的に残るお話がいくつもあった。  自分で望んでしている行だから・・・と仰っていたこと、  山にこもって行を行う生活をすることより、世俗の生活のほうが困難ではないかと仰っていたこと、  などなど。  外見と、まとわれている雰囲気にも独特なものがあった。もしかしたら、わずらわしいこと一切を離れて山の中で、修行にあけくれる生活を送られているから、清らかでいられるのかもしれないなどと思う。  そういえば、修行について、仏を目指して行を行うものと思っていたが、「仏になってしまってはいけない」と仰っていたことも印象的だった。  下山後、のろたんとOさんと、食事を共にする。  とてもたのしい夕食でした。   多謝、多謝。

時代遅れ

 先ほど家に帰ってきて、ちょっとだけテレビを見ていたら、「新婚の矢井田瞳」とテロップが出て、ヤイコがインタビューされていた。  ん?新婚? 結婚したの? いつ?  ネットで調べると「7月28日」だそうで。  そのころといえば。。。 北京で一人徘徊していた頃だ。なるほど、知らないわけだ。  二ヵ月後にやっとこ世間にちょこっと追いつけた。  明日の講義の準備が追いつかない。 もうちょっとがんばらねば。

How to 本

 今日は、「品のある話し方」がテーマのHow to本を読んだ。  ハウトゥ本は、ときどき劇的に変化が起こせるノウハウが書いてあったりするけれど、大体の場合は、すでに知っていることや、漠然と感じていたことがらが書かれているものがほとんど。そして、今回の本は、完全に後者。  元来あまりハウトゥ本というものは好きではなかったのだけれど、仕事を始めて、時間が制約されている中で効率化を進めようとしたり、あるいは話し方や、整理などのスキルを身につけようという意識があるときには、なぜか手が伸びてしまう。そして、今回も、そのパターン。ま、ちゃんと話せねばならぬな。と。  やはりそこに書かれていたことは、ほとんどの場合、9割以上がすでに既知の内容。  けれども、それでよいのかもしれない考える。  それを読むことによって再確認し、あるいは漠然と考えていたことが言語化されることによって、自分の生活行動や理念が見直され反省させられる(効能1)、すでに知っていることでも再度確認し、言語化されることによってその内容が身体化されていく契機となる(効能2)。  それからするなら、むしろ新しくなにかを知ることよりも、自身の中にある既知の内容を再確認させられるということがハウトゥ本の効能なのかなどと思った。  また、古典・仏典を学ぶ場合にも似ているななどと考える。  古典や仏典は、「読み返されるもの」としてある。だから、そこにあるものはほとんどの場合、既知。(研究の場合は、またちがうこともあるけれど)  毎朝、勤行として読誦し、(同じことばかり説いていると批判されても)法話を聞くことは、それにあたる。  その繰り返しで(「新しい発見」をすることもあるけれど、それよりも)徐々にその内容と教えを「身体化」していっているのだろう。  だから古典は暗唱できるようになるまで読み返し、暗唱できるようになっても読み返しすることが求められる。  [付け加え]ハウトゥ本と、仏典・古典の違い。ぱっと思いつくものは、価値観の源。ハウトゥ本は、自身の役に立つため、ビジネススキルなどを身につけて最終的には読者のニーズに合う形で提示されてこなければならない。読者がもとめるものが結論にはその要求に合う形で提示されていなければならない。  話し方...

タクシーの運転手さん

 研究所の仕事後、過去に、とある仕事を一緒にしたご縁で、年に一度お参りにという依頼をいただくF先生(小学校教諭)のお宅に行く。  時間の都合と、雨が降っていたので、本願寺の前から、京阪七条までタクシー利用。その乗ったタクシーの運転手さんが、とてもよい人で、そのあとしばらくとてもいい気持ちで過ごせました。  なんでも定年まで自衛隊に勤められて、そのあとタクシーの運転手さんになったとか。  こんな風になれればいいな、と思わされる人でした。  せっかくなので、名刺を頂く。  今度、機会があればご指名で来てもらおうかと。

職場のパソコン

 更新しようと記事を書いたら、フィルターがかかって書いた分が消えてしまった・・・泣    こんなとき、やる気なくなってしまいますよねぇ。  そう、なくなってしまったのです。  また、書きます。 追伸: 「祝のろたん ○ろ式ブログデビュー」=一流学者のステータス。

やることリスト

 とあるサイトから、ライフハックのツールとして紹介されていたものをダウンロードして使ってみるとなかなかいいんだな、これが。  単なるTODOリストなんだけれども、達成率をグラフにする箇所がついていて、なかなか飽きさせない。  今日で4日目。  すぐできるのにずっと後回しにしていたことも、リストに書くと、早く消したくてソッコーで実行!!  いやいや、いいですな。なかなか。  お礼状なんかも、リストに書いてしまえば、「早くやらねば!」という気になって、あっというまに送ってしまった。  なんせ、書いとけば忘れないしね。    そんで、昨日したことといえば、リビングのパソコンのメモリ増強(1GB)。  おかげで、パソコンライフもサクサク。

アペディア

おぉぉ、これスゲェと思いました。 こんなんあったんだぁ アペディア 尼崎地域研究資料館 、ボランティアに行こうかなぁ。

なにかボケ

 日曜夜に無事帰国しました。    月曜日から社会復帰。お参りと、研究所出勤。  けれど、なにかいまひとつしっくりこない。まだどこか中国の印象をひきづっているような・・・。  「なに?」よりも「ジェンマ?」が先に来る感じ。日本語と中国語どちらをつかおうか考えてから出してる感じ。    中国から帰ってから、呼吸するのが楽しい。  何せ、北京の空気の汚さといったらなかった。締め切って部屋でタバコをすっているような煙が絶えず町中に充満しているような。近くでさえ曇っているような。  それにくらべて、日本の空気のきれいなこと。遠くまではっきりと見える。  そのきれいさを喜んでいるということは、まだ日本の空気に慣れてないということなのかもしれない。 ・・・・・・・・・・・・・・  今日、スタバで研究発表の原稿を作っていると、意外なアイデアに出くわす。  明日になっても面白かったらいいのだけれど。    帰り道、観光している中国人親子と遭遇。厳密には台湾から来たといっていたから台湾人か。  話しかけてみると会話が成立。  中国語が楽しい。あと、話さないと忘れそうで、その気持ちが場所を求めているっていうのもある。  今日は、その二つのことがあったから、わりとご機嫌  

北京

 今は北京。  この二日間は、持てる力を総動員して、観光して回ったという感じでした。    昨日は、雲居寺というお寺に行こうとして、諸般の都合で断念。帰り道にある周口店の観光、夜北京に戻り、前海・後海というおしゃれなスポットを観光。  今日は、午前は、チャレンジして行けなかった、雲居寺というところに行ってきました。帰り道のバスのタイヤが途中でパンクして降ろされ、若干バスの乗り間違いをするなどのトラブルもありつつも、無事に北京に帰り、午後は北京大学へ。観光と書籍の購入を兼ねて。  本が日本の数分の一の値段なので、旅の元を取ろうと、旅の間で、かなり買い込む。飛行機ではもって帰れないので、明日の朝郵便局で発送予定。  明日の夜に帰ります。

銀川

今、中国の銀川という街にいます。 ネットカフェから更新。 エチナというところに見学に行きましたが、大雨の影響でメインの遺跡が見学できませんでした。残念。 バスで十二時間かけて行って、十二時間かけて今日帰ってきました。 明日、北京に戻ります。 日本には29日の夜に帰ります。

一級

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四月の審査で、一級になりました〓

人文研究

 とある先生が、親鸞像は50年前と比べてかなりの変化が起きているといっていた。  つまり、マルキシズムなどの影響から、いわゆる庶民のヒーローというか農民とともにいる親鸞というイメージが期待され、また付与されていたことを指していると理解している。    人文研究もやはり、進歩してはいるのだ。  歴史研究・思想研究もその思想そのものを追及していく作業でありつつも、追及する側の主体がその研究内容に反映されるのだろう。また、ブームになっていることも、時代的な関心が反映されているとも言うことができるか。  日本仏教に対する研究も、(素人ながら思うに、)従来の判然とした純粋教義の追及といった印象から、神仏習合や諸宗の関連性などといった混沌とした状況であったことを確認して、受け入れ、またそれを秩序立てて理解しようという展開をしているのように感じる。  一度整理されたものを、もう一度ばらばらにして、それぞれの構成要素をもう一度丹念に調べなおしているといった感か。  おもいつくまま、書き連ねました。失礼。  とりあえず、今から、ライアーゲームの最終回。

採録されますか?

 帰宅すると、「論説資料保存会」というところから、郵便物が。  昨年書いた論文を、「中国関係論質資料」というものに採録するに当たって、著作者に、承認をとりたいとか。  こんなの初めての経験で、ちょっと戸惑い気味。  どなたが、選定されているのかを知りたいのです。

キョウダンシ

 今年度の担当講義の六回目。学生さんの反応はなかなか。教員側としても、この教室の雰囲気がつかめるようになってきた気がする。  もしかすると、学生さんたちのほうが、こちらの雰囲気がわかってきたのか。 あるいは、もっと根源的なところで、7割以上いる1回生の学生さんたちが、大学というものになじんできたからか。ともかく、教室の中で、学生さんと僕(教員)の間に、「まあ、こんな感じで」という場の空気に対する暗黙の合意ができつつある感覚。 もちろん、その微妙な合意は、これまた暗黙のうちに更新され続けられるだろうけれど。  講義では毎回、課題を課して、Eメールで提出するようにさせている。  講義後、課題について質問に来た学生さん。  「パソコンを扱うのが苦手で、課題を送れないのですけれど」と。    毎年何人かいるが、これから先、PCを駆使して勉強していく時代。なんとか身につけてもらわないといけないので、やんわりと、やってみなさいと打診。  大学では1回生からインターネットのアカウントがもらえる。できないわけがないのだ。やってみるか、やってみないかだけ。でも 「無理っす」 となかなか、うんといえない。  その後、しばらく話して、「ま、やってみて」と説得の試み。   その学生の帰り際、「君、名前なんていうん?」と聞いてみた。その学生さんの返事  「無理っす」  学生さんの横にいた友人は失笑。  おかしなやり取りに気がついた学生さんも、ちゃんと名前を教えてくれましたが。  こっちの話すことは、ほとんど無理な要求や課題に聞こえてしまうのだろうか。  それとも、あちらさんが、こちらの声をほとんど、シャットアウトしてしまおうとする心理がでてきたのか。 ともかく、面白い一コマではあった。

修理

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��~2年前からぶっ壊れていた、VAIOを修理。 液晶が割れて使い物にならなくなっていた。新しいパソコンも買い換えたことで放置していたが、オークションで、ちょうど合う液晶を出品していたので、落札して昨日修理に取り掛かる。  途中挫折&右側のヒンジを損傷するというアクシデントもあったが、なんとか無事修理完了。  画像は修理中の様子。  それにしても、直したおかげで、我が家のパソコンの台数が急激に増加・・・。  さて、どうしたものか。

研究発表

宗学院にて研究発表担当。 「迦才『浄土論』における十念について」というテーマにて発表。  迦才『浄土論』に見られる十念の意味と念仏との関係について検討した。未解決の問題も若干残しているので、そのあたりを後期の課題として提出しよう。  研究発表するときに、その場に「怖い」と感じる人がいてほしいと思う。  「怖い」とは、単なる恐怖ではなく、自分よりも知識が多く、学術的なスタイルを確立していて、アカデミックな指摘を当然のようにしてくる人だ。そんな人を前にして発表するときには、どこかで「見限られてしまわないだろうか」とか、すべき手続きをしていないなどの姿勢として根本的に誤っているところを指摘されないだろうかといった、怖さが現れてくる。  それは、その人が発する怖さというよりも、みずからの手落ちや未熟さがその人の前に行けば、その人の目によって、白日の下にさらされてしまうのではないか、という怖さかもしれない。  その怖さは、緊張のあとに、大きな成長をつれてきてくれる。  研究者としてどれだけ、成長することができるかという問題は、どれだけ「怖さ」を持つ人と過ごすか。その人の前で発表や作業をすることによるのではないかと思うのである。

迦才さんの『浄土論』

 今日の空き時間のほとんどは、論文の作成。  某U先生のブログを拝見すると月に9本の締め切りのある原稿を抱えているとか、一日に数本の文章を書き上げるとか。その頭脳がうらやましくもある。  こちとら、たいして文才のない身。書いては消し、書いては消しの繰り返し。  夕刻、なんとか形が整い、面白みが出てきた。  今週中に書き上げて送信しないといけない。  テーマは「迦才『浄土論』における十念について」宗学院演習にて発表予定。

処理能力不足?

 ここ一ヶ月平日は、パソコンでいうならばメモリフル回転のような状態で動いていた割りに、いまいち処理している分量が追いついていない。  自分の身の丈にあっていない仕事を、抱え込んだせいだろうか?  症状としては、  1、仕事が片付ききらない。  2、研究や、講義の予習、課題などに手をつけられる時間がすくない。  3、締め切りのある仕事とが終わらず、気もそぞろ。 など、あまり精神的に健康とはいえない。    そんななか、愛機・リブレットも故障。  コンセントをさしても、電池パックをつけると通電せず、電池パックをはずすと通電する。コンセントをはずしても、電池パックからは電気がこない。  そんなわけで、電池パックを外して、直接電源で利用しているが、そんなのモバイルの意味がない。  そんなわけで、ついに懸案だった「レッツノート購入計画」を実行に移す。  土曜日にソフマップに行き、中古ながら「T5」なる機種を購入。ビスタも候補にではあったが、XPのマシンを購入。  家にて調整中ながら、結構快適に駆動中。

一級の審査

 4月4日。合気道の昇級審査。  論文の締め切りやら、課題の提出やら、なにより研究所の業務の関係で、ばたばたし続けていて、ろくに周りを見渡す余裕もないまま3月がすぎ、4月になってしまった感。  それでも、審査の日はやってくる。  とりあえず、無事に合格したようで、晴れて1級になれそうです。黒帯まであとひとつ。  武道をして段を取るという自分をイメージしたことがなかったので、不思議な感じ。なにせ、小学校のときにやっていたスイミングも、習字も中途半端なところで挫折したから段なんて、雲の上にあるもんだとばかり・・・。不思議だ。  精神状態  審査のときは、どうもいつもの稽古と精神状態がちがうようだ。  審査前の稽古は、技術的に「うまくなる」ためのものというよりも、精神的に「高めていく」「はりつめていく」ことになる。  自分より下のクラスの人と組んだとしても、相手の方に降りてあわせていくのではなく、気持ちを切らないようにしている自分に気がついた。  これは、自分ひとりでは、なかなか作れない集中力だと思う。  試験や、試合といったカベが、精神的な高みを経験させてくれるのだろう。  

歩数計

日曜日に、歩数計を購入。3000円ほどするちょっと、いいヤツ。 「万歩計」は、は山佐時計計器株式会社(YAMASA)の登録商標だそうだ。ついつい万歩計と言ってしまう。 試みに『広辞苑』引いてみたところ、たしかに「商標名」と書いてある。 【万歩計】「(一日に一万歩ほど歩くことが健康に良いとすることから)腰に付けて、歩いた歩数を数える計器。商標名」(『広辞苑』第五版、岩波書店)    ここ一月ばかり、京都に出勤する際、家から尼崎の駅まで歩いて行っている。こないだ、何気なく歩数を数えてみると、片道で軽く2000歩はあった。  「ん?一万歩くらいその気になったらいけるのでは?」  そんなわけで、万歩計・・・おっと、歩数計を購入。  昨日はその第一日目。歩数は・・・「10153歩」 だいたい家から駅まで2500 京都駅から研究所まで1500~2000程度。 昨日は、尼崎から歩いて帰ってこなかったから、その分の歩数は少ない。 軽く12000位はいけそうだ。

痛恨のダブルブッキング

 9月5日 四国・徳島にて印度哲学仏教学会。  5年ぶりに発表しようと思って準備していた。とりあえず、方針もきまり、週明けに申し込みを投函しようと思っていた。  ところが! 予定を確認してみると、お説教に呼んでいただいている日ではないか!痛恨。  しばらく、日程とにらめっこ。  一時は、先方にキャンセルをお願いしようかとも思ったけれど、やはり、法座を優先することに。  ああ・・・。しょうがない。    考えたネタは、検討して違う機会に発表することにしよう。

『インストール』

 綿矢りさの新刊が気になって、いまごろ『インストール』を買って読んでみたわけである。  帰り道の古本屋で、『蹴りたい背中』と併せて購入。二冊で1060円。印税が入らない買い方をしてごめんなさい。    仕事が山のようにある状況にもかかわらず、通勤の電車の中で読んでしまった。  17歳女子高生が、日常の悩みから登校拒否をはじめ、ふとしたことから知り合った同じマンションの小学生とともに、チャットレディのバイトをするという話。   悩みは、深いものというよりも、青春時代特有のなやみといったもの。宗教的な深さや、重たいテーマが潜んでいるといったテンションではない。(教育問題とか、不登校とか、ネット社会の低年齢化とか、云々と言ったことを考え出すと、社会問題といえるかもしれないが、切り込むといったものではなく、あくまでもそれらは、モチーフを浮き上がらせる演出だろう)    けれども、文芸作品としてそれなりに評価されたというのは、やはり描写のうまさからなんだろうと思わされる。大学生の自殺を思い出すことによって自分の悩みを相対化して描いたり、母親同士の会話を、学校の会話とフィードバックさせることによりその特徴を浮き彫りにしたり。  平野啓一郎の『本の読み方』を読んだ影響もあるかもしれないが、「小説を読み込む」作業が面白く感じた。付箋を貼り、ゆっくり読み返しつつ、書き込み、メモを取り、読み進めるおもしろさがあった。    しかし、自分も登校拒否をしていた時期があるからかもしれないが、人生に於ける逃避行動の意味ということを考えてみると、なかなか意味深いものがあるかもしれない。若干のモラルハザードも発しつつ、それが結局、自己認識を深め、歩むべき道をすすむモチベーションを再発見することになるのだろう。

世の中の不思議

 僕の机の上には、ナショナリズム関連の文献は山のように積まれている。ともかくまあ、ひとつづつ、何とか順調に片づけられてはいるのだ。理解率は決して高くはないけれども、書評を書かねばならないという目的が、非常に脳細胞を刺激して、いままで見えてこなかったものにまで光を当ててくれている感覚。  なにかあたらしい光が見えてきている感覚か。  勉強が面白くなってきた。  もうちょっと頑張ります

師匠

 その人は、生活のできる時間すべてをそれに勤めた。  その人にとって、それは「生活の手段」ではなく、「人生」そのものだったのだろう。  そのような人を身近に感じることができたというのは、人生における数少ない幸福の内の一つだろう。

ナショナリズム

 某研究所の業務の関係で、ナショナリズムの問題に関連する文献を読んでいます。関連する文献は山にようにあり、専門化にはとてもなれそうにはありませんが、なかなか興味深い指摘がたくさんあります。  ナショナリズムはやはり「宗教性」とかなり近いところにあるような印象です。事実、「宗教的な資材」が、政治に動員されることが、ナショナリズム形成のひとつの典型であることなど、改めて考えてみるべきことがたくさん。  こうして考えてみると、「宗教」というもの可能性を本当の意味で気づきにくいところにいるのは、当の宗教者であるのかもしれないとさえ、思えるのであります。

年度末

 年度末のあわただしさを感じるようになってきた。  経常のスケジュール(締め切りのある仕事、自坊法座、出講)、今年度のあとかたずけ(報告書、報告論文)、来年度の準備(申請書、来年度の講義)などなど。  すべきことがちゃんとできるのかどうか、焦りが出てきた今日この頃。  

老い易く

 一日が短い・・・。  ふと数年前のバイトとかしていた時期を思い出すと、無駄ではないけれど、「早く終わらないかなぁ」と考えたりする時間のすごし方があった。  今は、朝起きてから、夜布団に入るまでの時間、振り返るとあっというまのような気がする。  思いついた調べ物も、実行に移すまでに至らない。    かといって、なにもしないではすまない。    実行のために必要だと思うもの  スキルアップ、効率化、なにより意志の強さ。

松下幸之助~日経アソシエ

 今回の日経アソシエは、松下の特集。  松下電器の経営哲学は松下幸之助の影響が色濃く残っている。  松下の改革は、会社の体制などのシステムや人材の構成を大きく変えたりはしたものの、それと同時に従来の理念・哲学を変えるのではなくよりいっそう徹底して周知するようにしたとのこと。  今回の特集にも、その金言が多く紹介されていた。  なかでも、今回気に入ったものがコレ。    お客様がほしがる商品を売るな。   ためになる商品を売れ    テレビなどを見ていてもそう思う。  最近はつまらない番組が多いので、なかなかテレビを見ない。(テレビを見る時間がなくなったということもあるが)    すべてがすべてそうではないが、「どんな番組が視聴率を取れるか」という、視聴率のためになにかがつくられているような番組が多い気がする。   たとえば、最近の番組のCMの入り方などは、一番盛り上がるところで「ブツッ」っと切られて、段落や落ち着き、それまでの「文脈」などはまったく無視されてしまっている。これも、精神衛生上よくない。こんな不自然な切れ方に慣れてしまうと、頭も悪くなってしまうのではないかとさえ思うのだ。  あるいは、「ああ、おもしろかった」とか、一瞬の笑い。それも大切なことでもあるけれど、それだけで、あとに続かない。  一瞬の時間をすごすためだけのものならば、いまの僕にはいらないのだ。  愚痴になってしまったけれど、松下幸之助のこの言葉は、自分の仕事に対する警句でもある。    なんのためにそれをするのか、誰のためにそれをするのか。   どこを向いて仕事をするのか。

黙想

 宝塚の合気道の道場では、稽古を始める前と稽古を終えるときに黙想をする。  静かに目を閉じて、心を作る。  静寂の中、張り詰めた空気が一瞬にして作られる。  今から行なう稽古のための雰囲気と、心の準備がその数十秒の間に行なわれるのだ。  ほんの数十秒だけれど、重要な数十秒。      目を閉じて、心を落ち着かせるとき、僕はもうひとつ別のことを考える。  ざわついた心は少しばかりコントロールできるが、「絶対の静寂」にはならないということだ。  どうしても、コントロールしきれない部分が残る。  その心に気がつくということがとても大切な何かを教えてくれるような気がする。    心をコントロールしていくことも大切だが、究極的にはコントロールしきれるものではないのではないかと。  それは、非常に仏教的なテーマだと思う。

睡眠への渇望

 一日のうちにある程度以上の情報を処理しすると、そこから先は、本を読んだり、講義に出たりしても、なかなか頭の中に入っていかない感覚になるときがある。  「もうはいらないよ!」と、頭の方から訴えがくるのだ。  頭のキャパシティがいっぱいで、目や耳などから入れようとする情報があふれて出ていってしまっている感覚。効率の悪い状況になっていると自覚できる時がある。    そんなときこそ、睡眠が必要で、睡眠が非常に意味のあるものになると感じる。  いろんなものをインプットして、あるいは自分の可能性を掘り起こして、ごちゃごちゃになった頭の中の机を、眠ることによって整理するような感覚。  起きている時に、今日は寝ることさえも「成長への糧だ」と思う、そんな一日を過ごせた時の充実度はもちろん高い。  

カラト書房

マリンピア神戸に買い物に行く途中、前々から行ってみたかった古書店 「カラト書房」 に立ち寄る。  魅力的な品揃えと中国関連に絞った、通好みの本屋さんだ。  きれいな店内。お店のおじさんと話をする。脱サラして、この仕事をされているという。「楽しんでやれている」とおっしゃる。ほんとに楽しそうだ。  吉川幸次郎氏の著作三冊、王力『古漢語辞典』を購入。 また、訪れたいお店ができた。ありがとうございます。

本願寺史関係の本を読んで

今週は、本願寺の歴史関係の本を3冊読んだ。 千葉乗隆『親鸞聖人ものがたり』 千葉乗隆『本願寺ものがたり』 金龍静『蓮如上人の風景』  中世・戦国期の行動原理というのは、やはり当時の価値観に則してみなければ理解できない。本願寺の動向にかぎってみても、関東各地の門弟集団との関連・力関係、比叡山との関係、国家・朝廷との関係など、背景となる要因を知って初めて理解できる。  当時の寺社勢力の地位や行動原理というものも興味深い。  寺社・聖域というよりも、「仏教教団」という名の一勢力のような印象。  「朝廷」「戦国大名」「寺社勢力」がそれぞれの領域をカバーしつつ、ある場合は共存、ある場合は闘争を繰り広げているような時代であっただろうか、という印象を受ける。  一番の収穫は、知らないことが、やはり「知らなかった」とわかったことか。  気になったことを羅列すると  ・門弟集団の動向  ・本願寺と比叡山の関係の歴史  ・北国への教線の拡大とその影響力

如実

 ついつい刺激的な言葉を使う修正が人間にはあるらしい。  大げさなことを言ってしまいがちになる。  多少刺激的なニュースのほうが話題としては面白い。しかし、「誇張」はいけない。  物事をそのごとく伝えることは難しいのだ。

回り道をたのしむ

 お参りの後、京都へ出勤。  今日は、JR尼崎駅までの道のりを歩いていった。  自転車を置いて帰ったり、自転車の鍵を忘れたりして、数日歩いて往復せざるをえなかった。だいたい20分から25分くらい。自転車の倍程の時間がかかるが、歩けない距離ではない。むしろ、なまった体には適度な運動。  今日もすこし時間に余裕があったので、徒歩にて駅まで。  どう効率的に時間を使うかということも、もちろん必要。  けれど、あえて時間をかけて自分の足で駅まで歩くことは、「いかに駅までの時間をたのしむか」という課題に答えられているような気がする。  急いでいろんなことを片づけて時間を作ろうとすると、かえって心に余裕がなくなっている。  駅まで歩いていくと、時間はかかるが、一日ゆとりをもって過ごせているような気がする。    時間のあるときは、徒歩移動。

納骨

 仏事は、長い期間ずっと同じことをやっているように思われがちだけれど、伝統的に見えるものであっても、比較的近年に成立した風習であるということは、よくある。  例えば、納骨。  先日、とあるおうちで「納骨はいつしたらよいか?」ということを聞かれた。  某研究所の仏事に関する電話相談でも、よくある質問のひとつだ。  解答「いつでもいいですよ」「ご家族の都合にあわせて、されればいいですよ」  現実の場面としては、四十九日であったり、一周忌であったり、三回忌であったり、節目でされることが多い。しかし、それとてもかならず、その折に納骨しなければならないというものでもないのだ。  そもそも、納骨の時期を選べるのも、「火葬」して「骨」になっているからだ。  火葬が制度化され、土葬が多かった時期では、亡くなって何日もたたない間に埋葬しなければならなかったのだろう。  大事な人の遺骨であればあるほど、扱いは遺族にゆだねられるべきではないか。  大事な人の骨であるから、大事にすぐさまどこかに納めたいと思われるかもしれない。  大事な人の骨であるから、離れたくなく、家にもっと置いておきたいと思われるかもしれない。  本来、「どうすべきか?」ではなくて、「どうしたいか」を自らで決めるべき問題なのだ。  当然、僧侶として、葬送儀礼に携わるならば、それ其相応の選択肢を提示することも求められるだろうが。

立ち話(聞き側)

昨日の宝塚への道中。阪急電車、途中から乗ってきた女子高生二人の会話。 A「・・・もうすぐ、一周忌なんやねん」 B「なにそれ」 A「おばあちゃんがなくなってから、いろいろあんねん。初七日とか、四十九日とか、百か日とか・・・」 B「なにするん?」 A「お寺行ってな、お経聞いたりするねん。・・・最初のときは悲しかってんけどな、聞いてると結構眠なんねん・・・」 ・・・ 女子高生とはいえ、これはちょっとカルチャーショックだった。 そんな風に思っているのかと。 まぁ、となりでお坊さんがその会話を聞いているとは、夢にも思っていなかっただろうけれど。 眠くなるのはともかく、「お経は聞くもの」だと思っているのかと。 いろいろと、いいたいところはあるけれど、問題としては面白い。 もうちょっと考えてみることにします。

宝塚すみれクラブ 合同稽古

半年に一度の宝塚すみれクラブ(http://www.geocities.jp/aikido_sumire)との合同稽古。 これで5~6回目くらいの参加になる。 初めの頃は指示された技をするだけで精一杯だったけれど、だんだんにクラブによる違いというのに気がつくようになってくる。 四方投げの入り方ひとつとっても、ちがう。 ちがうものにであうことで、はじめて自分のありようも見えてくる。 他者に出会うことで、自己について自覚的になれるのだ。

肩の痛みは、接骨院に行き鍼治療をしてもらうと劇的によくなる。 先週に続いて、一週間ぶりに治療へ。 待ち時間一時間。近くの喫茶店(ドトール)で、本とともに過ごす。 治療時間40分ほど。(院内での待ち時間含む) 回復!! これで、また一週間がんばろう。

本発見

茂木さんの本、見つかりました。 いい加減な片づけをしていたことが原因の模様。 ちゃんと整理しないといけませんね。

自由技

 合気道の稽古。  稽古後、何人かの人に相手をしてもらって、自由技にチャレンジ。  片手取り自由技。  「自由技」という名前の技があるのではなく、例えば「片手取りの自由技」なら、「片手取りの形から自由な技をかける」という意味で自由技。  ただ、同じ技をするのではなく、つぎつぎに、違う技をしかけていかなければいけない。  一級以上の審査の項目になっている。  しかけたい技を決めて、即座に体で実行しないといけないという点が難しい。  「あの技したいんだけど、あれ?どうやるんだっけ」なんて状態になるのは、身に付いてない証拠。  実際にやってみると、自分の技のレパートリーがどんな程度のもんなのかがわかる。  何度も高いけれど、なかなかいい稽古になった。    一つのことを身につけるということは、自分の体にしみこませていく作業。  自由技の稽古は、その確認作業のような稽古か。   体にしみついていないと、とっさにはできない。  

会議

勤めている某研究所で、携わっている事業に関する会議があった。 下っ端の仕事は、事前の資料づくりと、会議中の記録のメモ取り。 いろいろあって紛糾したけれど、出席されている先生方の鋭い指摘に感嘆。 一目しただけで、その裏の事情まで見通す眼力。 問題点を指摘するだけではなく、 組織の体質、運営のあり方を踏まえて、的確な善後策を提示する。 今の自分には、とうていできない視野とアイデア。 子曰、見賢思齊焉、見不賢而内自省也、 子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。 『論語』巻第二、里仁第四(岩波文庫『論語』p. 79)

本が見つからない

去年の10月頃に読んだ本が見つからない。 どこにやったのか。 「家の本棚」と、「研究所の本棚」の二元本棚状態だが、これがよくないのかもしれない。本の所蔵スペースがあるというのは、このうえなくありがたい話ではあるが。 探している本は茂木健一郎の『意識とはなにか』。  最近お気に入りのフレーズがあった本なので、もう一度確認したいと思っているのに、どのにあるやら。  仕事に差し障るわけではないけれど、みつからないと落ち着かない。

office2000+α

先日、ネットオークションで落札した「office2000pro.」(アクセス付)が届く。 新品の最新ソフトは高く、どうしようかと思っていたところ、オークションで数バージョン前のものだけれど、比較易く出品されていたので、入札したところ、うまく落札成功。  おまけに、パワーポイントも入っているので、いろいろ試してみることにしよう。

剣を振る

合気道の稽古。今日は武器の稽古。 木剣を振る。型の稽古。  剣を振ると、いくつかの気付きがある。  まずは、「まっすぐ振る」という単純なことが非常にむずかしいということ。それはまるで心を投影しているかのようだ。  まっすぐ振るべく稽古することは、心を磨く作業のようだ。  あと、「しっかりと振る」こと。これは、剣との一体化がいるような感覚か。  ただ振ると、ついつい剣が移動するだけで、鋭い振りにならない。  しっかりと(自分なりに)鋭い振りをするためには、意識を切っ先に置かないといけない。師範は振るのではなく、ふっと、投げるような感覚でといわれる。  切っ先に意識を置いて、投げるような感覚。  意識して振っていると、剣にも神経をいきわたらせるような感覚になる。  そう剣も手の延長で自分の体のような感覚になり、切っ先に意識が置けると(ヘタなりに)いい振りになる。  自分の枠を拡張させるような。    その感覚が、非常に仏教的な感覚であるという気もするのだ。  自我を皮膚の外にも置くかのようなその感覚が、我のとらわれをはなれていく実感とはこのようなことをいうのかもしれないなどと思うのだ。

平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』

本の読み方 スロー・リーディングの実践  芥川作家平野啓一郎。スローリーディングを推奨する。  速読、多読を薦める本が多いが、あえてそれらの逆のあり方こそ本当の読書の姿であるという。  個人的には非常に共感できる点が多い。  ただ、さすが芥川賞作家。文章の読み込みが非常に深く鋭い!  眠っている作家の真意や深い意図を掘り起こしていく作業の奥深さを教えられる。  個人的には、斉藤孝の『読書力』のとなりに並べたい一冊。

知について(下)

��上)に書いたことは、書いている内に展開して出てきたことで、当初思っていたものとは、ちょっと違った方向に進んでしまった。  で、もともと考えていたことはというと。  何かを知ったとき(特に先の後者の知)、二種類の感動が併存している。  一つには、自分の世界が広がり、知識が増えたことに対する喜び。一つ階段を上った気分。  もう一つは、世界が広がったことによる、それまでの、自分の世界の狭さを知った感動。それは、かならずしも喜びなどという肯定的なものには限らない。むしろ、「ああ、こんなことも知らなかったなんて・・・」という己の小ささに対する知覚。一つ階段を登りはしたが、その階段は自分の想像よりもさらに上まで続いていたことに対する驚き、果てしなさに対する恐れ。  前者は、知の獲得による賢者への道。  後者は、知の獲得による愚者の自覚への道。  それらは、自分の中で併存している。   故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、   たしかにうけたまはり候ひしうへに  や、「無知の知」といわれることが、知覚ではなく、実感をもっておそってくる。そして、これはまだ、入り口でしかなく、将来、それはどんどんと強くなってくるにちがいない。

知について (上)

 「知らないことを知る」  それは、二つの意味がある。  一つは、よく知らないから学ぼうとする態度、つまりそれを「知りたい」と思って知った場合。もう一つは、まったく視野に入っていなかったことが向こうから飛び込んで来て、そのような世界があるとさえ知らなかったことを知った場合。    後者の方が感動が大きいのではないだろうか。そして、その出遇いはまったくの偶然の産物としかいいようがない。存在すら知りようのないものは、求めようがないのだから。  しかし、その出遇いには、準備がいる。感動とともに新たな世界と出会うためには、必要なものがある。それは、それまで歩んできたその人の歩みだ。思考の歩み・知識の積み重ねの歩み、人生そのものの歩み。  それらがあって、はじめてその新しい世界に踏み出すことができる。  書物との出遇いによる世界もそう、人との出遇いによるめぐりあいもそう、僕にとっては、仏法との出遇いもそう。  そして、それらは固定した不動のものではなく、常に動き、拡張しつつある。  出遇いといっても、それは「自分の世界のひろがり」ともいえるかもしれない。  

回向

今日の勉強会の中で聴いた話。 大乗の思想は、目的とそれにむかう行とが必ずしも一致しない。 たとえば、「お茶断ちをすることによって、ある試験に合格することが可能」という思想を受け入れることができる。 そこには、「お茶断ち」と「試験に合格」することになんら因果関係も、脈絡もない。  お茶断ちをしたことによる功徳を「回向」を媒介にすることによって、試験に合格するためのものに転嫁することができるのだ。  日ごろ当たり前のようにされていることも、実は仏教的な思想に支えられているということか。当たり前の中には「至極当たり前になりすぎた」高度な思想が含まれている。  

単語帳

中国語の勉強を充実させるべく、単語帳を導入。 リングに止められたカードをくるくるとまわす、アレです。 講義の間、これはおぼえようという単語と、構文を書き込む。 ��NHKカルチャーセンターで中国語を受講中)  書くという作業のおかげか、あっさりと今日の部分は記憶できる。  効果はバツグン?

最後の講義

今年最後の講義を終えた。 いろいろあったけれど、好評の感想をよせてくれた学生が多くそれはすなおにうれしかった。真宗・仏教に講義を通して興味を盛ってくれた人もいるようでそれもうれしい。 ただ、ところどころ調子に乗って、勢いで正しくない情報もだしてしまったことがある点を反省。来年以降はもっと気をつけるようにしたい。  

赤ん坊

朝のちょっと混雑した電車の中、かわいらしい赤ん坊を抱いたお母さんが一人。 赤ちゃんは、常に笑ったまま愛嬌を振りまく。 まわりのおばあさん、女の子、お兄さんは赤ちゃんの顔を覗き込む。 その赤ちゃんが、その周りの視線を独占して、ただ笑っているだけでその場の中心になっている。 「魅力」、ひとをひきつける力そのものが、そこにある感じがする。

南直哉『老師と少年』

 「この世にはしなければならないことがたくさんある。しなければならないと人が思うのは、しなくてもいいことだからだ。生きなくてもいい。だから生きなければならない。犬のように水を飲んでもかまわない。しかし水を器に入れて飲むことにする。尊さはそこにある」(100頁)  念仏をしなくてもかまわない。仏さまをたたえなければならないと言うことはない。しかし、仏の前に手を合わせ、念仏し、なんともいえない感慨を懐く。そのことが尊いと感じるようになっている。  そう。しなくてもよいけれども、する。「尊さはそこにある。」

山科本願寺・寺内町研究会『―掘る・読む・あるく―本願寺と山科二千年』

  山科本願寺・寺内町研究会『本願寺と山科二千年―掘る・読む・あるく』   国道などの都市開発によってなくされつつある、山科本願寺と寺内町の遺跡の保存と活用を求めて市民と研究者とによって立ち上げられた「山科本願寺・寺内町研究会」の著作。  ・山科は奈良街道と東海道が通り、京都の入り口でもある交通の所。  ・旧石器時代からの遺跡があり、旧石器時代から生活の舞台であった。  ・山科本願寺のあった場所は、水田にするのに困難な条件があり、開発の遅れた場所だった。  ・山科七郷総郷を中心にかなり自立度の高い地域だった。  ・住民は、文書に印と花押も用いていた。  ・真宗寺院の本堂は本来、現在のような左右対称ではなかった。  ・山科本願寺のように、全体の形をかいた図面がある中世の遺跡(城郭)は、例外中の例外で、稀有なもの。     などなど、知らないことが多く、勉強になります。  山科本願寺は、単に真宗寺院の本山であった遺跡というだけではなく、さまざまな分野に対して貴重な史料と情報を提供するものだった。

のどいたし

風邪気味の調子は相変わらず。 のどの痛みはそこそこ。右肩の凝りがキツイ。  さて、  最近のニュース、殺人とか人が死んだとか暗いニュースの流れない日はない。  それも、身内同士での殺人とか云々がめにつく今日この頃  仏教経典の中の悪世の記述のような時代がやってきているのかなどと、ふと思う今日この頃。 「父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死して後に神明さらに生ずることを信ぜず。善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、父母兄弟眷属を害せんと欲ふ。六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。かくのごときの世人、心意ともにしかなり。愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を■望し、長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。」(『仏説無量寿経』巻下)

のどが痛い。

去年もこの時期に風邪をひいた。ん?いや、あれはインフルエンザだった。 大学時代も年末、下宿先から家に帰ってきたとたんに熱を出した記憶がある。 この時期は風邪を引きやすいのだろうか? 体がそういうような原因を抱えているのだろうか ともかくのどが痛いのです。 風邪のひきはじめです。とっととねます。

星空をながめて。。。というわけではないけれど。

暦法について調べることがありまして・・・。  おもしろかったことは、月齢を日本や中国では新月から数えるけれどインドでは満月から満月を一ヶ月と数えるという相違。 さて、  天文というものは、中国でも日本でも国家を運営していく上で必要なもののひとつだった。天文を見て暦を作り、祭りなどの行事の日取りを決め、農業などの運営もそれによるところがあっただろう。    近年もまだ、国家の役職として天文官のようなものが設置されている国もあるようだし、インドなどでは(今もどうかはわからないが、すくなくとも近年まで)占星術が大影響力を持っていたらしい。  動物や虫などもやはり天文というか、月の満ち欠けにあわせて行動したりすることがある。  「星」なんていままで自分の行動原理になりえるはずもないものだったけれど、ちがった角度で再検討してみると面白いかもしれない・・・。  注:占星術などの占いなどの類を信じるなどという意味ではありません。あくまでも思想的に考え直してみるということで。 念のため。

理想郷

定方晟『須弥山と極楽』を読んだ。 須弥山と極楽―仏教の宇宙観  仏教の世界観がまとめられていてとても充実した内容。  最後のほうに、極楽の表現について触。  「・・・「受験地獄」や「通勤地獄」は地獄の象徴的解釈の例だが、最近新聞でみた「カネミ地獄」という名称はもはや象徴の域を越えているようである。 これと対比して仏教の極楽も、その真実性を回復してくる。極楽には花が咲き、鳥がうたい、せせらぎがあるという。われわれはこれを単純な考えとして描写した。だがわれわれはそれらを失おうとしているいま、真にそのようなところこそ極楽であることを認識しはじめているのではないだろうか」(192頁)    そうなのだ、極楽は理想郷なのだ。    あらためて理想の風景を考えてみた。  目を閉じると浮かんでくる。  僕は山があって、川の水がきれいで、食べ物がおいしくて・・・  決して生活のために自然を破壊したりするような形ではないはず。  ずいぶん今暮らしている環境と違うものだ。  そして、街がかわっていこうとしている方向とも。  でもその中で暮らしていかねばならないのだ。    

囲碁

初法座の後、お参りされていたIさんと碁を打つことに。 食事後、Iさん宅に押しかける。 親族以外と碁を打つのは初めて。 ��氏もブログに掲載していてくださっている。 そういえば、龍谷教学会議という学会で、富山にいったとき江戸時代の学僧(学問をされていた僧侶)の掟が書かれたものを見せていただいたことがあるが、その中に「朝碁をしてはいけない」というものがあったなぁ。  はまりだすと勉強しなくなるからか。  いけないことをたくさんしている。いまのわたくし・・・。

初法座

西正寺「平成一九年初法座」を勤めました。 雨ということで、出にくい中お参りにきてくださる方々。頭が下がる。  とりあえず、今回は、下の三冊からインスパイアされたことをお話したのです。、もちろん平易に心がけて・・・。 宮田登著『冠婚葬祭』(岩波新書) 釈徹宗・内田樹著『いきなりはじめる浄土真宗』 釈徹宗・内田樹著『はじめたばかりの浄土真宗』 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  宮田登著『冠婚葬祭』(岩波新書)によると、お歳暮もお年玉も祭礼に関わるものであったらしい。  本来生活のいたるところにあった宗教行事が人間のみの世界で完結していくことは、いい面もあるかもしれないが、やはり生活がどこかしらドライな味気ないものになっていく原因ではないかと思う。 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  釈徹宗・内田樹著『いきなりはじめる浄土真宗』の中で、宗教について、一見無関係な二つの事柄をつなげる物語をもつことというような意(記憶をたよりにかいています)で指摘されていたことは、とても示唆的。  気をつけてみると、宗教的な物語は、われわれの身の回りに満ち満ちている。  それは、悪しき迷信である場合もあり、一方では、心の豊かさを担保するものでもあるのだ。 ��・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

口内炎

歴代何位かにはいる痛みをもつ口内炎が発生。 頬の裏にできていたのは、たいしたことないけれど、下唇の裏にできる口内炎は痛いのか・・・? 生活の乱れが原因!? 「ケナログ」という、かな~り前に耳鼻科でもらったクスリを塗って寝たところ少々痛みが軽くなる。 これ→ http://health.yahoo.co.jp/medicine/2/2399707M1030/ ん!? ん!? ステロイドじゃないか!! 忘れてた・・・。よく効くはずだ。気をつけよう。--

『大乗大義章』

 今日は午後からスタバで、勉強。  一度いくと、2~3時間はできるので、家でするより集中してできる。  冬休みの間に『大乗大義章』という文献にもう一度目を通そうとしている。  あらためて読むと、新しい発見があるものだ。  『大乗大義章』が『論註』のバックグラウンドになっているということは、読めばわかる。読んだら、おそらくそうなんだろうということが実感できた。  特に阿羅漢の成仏についての問題が議論されているところでは、『論註』との関連が予想される箇所がちらほら。  明日くらいに中巻を終える。

鐘つき

 サイトを見ていると、時々面白いものがあります。  鐘楼が阪神大震災で倒壊して以来、除夜の鐘がつけず、少々さびしい年越しが続いています。すっかりもう、年も明けてしまいましたが、   「鐘つきサイト」1月31日までです。   http://event.sankei-digital.co.jp/nenmatsu-2006/jyoya/jyoya.html   

ブラインド

 部屋のブラインドはここ数年壊れている。  直そう直そうと思いながら、サイズがない。 結局今日も見つからず・・・。  いつ直るのか・・・。  昼下がり、和食レストラン「さと」にいく。  最近行きつけの「すかいら~く」は、お客さんが多いようで遠慮。  コーヒーとアイスクリームにて2時間ほど滞在。  お正月は、家族で鍋などを食べに来る人の多いこと。多いこと。  お正月は家族そろって外食ということかな。  そんな中に、一人漢文広げて読んでる30歳がひとり。    そんなお正月の過ごし方。  明日は、母の里に行きます。

あけおめ。

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいいたします。 さて、今年のお正月は、いつもくる親戚さんがこなかったこともあって、かなりさびしいお正月。なんにもイベントがない。 というわけで、生まれて初めて、元旦に外出。 伊丹・ダイヤモンドシティに買い物。 通勤用の新しい靴を一足購入。普段用の靴もついでに一足。  昨日今日と文献を読まなかった・・・。 明日は読もう。。。

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